2019年7月10日水曜日

唯一の救い

 あなたにとって、イエスさまはどういうお方でしょうか。救われる前、私はイエスさまのことは、よくできたお話だと思っていました。
 ところがイエス・キリストの御名(みな)は世界中に知れ渡っており、この信仰は現在も多くの実を結び続けています。死人がよみがえり、病がいやされ、サタンの縛りからの解放がイエスさまのお名前によって今なおなされています。
 イエス・キリストは、神のひとり子です。神さまは私たちを愛するが故に罪や死から私たちを贖(あがな)い出そうと救いの計画をお持ちでした。そこで、今から約2000年前にイエスさまがこの世にお生まれになったのです。イエスさまはおよそ30歳で公生涯に立たれ、多くの病人をいやし、悪霊に制せられている者を解放し、神の国の到来を告げ知らされました。
 そして3年半の後、イエス・キリストは十字架にかけられ死なれました。イエスに期待した者たちは望みがついえ、悲しみます。
 しかしその死が何よりも大きな勝利であったのです。イエス・キリストの死は、私たちの罪が贖われるための代価であり、私たちはこれによって救いを受けたのです。
 さらに、イエスさまは3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めるなら、もはや罪に定められることはありません。私たちは永遠のいのちを持つようになったのです。
 コリント人への手紙第一1555節には「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と書かれています。主は死に打ち勝たれました。イエスさまを信じるなら、もはや死を恐れることはありません。十字架という代価を払って主は私たちをご自身の元へ買い戻してくださいました。イエスさまこそ唯一の救いです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月14日号(第1050号)より転載—

2019年7月3日水曜日

 

 イエスさまは、公生涯においてさまざまな奇跡を行われました。その中で、5000人の給食として有名な奇跡が各福音書に記されています。ヨハネの福音書6章をご覧ください。
 大勢の人の群れがご自分の方に来るのを見て、イエスさまはまず弟子のピリポを試して言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5節)。頭の良いピリポは、概算して言います。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリ(労働者の200日分の給与)では足りません」(7節)。これは、ピリポにとって思い付く最高の金額でした。しかし、それでも足りないと分かっています。計算不能。これがピリポの答えでした。
 次いでアンデレがイエスさまの所にやってきて言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9節)。彼もまた足りないことを承知の上で、パンと魚を差し出してイエスさまを待ちました。
 そこでイエスさまは、群衆をすわらせ、パンを取り感謝をささげてそれを分け、魚も同じように欲しいだけ人々に分けられました。その上で、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。アンデレが「それが何になりましょう」と語った五つのパンと二匹の魚から、万という数の人々が食べ、また養われました。これは、奇跡です。
 こういう訳で、私たちもまた、神さまに信頼して信仰を働かせていきましょう。たとえ、あなたの持っているものがわずかなものであっても、またあなたに力や能力が無くても、持てる全てのものをキリストにささげ、より頼むなら、必ずイエスさまは全能の御腕(みうで)をもってあなたを受け取り、栄光を現してくださいます。信仰のあるところに奇跡があります。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月7日号(第1049号)より転載—

2019年6月26日水曜日

狭い門

 終わりの時代のリバイバルの働きのため、再臨に至るまでの神の働きのため、これら二つを担うべきビジョンとして、私たちの教会は1984年41日に東京都国分寺市に産声を上げました。
 集められたのは、一風変わった人ばかりです。マルコの福音書1210節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」というみことばがあります。その通り、集まった人たちは他の所でやっていくことができないような、ならず者ばかりでした。にもかかわらず、彼らを土台として教会形成が始まりました。
 神さまのお心は、リバイバルにありました。リバイバルの器にしてあげようという神の招きは広くいき渡り、ならず者たちはそれを信じ、人生をささげたのです。
 それから30数年。30年はちょうど一世代に当たります。待たされ、試され、去って行った者もあれば、神の助けを頂いて残った者もありました。イエスさまは、マタイの福音書2214節で「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と語られましたが、その通りに、わずかな者だけが残りました。
 また、同7章でイエスさまはこう語られました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(1314節)
 門とは、入り口です。私たちにとって選びやすいのは広い門です。多くの人が広い門から入ります。しかしこれは滅びに至るのです。
 一方、いのちに至る門があります。その門は小さく狭く、まさかこれがと思うような門です。それはイエスさまです。イエスさまを通して私たちはまことのいのちを受けます。イエスさま以外に救いはありません。狭い門から入りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月30日号(第1048号)より転載—

2019年6月19日水曜日

自己実現と自己否定

 私が成人を迎えた頃は、ちょうど「キャリアウーマン」という語が世に出てきた時代で、その流れで「自己実現」ということが大きく人々の関心を引いた時でもありました。
 自己実現という言葉は、自尊心をくすぐる甘い誘惑でした。その頃私はすでにクリスチャンでしたが、すっかり惑わされてしまい、クリスチャンライフもまた、自己実現の一つだと考えるようになりました。突き詰めてみるとそれは私のためにイエスさまがあるというスタンスで、自分に死んで「イエスさまに聞き従う」という、イエスさまによる「自己実現」とは正反対のものであったのです。
 イエス・キリストを、自己実現のための方策の一つとして捉え、イエスさまを、私の自己実現をなしてくださるお方として見たとき、神の恵みから外れました。それは、イエスさまでなく自分を主とする生き方であったのです。
 マタイの福音書に「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(1039節)という一文があります。これは、聖書にはよくあるのですが、逆説的な表現です。自分のいのちを自分のものとしないで、むしろ失うなら、いのちを得るというのです。聖書は自己実現よりむしろ、キリストにある自己否定である、「祈り聞き従い」を推奨し、世に死んでキリストに生きることを語っています。そしてそれこそが、イエスさまが下さる本当の、神による自己実現です。
 私たちは、試されます。キリストに名を借りて、多くの人が自分の生き方を主張し、それを実現しようとします。しかし、人間にとって最も大切なことは自分に死に、神に対して生きることです。神に従うことこそが、本当の自己実現なのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月23日号(第1047号)より転載—

2019年6月12日水曜日

 

 中学生の頃、母の代理で、ある新興宗教の総本山へ行きました。強烈な体験でした。自分と同じ年代の者たちが熱心に信心している姿を見て、私も思い切って信じることにしました。
 大きな偶像を前にいろんな作法を教えられました。寝る時、偶像に足を向けてはならないとか、偶像の置かれている部屋は素足で入ってはいけないとか。また、お経が伝記のように読めるので意味を尋ねると、お経はありがたいものなので、理解するものではないと言われました。
 先祖親族の供養が勧められ、1人につき幾らという供養料を払い、お勤めを欠かさぬよう指導されます。とにかくお金がかかりました。今から思えばこれら全ては宗教ビジネスであったと思います。地獄の沙汰も金次第。希望をちらつかせてはいるものの、宗教は何をもって救いを確約できるのか、その点が曖昧です。
 それに対して神は、栄光を輝かせられました。神は、生まれながらの罪人でやがて死んでゆくはかない私たちを愛しあわれみ、ご自身のひとり子なる神イエス・キリストを下さいました。イエス・キリストは、私たちを救うために私たちの罪を贖(あがな)うため、2000年ほど前にこの世に来られ、十字架の死を遂げられ3日目に復活されました。ここに私たちの贖いは完了し、以来この福音を信じる者は誰でも皆、無条件で救われます。
 使徒の働き4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。
 偶像は人から出、人が作ったものです。しかし本当の救いは、真の神から出ました。むなしい偶像を捨て、真の神、イエス・キリストに立ち返りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月16日号(第1046号)より転載—

2019年6月5日水曜日

賛美の力

 賛美は強力な力を持っています。1983年1218日、杉並区高円寺にあるキリスト教会の一室で私は神さまに立ち返りました。
 牧師が祈ってくださったのですが、祈られると不思議なことに私の体が右へ右へと押されるのです。ついには畳の上に身を投げ出してしまいました。ややあって、何ばかな事をしているのだ、と立ち上がろうとした瞬間、聖霊に打たれました。
 幼い頃、日曜学校で歌っていた「いつくしみ深き」の1節が、突如私に触れました。「などかは下ろさぬ負える重荷を」。お前はどうして負っている重荷を下ろそうとしないのか? そんな言葉とメロディーに触れられ、その日、私はみ父の元に帰りました。
 その頃はちょうど、アメリカのリバイバルソングが、日本でも歌われるようになっていた時でした。中でも「シングハレルヤ」という歌は、シング・ハレルヤ・トウ・ザ・ロードという言葉を繰り返すだけです。しかしそのメロデイは絶妙で、涙ぐんでしまうような深いご臨在がありました。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」という一文があります。私たちが賛美によって触れられるのは、賛美の中に神ご自身が住まわれているからに他なりません。計り知れない強力な力が賛美にはあります。
 1989年8月、ダバオで、オーストラリア人宣教師のジャッキー・ハミルさんが殉教しました。銃撃戦の中で後ろから銃で撃たれ即死の状態でした。にもかかわらず彼女は、20分ほどその場で賛美をささげていたといいます。そして最期に、大きく息を吐いてイエスさまの所に向かいました。
 賛美は、生ける神が人に与えてくださった最高のささげものです。賛美を通して私たちは大胆に神に近づくことができるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月9日号(第1045号)より転載—

2019年5月29日水曜日

逆転勝利

 新約聖書のコリント人への手紙第二12章に、興味深いことばがあります。パウロが語ったことばで、「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(9節)とも、「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(10節)とも、書かれています。
 私は、このことばを知れば知るほど、自分の人生観が変わってきたことに驚いています。弱さは決してマイナスの要因ではなく、むしろ神が働かれる土台、祝福を受けるポイントとして用いられるのです。あわや、という状況の中で幾度も神による逆転勝利を見てきました。
 私の住む旭川市は、旭山動物園で有名になりました。廃園寸前のところにいましたが、そこから盛り返したのです。画期的な運営は成功し、日本の動物園全体に大きな影響を与えました。
 私の両親は離婚寸前、突如父にガンが見つかりました。そこから父母は離婚を止め、力を合わせて闘病しました。離婚するはずの2人でしたが、病院でおしどり夫婦として有名になるほどの大逆転が起きました。
 さらに、教会のキャンプ場として、白馬に素晴らしいホテルが開かれていますが、これも元をたどれば、ヤングキャンプの場所がない、という絶体絶命からの大逆転でした。
 イエスさまの生涯もまた、逆転勝利といえるのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で息を引き取られた時、サタンは神のひとり子を殺したと有頂天になっていたでしょう。しかし、神はイエスさまを死からよみがえらされました。全てがひっくり返ったのです。
 他にも多くの逆転勝利を挙げることができます。ですから問題を恐れないで、イエスさまを信じて神さまに期待しましょう。神さまにおできにならないことは一つもありません。これから神による逆転勝利があなたの内にも起こります。 (イスラエル北野)

み声新聞2019年6月2日号(第1044号)より転載—

2019年5月22日水曜日

霊の世界

 「令和」という時代になって、多くの人が御朱印を求めて寺社に並んでいる様子をテレビが伝えていました。御朱印というのは、寺社仏閣に参拝したことの証しに求めるもので、日付と寺社名が筆で書かれ、赤い印が押されたものです。御朱印を頂くことは、その寺社との霊的な関係が結ばれたことを意味するといいます。
 私は、四国出身です。四国は「四国八十八箇所」という弘法大師が開いたとされる
88
の霊場を巡礼するお遍路さんで有名です。私の家族親族もこれに帰依して家には大きな額縁がありました。88の御朱印を一つに集めて額縁に仕立てています。とても高価なものです。
 さて、ある時、父が病を得、大きな手術をしなければならなくなりました。何とか助かってほしいと願った母と妹と私はこの額縁を捨てることにしました。父は激怒するでしょう。しかし、命には代えられません。聖書では、悔い改めて高きところを取り除くと、神が祈りに心をとどめられ、あわれんでくださったという記述があるので、偶像を取り除き神にあわれみを請う、もう私たちにはこれしかありませんでした。
 手術は成功しました。術中父は、夢なのか現実なのか白い雲に乗って天国に行ったと言います。予定より早く手術は終わり、医師も肝硬変には違いないがまだ大丈夫だと、早くもいやしさえ始まっていました。私はこれが、額縁を処分したことと深く関わっていると信じています。御朱印によって付けられた悪霊との関係が断ち切られ、キリストの支配のうちに入ったのです。
 世の中には、見えるところによらない霊的な世界というものがあります。特にいやしでは顕著にそれが現れてきます。悔い改め神に立ち返るなら、あなたは永遠のいのちを得ます。救いはキリストのうちにあるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月26日号(第1043号)より転載—

2019年5月15日水曜日

弱 さ

 罪はいろいろありますが、「高ぶり」は人が最も陥りやすい罪だと思います。自分を高くしてしまうとまず元に戻ることはできません。私もこれで幾つか手痛い失敗をしました。
 使徒パウロは、ユダヤ人社会のセレブです。誇れるものはたくさんあります。にもかかわらず彼は、コリント人への手紙第二12章5節で「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」と告白しています。
 何があったのでしょうか。7節ではこう書かれています。「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」
 パウロが主から受けた啓示があまりにも素晴らしいものであったので、高ぶることがないよう、神はパウロに肉体のトゲを与えました。一説では病気であるといわれています。このトゲはパウロに絶えず弱さを思い起こさせるものとなりました。またパウロは、3度、これを私から去らせてくださいと神に願いました。しかし、神は「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と語られました。
 世は弱さを恥とします。しかし、神の前では弱さは恵みであり祝福です。なぜなら、弱いところには神が働くからです。
 それを悟ったパウロは「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語りました。神は、私たちの弱さを、恵みによって、強さへと変えられます。
 イエスさまを信じましょう。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(10節)ということばは、あなたの上にも必ず成就する、神の恵みのことばです。 (イスエル北野)

み声新聞2019年5月19日号(第1042号)より転載—

2019年5月8日水曜日

救 い

 大学生の時、友人に連れられてMキリスト教会に行きました。実は小学校の時に日曜学校に通っていたので、教会は初めてという訳ではありませんでした。それから数年、大学で心理学を学び、そこにこそ解決があるように思い高ぶり、キリスト教は(宗教は)もう卒業したと豪語する者でした。M教会では、何名もの方が親切に声を掛けてくださいました。しかし話をすると、皆一様にあなたのような人は救われないだろうと言い、私自身もそう思っていました。
 ところが、神の愛と恵みによって私は救われたのです。その日、M教会の一室で祈った時、聖霊さまのご臨在に触れ、神の元に帰りました。全てが一変しました。見るものも触れるもの全てが新しく、心に大きな喜びが注がれました。
 人を救うのは神です。自分の力でも人の力でもありません。神の恵みです。ですから私は無条件に救いにあずかりました。どんなかたくなな人であっても、神さまにはおできにならないことは一つもありません。ですから、広く救いを求めていただきたいのです。
 使徒の働き1631節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と書かれています。このことばは真実で、私が無理だと諦めていた家族親族が次々に信仰に入りました。救いは絶対に無理と思われた迫害の人・父さえも、妹を通して救われました。驚くことに、信仰に入ることを強く反対しているような人ほど、救われると一変して、猛烈に神さまに仕えるようになります。使徒パウロがその一例です。
 家族の救いは神さまの約束です。私たちに必要なのは、主イエスさまを信じること、ただそれだけです。主の恵みは深いのです。あなたもあなたの家族も救われます。主イエスを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月12日号(第1041号)より転載—

2019年5月1日水曜日

赦された罪人

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章には「私たちの兄弟たちの告発者」という一文があり、サタンは
私たちを神に告発するものです。
 サタンは、やがては自分が滅びることを知っているので、神に愛されている人間をとても憎んでいます。あわよくば地獄に連れて行きたいと、私たちの罪を激しく糾弾して、神に訴えているのです。
 サタンは巧妙に自分を隠します。サタンなんているはずがないという思索を吹き込んでいるので、私も未信者の時にはそう信じていました。しかし、いないなんてとんでもない、それこそが最大の惑わしです。
 そもそも、サタンは大うそつきです。創世記3章で、蛇(サタン)はエバを惑わしました。神さまは人に「善悪の知識の木」から取って食べてはならない、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と語られました。しかし蛇は「あなたがたは決して死にません」と大うそを語って、エバを惑わし、結果、人類に死が入りました。
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世紀の今でも、昔同様、サタンは暗躍しています。しかし、イエスさまが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったので、サタンはもう敗れています。
 キリストを信じる私たちは罪の赦しを頂いたので、全てさばきは無効となりました。罪人であることには変わりありませんが、私たちは赦された罪人です。そして神に愛されているのです。
 あなたも神を信じ、祝福を受けましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月5日号(第1040号)より転載—

2019年4月24日水曜日

口にする言葉

 舌、つまりは私たちが口にする言葉は、コントロールするに困難なものです。箴言に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(1821節)とあります。語る言葉は命にもなるし、死にもなります。どちらを選ぶのかは人に任されています。悪い言葉は悪い事をもたらし、良い言葉は良い実を結ばせます。
 言った言葉を取り返せないのが失言です。つい先日、某復興大臣が辞任しました。党員の応援演説の席で、口が滑って被災者の方々より選挙の方が大切であるかのように語ってしまいました。言ってしまったら最後、もう取り返しは利きません。結局大臣は辞任しました。
 私も先日、娘を泣かせてしまいました。娘が嫌がることを嫌がるタイミングで、つい口にしてしまったのです。気を付けてはいたのですが油断して無意識のうちに失言しました。娘の涙を見てはっと気付きましたが後の祭りです。大概にして傷つける方は何ともないです。しかし傷つけられた方は、心の痛みに懸命に耐えているのです。
 人の舌は心にある隠された本音を語ってしまうものです。語ってしまったら最後、慌てて取り繕うとしてもぼろが出るばかりです。しかし、神に感謝です。悔い改め、主にすがるなら、主は私たちの全ての罪を赦し、そして全てを益に変えてくださいます。
 私たちが祝福の言葉を語るなら、相手も私たちも祝福されます。しかし、否定的な言葉を語るのなら、失うばかりで、何も良いものを得ることはありません。それ故、語るなら、自分も周りの人たちも祝福され、豊かになる言葉を語りましょう。
 イエスさまを信じて救いを得、神さまに求めましょう。神さまが私たちに下さるのは、愛といのちのことばです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月28日号(第1039号)より転載—

2019年4月17日水曜日

あなたを知っている方

 「自分のことを一番よく知っているのは自分だ」。よくこんなことを言う人がいます。本当にそうでしょうか。私はむしろ人の一生は、自分を知るための旅であるように思います。
 伝道者の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という一文があります。神は創造者です。神が私たちを造りました。ですから、自分が何者であるかということは、神に聞くのが一番です。しかも若い時にと、ここには書かれています。
 具体的に話しましょう。バスケットボールと時計があります。バスケットボールは飛び跳ねる物として神は造られました。バンバン床に弾むことがバスケットボールの栄光です。それを見ていた時計は、自分もまた床にバンバン打ち付けられることが栄光の現れだと思ってしまいました。そこで、床に身を打ち付けると、時計は精密機械だから、ひどく壊れてしまいます。
 人との比較によって自分を知ろうとすると、こうなります。時計の栄光は、正確に時を刻むことにあります。バスケットボールにならって床に打ち付けようものなら、それは時計としての自殺行為です。
 父なる神さまは、私たちを愛された故に、ご計画をもって私たちを造ってくださいました。私が何者であるのか、その答えは創造主である神さまのうちにあります。
 私たちの人生の完成は、神抜きにしてはあり得ません。私たちは皆、意味や使命をもって神によって造られたのです。神に立ち返り、神に聞くなら、神さまはあなたのために立ててくださった計画を教えてくださいます。エレミヤ書33章3節にはこう書かれています。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月21日号(第1038号)より転載—

2019年4月10日水曜日

いやし
 宗教といやしは密接な関わりがあります。小さい頃、月詣で山岳信仰の寺院によく連れていかれました。一角に祠(ほこら)があり、たくさんのギプスやつえが奉献されていました。おそらく、いやされた人の物でしょう。興味深いことに、宗教はどの宗教も病のいやしをうたっています。
 キリスト教においても病のいやしはあります。むしろキリスト教の方が本家です。イエスさまが世に来られ宣教をされた時、多くの病人や悪霊につかれた人がいやされ、解放を受けました。救いの道筋を作るにあたって、いやしの働きは大いにそれを助けました。
 キリスト教のいやしの根拠は、イザヤ書53章のことばにあります。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)このことばが、今なお生きて人をいやすのです。彼というのはイエスさまです。イエスさまは約2000年前にこの世に来られ、神の国の到来を告げ知らせ、多くの人をいやし、死人をよみがえらせました。最期には十字架によって私たちの全ての罪を担い、死んでくださいました。そして、3日目に死者の中からよみがえりを果たされたのです。このイエスさまの、み苦しみを引き換えに、私たちはいやしを受け、また永遠のいのちを受けるのです。
 先日、急に妹がぎっくり腰になりました。仕事があるので休めず、牧師である母に祈ってもらうと、患部が熱くなり痛みが消えたと言います。神さまは今もいやしてくださいます。詩篇103篇3節にも「(主は)あなたのすべての病をいやし」と書かれています。私たちが健やかでいることは神さまのみこころです。
 こういう訳で、イエスさまを信じましょう。そして求めましょう。イエスさまは病をいやし、永遠のいのちを与えてくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月14日号(第1037号)より転載—

2019年4月3日水曜日

「死」と「無」

 死んだらどうなるのだろう、誰もが問いたい疑問です。天国に行く、地獄に行く、「無」になる、いろんな人がいろんな考えを持っています。特に「無」になるという説は、今風で魅力的です。俳優のMさんは、自分の墓石に「無」と刻みました。死んでしまったら、自分は「無」になるのだと信じてのことでした。
 私もまた、死ねば「無」になると思っていた時期がありました。
 10代の頃、自分を否定する思いが高じて、何度か死のうとしました。確かに死ぬと肉体はちりに帰ります。しかし、ものを考え判断するこの私自身は神が造られたものであり、そういう意味では人間は霊的な存在です。死んだとしても、「無」になることはありません。私が自殺をやめた最大の理由は、そこにあります。死んでもその「死」は、地上の命が終わったことを意味するだけで、「無」になるわけではない、と知ったからです。
 「死」や「無」はよく同列に論じられます。しかし「死」は決して終わりではありませんし、あなたという存在は、「無」にはなりません。私たちは神の前に神に対して生きているのです。コリント人への手紙第一15章に「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」(5455節)と書かれています。死のとげはクリスチャンには効き目がありません。それどころかイエス・キリストを信じる者は皆、復活するのです。
 イエス・キリストを信じるなら、パラダイス(天国)です。「無」でもなく、「死」でもありません。私たちは永遠に神とともに生きるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月7日号(第1036号)より転載—

2019年3月27日水曜日

いやしと聞き従い

 列王記第二5章に、ナアマンという将軍が登場します。彼はアラムの王の将軍で、主君に重んじられ、また人々に尊敬されていました。ただ、彼はツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。
 彼の妻の下女が、サマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっとツァラアトを直してくださるでしょう、と言ったところから、ナアマンは、馬や戦車をもって預言者エリシャの家を訪ね、入り口に立ちました。エリシャは、彼に使いをやって言いました。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(10節)
 これを聞いてナアマンは激怒します。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川は、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」(1112節)
 長年の闘病生活の中で、ナアマンは自分の病のいやしに関して既に固定したイメージを持っていました。ですから、姿さえ見せずに、使いをやって一方的に言葉を伝えただけのエリシャの対応に心底から怒ったのです。
 帰ろうとしたところ、家来の1人が彼を助けました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことを命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」(13節)
 そこで、ナアマンは思い直して下って行き、エリシャの言った通りにヨルダン川で七たび身を浸すと、彼のからだは幼子のからだのようにきよくなりました。ナアマンは、エリシャが語った「神のことば」に従った時、いやしを見ました。いやしのポイントは、実は聞き従いにあるのです。神のことばを受け、従うこと。これがいやしの秘訣(ひけつ)です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月31日号(第1035号)より転載—

2019年3月20日水曜日

よみがえり

 マルタとマリヤの姉妹は、兄弟ラザロの病を案じてイエスさまに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
 これに対してイエスさまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」(ヨハネの福音書11章4節)とお答えになりました。
 イエスさまは、既にご自分がなすべきことをご存じでした。それは死者のよみがえりです。ラザロが死んで4日たち、望みが絶たれた頃、イエスさまは墓に着かれました。そこで、大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれると、死んでいた人が布切れのまま出て来ました。ラザロはよみがえったのです。イエスさまの言葉通り、病や死に打ち勝った神の栄光が勝利のうちに現されました。
 そして、イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(2526節)と語られました。
 死に対する勝利がここにはあります。死は人類の最後の敵です。ラザロのよみがえりは、後に来る、イエスさまの復活の先取りといえます。それゆえイエスさまは私たちに先立って、死からのよみがえりを果たされました。
 イエスさまは、ご自身死者からのよみがえりを果たすことを通して、救いの道を完成されました。こういう訳で、私たちはもはや死を恐れることはありません。あなたに関する全てを主イエスは成し遂げてくださいました。病もまた、栄光のうちに良きものに変えてくださいます。イエスにつく私たちもまた、イエスさまにあって死からよみがえります。イエス・キリストの元に帰りましょう。      (イスラエル北野)

み声新聞2019年3月24日号(第1034号)より転載—

2019年3月12日火曜日

希望は天にあり

 今年もまた春がやって来ました。桜の花をめでながら、天に帰って行った父を思い出します。1999年4月19日に父は肝臓がんで地上での生涯を終えました。55歳でした。父のがんは進行が速く、闘病生活は2年に満ちませんでした。
 父の病気に関して、神さまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書114節)ということばを下さっていました。 
 現状が現状なので、「死」ということばにはドキリとしました。また、栄光とは一体何が起こるのか、その意味するところを理解できませんでした。 
 幸いなことに、父は入院前に妹を通して救われていました。病は父の信仰を立て上げました。病状が進む中、父は一切愚痴を口にせず、激烈な痛みにじっと耐え、助けてくださる方々に感謝の言葉を語り、最期までイエスさまのいやしに期待して闘病生活を全うしました。父は勝利の凱旋(がいせん)を遂げ、私たちは確かに神の栄光を見ました。
 目には見えませんが、教会にはイエス・キリストがおられます。イエスさまは病をいやしてくださいます。私たちが健康であることは神のみこころにかなうことです。ですから、大胆にいやしを求めて良いのです。そしてその通り、多くの人が祈り、がんが縮小したり消滅したり、神の奇跡と栄光の現れを見ました。
 しかし、いやしを受けながらも、結局は亡くなってしまうこともありました。それは、病のいやしは、究極的には天において復活のからだを頂くこと、すなわち「救い」にあるからです。
 私たちの希望は天にあります。天の報いこそ、私たちの永遠の取り分です。病のいやしもさることながら、天への希望こそが、神が私たちに約束されたご自身の栄光です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月17日号(第1033号)より転載—

2019年3月5日火曜日


父の愛

 ルカの福音書15章に、放蕩息子のたとえと呼ばれる箇所があります。登場人物は、神さまを指す父、優等生の兄、そして出来の悪い弟の3名です。
 ある時、弟は財産分与を父に願い出ます。父はそれを聞いてやりました。すると、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 その地で彼は、放蕩の限りを尽くし、湯水のように財産を使ってしまいました。そこへ大飢饉(ききん)が起こり、食べるにも困るようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せたところ、彼を畑にやって豚の世話をさせました。ユダヤ人にとって豚の世話は忌み嫌われている仕事です。しかも、彼がどんなに空腹であっても、誰も彼に食べ物をくれず、豚が食べている豆で腹を満たしたいほどでした。
 悩みを受けて、彼は父とその国とのことを思い起こします。彼は決意しました、帰ろうと。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」。こう語るつもりでした。ところが、まだ家から遠かったのに、父は彼を見つけました。かわいそうに思って走り寄り、彼を抱き、口づけしました。
 父はこう言います。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」。父は、彼を再び子として迎えてくださったのです。兄は、放蕩ざんまいで身を持ち崩した弟に祝宴を設ける父に不服でしたが、父は、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と言いました(1132節参照)。
 神さまは、たぎる愛をもって、あなたが帰ってくるのを待っておられます。み父の元に帰りましょう。神はあなたを、愛する子として迎えてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月10日号(第1032号)より転載—

2019年2月27日水曜日

老いにあっても

 私は50代の主婦です。若い頃の自分が考えていた50代というのは「年寄り」のイメージでした。しかし、いざ自分が50代に踏み込むと、心はとても若いのです。自分を「年寄り」として認めるにはまだ早いかな、と思います。
 昔は還暦といえば長生きした方で、60歳になると、よくここまで生きてこられましたね、と赤いちゃんちゃんこを着て祝いました。そこから見ると今の日本は、押すに押されぬ長寿国になりました。昔の60歳と今の60歳では大きく異なると言われています。
 とはいえ、寄る年波には勝てずと言います。加齢とともに少しずつ不自由になっていく身体に向かい合う中で、余生をいかに生き、いかに人生の幕を下ろすかということを思わない人はいないと思います。
 イザヤ書40章にはこのように書かれています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(3031節)
 また申命記34章には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とあります。
 聖書が言う、たゆまぬ力、はどこから来るのでしょう。それは神から来ます。ですから、キリストを信じることがとても大切です。神を信じ、神の御声に従うこと、それが力だと聖書は語っています。神が下さる力は、肉体の若さ以上に優れて偉大です。主を待ち望むことは私たちの力です。
 アブラハムもモーセも、年を取ってからその人生のクライマックスを迎えました。神にあって彼らは壮健でした。私たちもまた、イエスさまを信じてイエスさまに従う人生を行きましょう。神とともに歩む人生には、神の力が注がれます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月3日号(第1031号)より転載—

2019年2月20日水曜日

期待する心
 
 クリスチャンライフの中で最も重要なものは信仰です。ところが私は、信仰と聞くたびに苦手意識が頭をもたげます。敵の攻撃なのでしょうが、私は不信仰だから何も起こらないだろうと、信仰の不足を責められているように感じていました。
 信仰とは何でしょう。確かにいろいろな意見があるとは思いますが、私は「期待する心」だと思います。例えば聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイの福音書7章7節)という約束があります。この一文を読んで、そうだ、と期待する心を持って近づくなら、そこに信仰が働き、神さまの手が動きます。神さまは、約束を果たされるお方ですから、その約束は必ず実現します。
 しかし信じていない人はどうでしょう。それらの人々は、初めから期待などしていません。ですから祈りもしません。結果、何の神のわざも見ないのです。不信仰は、期待しない心の成れの果てです。
 願うこと、求めることは、信仰によります。信じていない者がどうして祈ることができましょう。神は答えてくださると信じたその信仰だけが、神の約束を確かなものにするのです。願うこと、求めることは、信仰によります。それ故、私たちは期待する心をもって神に近づきましょう。信じるなら、私たちは等しく神の御手(みて)が動くさまを見ていきます。
 こういう訳で、期待するということはとても重要なことです。そこには信仰が伴うからです。信仰と行いは密接な関わりがあります。結局、人の一生は、何を信じるかによって決まります。ヨハネの福音書2027節には、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と書かれています。これはイエスさまが弟子トマスに語ったことばです。神のことばを信じ、期待し、信仰の実を結びましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月24日号(第1030号)より転載—

2019年2月13日水曜日

曲がった時代
 先週は、千葉県野田市の小学4年生の女児が、父親から虐待され死亡したという事件でもちきりでした。
 他にも記憶に新しいところでは、2018年3月に、目黒の5歳児の虐待死がありました。食事を与えられず、衰弱死した女児ですが、就学前なのに平仮名を学んで、必死に書き残した文面はたどたどしく、「もうおねがいゆるして」の文字は多くの人の涙を誘いました。それでも最後まで親に子どもらしい信頼を寄せていることが文面にうかがえ、なお、悲しい事件でした。
 子どもだけではなく、高齢者にも社会のしわ寄せがきています。
 テレビで見たある老夫婦は、わずかに残った全財産を引き出して、死出の旅に出ました。ちょっとぜいたくな旅館に泊まり、チップまで置いて過ごしました。やがてお金が尽きると、2人はあらかじめ決めていた通り、日本海で入水(じゅすい)自殺をはかり、生涯を閉じました。どんな気持ちで最期を迎えておられたか察するに余りあります。
 政治家のHさんは以前、お金がないことが分からない、というようなことを言っていました。よく億単位のお金が母親から小遣いとして振り込まれるといいます。これを聞くと、日本は中流意識が高いと言われたのも過去のことで、今は、一握りの富裕層と大多数の貧民、という格差社会へと向かって移行しているように思います。
 時代は変わりました。マタイの福音書24章は「小黙示録」と呼ばれ、特に終末の事が書かれています。その中で12節には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれています。確かにその通り愛が冷えているのを感じます。
 ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2章40節)と語りました。主イエスを信じ、救いを受けましょう。(イスラエル北野)
み声新聞2019年2月17日号(第1029号)より転載—

2019年2月6日水曜日

ライト(光)

 あと2年で私は、父が召天した年齢になります。父が結んだ実は多岐多様で、私など及ぶべくもない波乱万丈の人生でした。
 その日、父はゴルフ場で吐血しました。食道静脈瘤(りゅう)破裂です。病院に入院し、バルーンを調整して止血を図り、何とか一命を取り留めました。
 ヨハネの福音書1章に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)という一文があります。これは、強力なみことばで、父の枕元に立ってこの聖句をゆっくりと朗読すると、父を取り巻いているあしきものが一つ一つ消えて行きました。この聖句は、キリストの勝利のことばでもあり、このみことばを用いるにあたって神さまの勝利がどれほど大きいかを知るようになりました。
 聖書に触れる機会が少ない日本人は、無意識のうちに、神さまとサタンを同列に見ようとする傾向があります。けれども、それは誤りです。神さまとサタンでは、光と暗闇ほどの違いがあります。光と闇は別物で、決して両者が交わることはありません。神は全能者で、サタンは被造物なのです。どんなに深い闇であっても、そこに光が置かれるなら、たちまちにして闇は消失します。両者にはこれほどの違いがあるのです。
 ヨハネの手紙第一には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(1章5節)と書かれており、ここでも光の絶対的な勝利が記されています。イエスさまご自身もまた、こう語っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8章12節)
 今は、救いの時です。「あなたがたがに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月10日号(第1028号)より転載—

2019年1月30日水曜日

幸せにするために

 出エジプト記は、壮大なスケールで展開される聖書の一大巨編です。イスラエルの民はモーセのつえに従い、奴隷の身分から解かれ、エジプトを脱出し、神が与える約束の地カナンに向かいます。とはいえ、エジプトがそうやすやすと許す訳がありません。パロは、幾たびも心変わりをし、イスラエルを使役しようとし、追い掛けました。
 気付けば、絶体絶命のピンチが来ていました。後ろにはエジプト軍、前は海という状況となったのです。民は、この荒野で死ぬよりエジプトで奴隷であった方が良かった、とつぶやきました。しかし神は前進と語られたのです。モーセが手を海の上に差し伸ばすと海が二つに分かれ、海の底の乾いた道を民は行き、出エジプトの栄光が現されました。
 時折、私たちは、主に従ってきたのに、なぜこんな悪い事が起こるのかといったことを、つぶやくことがあります。悩みますが、それは神さまがあなたに対して、ご自身のご栄光の計画をお持ちだからだと思います。悪い事も良い事も、神は測って与えてくださいます。意味のないものは一つもありません。試練ですら神は祝福とされるのです。
 試練はさばきに見えますが、違います。試練は良きものです。愛から出ているからです。神さまは私たちを愛しておられるのです。親が子を愛するように、この霊の父もまた、私たちを子として愛するが故に、懲らしめたり悟らせたりするのです。
 神さま、なぜこんな試練をお許しになったのですか、という祈りをした時、申命記8章16節に答えを見付けました。そこには「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と書かれていました。あなたを幸せにするためにその試練は許されているのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月3日号(第1027号)より転載—

2019年1月23日水曜日

芸術家

 イタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロは、聖書からゴリアテに立ち向かう青年ダビデを彫刻で表現しました。「ダビデ像」は彼の代表作であり、目にした方も多いと思います。
 とかく芸術家というものは、凡人にはあずかり知れない感性を持つもので、彫刻に関して彼はこう語りました。「大理石の中に人が閉じ込められている。苦しそうだから早く出してやらないと
 私たちに見えるのは大理石の塊ですが、ミケランジェロには、その塊の中に完成されたダビデ像が見えていたのです。しかも、その大理石は、2人の芸術家がさじを投げたものであって、3番目にミケランジェロに回ってきた捨てられた石であったのです。そこから最高の芸術作品が生み出されました。神さまは、何と素晴らしいお方なのでしょう。
 マルコの福音書121011節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」という一文があります。これはミケランジェロの彫刻に通じる話ではないでしょうか。
 神さまは最高の芸術家(陶器師)で、私たちは土くれです。失敗したからといって失望する必要はありません。どんな事でも神さまにおできになれない事はありませんし、神さまは、常にあなたに最善を図ってくださるお方だからです。
 私たちは、誰もが罪を持ち、失敗があります。しかし、イエスを主と信じる私たちは、芸術家の手によって最善のものへと作り変えられるのです。芸術家、それは神です。ローマ人への手紙828節をお読みください。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束されています。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月27日号(第1026号)より転載—

2019年1月16日水曜日

振り返らずに

 イスラエルの死海を訪れた際、ロトの妻といわれる岩塩の柱を見ました。そのいきさつは創世記19章をお読みください。神がソドムとゴモラを滅ぼそうとした時、御使いはロトを助けようと、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と警告しました。しかしロトの妻は逃げる途中振り返ったので、塩の柱になってしまったというのがその由来です。
 聖書を読んでみると、神さまは、後ろを振り返ることがお嫌いであるようです。例えばイエスさまは、ルカの福音書9章62節で、家族にいとまごいさせてくれと請うた弟子に「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」とおっしゃいました。
 また、ピリピ人への手紙3章でパウロはこう語っています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。(中略)ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(1214節)
 過去に目を留めると足が止まってしまいます。パウロが語っているように、後ろのものを忘れるということはとても大事なことです。そして、ひたむきに前のものに向かうということはそれ以上に大切です。
 イザヤ書43章にはこのように書かれています。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか」(1819節)
 あなたの所にも今、確かに新しい事が起ころうとしています。後ろを振りかえらず前へと進む時がやって来たのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月20日号(第1025号)より転載—

2019年1月9日水曜日

 

 祈りは一つの原則で、祈りは決して一方通行に終わるものではありません。今日救いを受けた方であっても、イエスさまの御名(みな)によって祈ることができます。そして、そればかりではなく、祈りの答えを見ることができます。クリスチャン1年生であっても、信仰歴数十年といった人と同様の結果を見るのです。
 それは、イエスさまの十字架の贖(あがな)いによって、私たちが、罪なき者とされたからです。罪があると、罪は神さまと私たちの間を遮断しますから、例外はあるとしても、祈りは聞かれません。しかし、悔い改めるなら、神は全ての罪を赦してくださるので、神のみこころに沿った祈りは聞かれます。
 経験でもなく年数でもありません。信仰です。信仰を運用し、信仰によって神に近づくなら、誰であっても神は祈りに応えてくださいます。これは原則です。
 信仰と祈りは、切っても切れない関係にあります。というのも、信じていない人は、はなから祈ることをしません。どうせ無駄だと諦めているのです。反対に、祈りを知っている人は、確信を持ってどんどん祈るようになります。祈ること自体が信仰の行いとなるので、祈る者は祈りに応えられる神さまの現実を体験するようになります。
 問題の中にある人は多いです。しかし、その中で祈りを用いる人は思いのほか少ないのです。祈りは神が働く基盤です。日々の小さな事柄を祈れる人は、大きな問題が来た時でも祈ることができます。
 祈りは、主イエスを信じる私たちの特権であり、祈りは神の手を動かします。それ故、祈ることをお勧めいたします。
 マルコの福音書1124節にはこのように書かれています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月13日号(第1024号)より転載—

2019年1月2日水曜日

憎しみそして赦し

 世にある限り、恨みつらみは避けられません。私たちは皆、罪びとですから、人を傷つけ、また傷つけられます。それ故、「赦す」ということを学ぶことは誰にとっても必要です。しかし、これは簡単にできるものではありません。
 考えてみてください。大切な人を犯罪で殺された人はどうでしょう。犯人に復讐(ふくしゅう)してやりたいと思わないでしょうか。それを押さえて、その人を赦すことは大変な苦しみになります。
 私もまた、赦せないという心の痛みを戦っていた時期があります。しかし、あるシスターの書いた著書の一行で立ち直りました。「赦(ゆる)せないという悩みは、赦したいという心から始まっているのです」。確かそのように書かれていました。
 神さまは、赦したいのだという心の方を見てくださいます。間違っても、赦せないことを懲罰するお方ではありません。ですから、神に助けを求めていただきたいのです。神はあなたの味方です。
 ローマ人への手紙12章にはこのように書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると、主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。(中略)そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(1921節)
 十字架の上でイエスさまがなされたこともまた赦しでした。唾をかけられ、平手で打たれ、でもイエスさまは抵抗しません。私たちを贖(あがな)うため、赦すために、十字架で死なれました。イエスさまが私たちのために死んでくださったこの真実は、あなたに赦す力を与えます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月6日号(第1023号)より転載—