2019年11月13日水曜日

 

 先日、ネットを通して流れてきた天皇の即位祝賀パレードを目にした時よりこのかた、「祝福」について深く考えさせられました。神がくださる祝福とは、世のものではありません。
 箴言1022節には「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」と書かれています。神さまの祝福は無条件で人を富ませるものです。そして、分かち合えば分かち合うほど倍増していくものだと思います。神の祝福は、人の苦労によって得られるようなものではなく、神さまの一方的な恵みとして与えられるものだとも知りました。
 旧約聖書の申命記28章は、興味深い箇所で、神は民にご自分に聞き従うように語り、聞き従う人生における祝福と、聞き従わない人生ののろいを語り、祝福の人生を選ぶよう私たちに語られました。
 約束された祝福は、あらゆる側面に及びます。例を挙げると「町にあっても祝福され、野にあっても祝福され入るときも祝福され、出て行くときにも祝福されるあなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださるあなたのすべての手のわざを祝福される」等々で、聖書はこれでもかと言わんばかりの祝福を約束しています。
 新約時代に生きる私たちクリスチャンもまた、同様に主の祝福にあずかっています。上記の祝福ばかりか天の報いが私たちに用意されています。神に聞き従うことによる主の祝福は、私たちのいのちの日の限り私たちを追ってくるでしょう。
 こういう訳ですから、私たちは神に聞き従う人生を選びましょう。その報いは大きく、私たちに注がれる神の愛は無限です。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月17日号(第1068号)より転載—

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