2020年8月30日日曜日

 仕える者になりなさい

 最近、藤井聡太棋聖の活躍が、あちこちで聞かれます。しかしそこで繰り広げられているのはまさに勝負です。勝負の世界は厳しいものです。誰が上で誰が下か、ということが明確にされるのが勝負だからです。勝ち負けというのは、人生の至る所で私たちが直面するもので、そこから逃れ得る人は一人もいません。 

 イエスの12弟子の中に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの兄弟がいます。二人は、母親とともにイエスのもとにやって来て、お願いをしました。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」というものです。 

 これにはイエスさまもあきれたようです。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」と言いました。2人は「できます」と答えました。確かに、後の日にはヤコブは殉教の死を遂げ、ヨハネはパトモスへ島流しにされます。しかし、「わたしの右と左にすわることは、私が許すことではありません。それに備えられた人々があるのです」とイエスさまは語られました。他の10人もこれを聞くと腹を立てました。彼らも言わないだけで、考えていることは同じだったのでしょう。 

 上に行き上に立って益を得ようという野望、これが人にはあります。お前は私にとって上か下かと区別をつけて生きること、これは、無意識になされているねたみの生き方です。競争が起こるのも結局は上か下かを区別するためです。 

 「鶏口牛後」という言葉があります。「鶏口となるも牛後となるなかれ」というのがその意味するところで、大きな団体で部下になっているよりも(牛後)、小さい団体でもかしらになった方がいい(鶏口)、という考え方です。これには賛否両論があるでしょう。 

 かしらになりたいものは大勢います。上から目線であなたに語ってくるでしょう。でも、イエスさまはお弟子たちを集めてこう言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコの福音書104344節)。 

 これは、世には愚かに聞こえる教えです。しかし、ここに解放があり勝利があります。仕えられるより、仕えることをキリストイエスは推奨されました。私たちもまたイエスさまに倣いましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月22日土曜日

 失うことは得ることです

 聖書の福音書には、それぞれ次のようなイエスさまのことばが引用されています。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカの福音書924節)というものです。 

 これはイエスさまが得意とする逆説的な表現で、究極的には殉教のことを指すことばとして読むことができます。世において、自分に死んで自分中心にではなく神さまを中心に生きる時、私たちは祝福されます。神に聞き従う人生がいかに祝福されるかを、イエスさまはこの箇所から伝えようとしておられるのです。 

 さて、世界的なピアニストとして活躍しておられる辻井伸行氏は、つとに有名で、多くの人の心に触れる演奏をします。彼は、ここでこの音をといった瞬間、痒い所に手が届くように、まさにその音を正しく出してくれます。多くの人が素晴らしいと絶賛してやまない天与の才があります。 

 その辻井さんは、生まれながら目が見えないという障がいを抱えておられます。しかしその演奏にはハンディなど微塵も感じさせません。むしろ、優れた資質が露わにされています。確かに辻井さんは眼が不自由です。でも、見えるところ以上の心の眼を確立されており、それを最大限に用いて演奏をなされるのです。辻井さんの人生には神の栄光を見る思いがします。目が見えないことは、彼にとって、失ったこと以上に、得ることが大きいものとなったのではないかと私は思います。 

 殉教も同様です。私たちは肉の命こそ失いますが、神が下さる永遠のいのちに与ります。神にささげたものは幾倍にもなって戻ってきます。一見失うように見えますが、神はさらにすぐれたものを備えておられるのです。殉教には殉教の報いがあります。 

 以前は、私は失うことはその時点で終わりだと思っていました。しかし、そうではありませんでした。私たちの人生には、失うことによって、得るものがあります。また、得させるためにあえて、失わせるものもあります。そしてどの道においても、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。これこそ私たちの確信です。 

 こういう訳で、私たちは神に知られているのですから、恐れることはありません。すべてのことを感謝し、イエスキリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月12日水曜日

「イエスが愛された者たち~サマリヤの女篇」

 イスラエルは、12部族を擁する民族です。ところが、ソロモンの子ヤロブアムの代に、北王国10部族と南ユダ2部族に分れてしまいます。そして、紀元前721年、北王国イスラエルの首都であるサマリヤはアッシリヤに占領され、多くの住民が捕囚となり引いて行かれました。その後、新しくサマリヤに移住してきた他民族がいて、その人たちとの間に雑婚が起こり、混血民族となり民族の血統が失われてゆきました。それに対してユダヤ人は人種的純粋性を守り通しました。それゆえユダヤ人はサマリヤ人を蔑視し、両者の間には根深い対立と反目がありました。 

 ユダヤからガリラヤへ行く時はサマリヤを通るのが近道です。けれども多くのユダヤ人は、それを避け、あえてヨルダン渓谷の厳しい道を通って行きました。しかしイエスさまは「サマリヤを通っていかなければならなかった」と聖書が記しているように、まっすぐに顔をサマリヤへ向けておられました。深いお考えがあったのでしょう。 

 昼の12時頃、イエスさまはスカルというサマリヤの町に着き、井戸のかたわらで旅の疲れをいやしておられました。すると、1人のサマリヤ人の女が水をくみに来ました。イエスさまがこの女に、水を飲ませてくださいと所望すると、女は驚き、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と言いました。ユダヤ人は雑婚のサマリヤ人を軽蔑しつきあいをしなかったからです。 

 イエスさまは、女にこのようなことを言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」女は、「その水を私に下さい」といいました。 

 すると、イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言います。女は「私には夫はありません」と言いました。「もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」イエスさまはこうおっしゃいました。 

 5人の夫を持ちまた別れ、今は内縁の夫と暮らしている女の素性をイエスさまは言い当てました。驚きのあまり女は、水がめを置いて町に急ぎ、民に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言ったひとがいるのです。この方がキリストなのでしょうか」。 

 こうして、彼女を通して大勢のサマリヤ人がイエスに出会い、イエスが世の救い主・キリストだと信じるに至りました。 

 女は、罪深い女でした。人がいない炎天下を選んで水くみをしているのは彼女に社会的な負い目があるからです。それがイエスに会うと一変し、自ら苦手な民の所に行き、イエスを紹介しました。主イエスはこの女に届くためにあえてサマリヤに来られたのです。イエスさまは裁きません。この女を愛し憐れんで、永遠のいのちへの水を与えたいと思われたのです。そして女だけではなく、ユダヤ人にさげすまれている雑婚のサマリヤもまた、愛し救おうとされたのです。 

 人は罪人です。しかし聖書には「罪に惑わされてかたくならないようにしなさい」(へブル人への手紙3章13節)という一節があります。イエスさまが来られたのは、裁くためではなく、赦し救うためです。罪人を愛された主、イエスはこう呼ばれることを良しとされました。多く赦される者は多く愛する者となるからです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月4日火曜日

「イエスが愛された者たち~ペテロ篇」 

 ペテロを自分のクリスチャンネームとする人は決して少なくありません。ペテロに自分を重ねるのか、自称ペテロも本家同様、よく失敗しています。肉丸出し。自己顕示欲が強い。目立ちたがり屋で、よく失敗する。これがペテロです。けれども悪い奴かといえばそうとは言い切れなくて、ひと言でいうなら憎めない人物です。彼は彼なりに心からイエスさまを愛していました。イエスさまもまたそのことをご存じで、ありのままのペテロを愛しておられたのです。 

 ペテロは肉にあってよく失敗をしました。特にイエスさまが最も大切なことを語っておられる時に真逆を行くのです。福音書によれば、主イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問うたところ、ペテロは「あなたは、キリストです」と100点満点の答えをしました。そこでイエスさまは、もう大丈夫だと思われたのでしょう。ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならないと弟子たちを戒められると、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められました。これは主の宣教の中核をなすもので、まさにこのためにイエスさまは世に来られたのです。 

 しかしペテロは、イエスさまを引き寄せて、いさめ始めました。「主よ。神の恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」善意の言葉です。 

 しかし、それに対してイエスさまは、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言いました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」そして、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せ、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と、宣教の招きを広くなされたのです。 

 また、イエスさまは12弟子の中で最も若い青年ヨハネを特に愛されました。ペテロは内心それが妬ましくてなりません。自分に対する素晴らしい主の召命を聞いた後でも、彼が気になりました。すべて自分が1番でないと面白くないという側面が伺えます。 

 誰よりも自分は主を愛している、そうペテロは自負していました。ところがこれが覆される時が来ました。主イエスのことば通り、イエスが祭司長律法学者たちに捕らえられた時、「おまえはイエスとともにいた」と言われると、「知らないね。何を言っているのか分からない」と、自分を救うため3度イエスさまを否みました。イエスはあらかじめこうなるとペテロに言っておられたのですが、果たしてその通りになったのです。ペテロは、主イエスを裏切りました。イエスを愛しているのに、否んでしまった自分の弱さに、彼は号泣しました。 

 しかし神はここから、ペテロの公けの人生をスタートさせます。3度イエスを否んだペテロに、主は現れ、3度「あなたは私を愛しますか」と言ってくださいました。ぺテロには、愛しますと言えるようなものはもうありません。彼は心を痛めて「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」と語り、それが精一杯でした。 

 これが、イエスが愛されたペテロのありのままの姿です。人の愛と神の愛は違います。自分を大きく見せようといったものはもはやありません。神はペテロを愛しておられ、牧者へと建て上げてくださいました。あなたもまた、自分を飾ることを捨て、ありのままのあなたで、イエスのもとに行きましょう。主はあなたを愛し、あなたを建て上げてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/