2019年8月28日水曜日

世界で一番強いもの

 女は弱しされど母は強し。これはよく聞く名言で、子を持つ母は、子を守るためには考えられないような強さを発揮するといいます。以前、夫不在の中で台風の直撃を受けた時、暴風でガラスの窓がしなり、今にも割れそうになりました。そこで、押し入れを開け、1歳の娘を寝かせ、台風が去るまで一晩中起きて娘を守りました。自分のうちにこんな強さがあるなんて初めて体験しました。
 愛は、自分を犠牲にすることをものともしません。神は愛であり、愛とはイエスキリストの十字架です。私たちは生まれながらの罪人であり、行き着くところは死と滅びです。それをあわれんで父なる神は、時を定めてご自身のひとり子なるイエスさまを世に与えてくださいました。
 誰でもイエスキリストを信じるなら、サタンの支配から解放され、神の支配に移されます。イエスさまの死は、私たちを生かすために支払われた尊い贖いの代価です。死に定められている私たちを神は愛し、惜しんでくださったのです。
 ローマ人への手紙8章32節に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死にわたされた方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と書かれています。父なる神さまにとって、御子より大切なものはありません。その御子を下さったということは全てのものを下さったということに等しいのです。
 さらに聖書は「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(39節)と続きます。世界で一番強いもの、それは、私たちを愛する神の愛です。
 あなたもまた、イエスさまを信じてこの愛に留まりましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月1日号(第1057号)より転載—

2019年8月21日水曜日

長血の女の信仰

 イエスさまが、会堂管理者であるヤイロの娘をいやしに行く途中、多くの群衆が、イエスに押し迫っていました。その中に1人の女がいました。彼女は、12年の間長血を患っていました。恐らく婦人科系の難治性の病であろうと言われています。聖書の語るところでは、彼女は多くの医者からひどいめに遭わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方だったといいます。
 彼女にとってイエスさまは最後の希望でした。医師に恵まれず、お金も底をつき、残された唯一の頼みがイエスさまでした。人々が語っているこの方なら私を救ってくださる、そうだ、お着物にさわることでもできれば、きっと直る。いつしかそれは彼女の信仰となっていったのです。
 そして、ついに群衆の中に紛れ込み、女は後ろから、イエスの着物に触りました。すると、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。
 イエスさまも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。そして、それをした人を知ろうとして見回しておられました。
 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエスさまはこう言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(ルカの福音書5章34節)
 お着物に触ることでもできればきっと直る、そう信じた彼女の信仰はイエスさまからいやしを引き出しました。私たちもイエスさまを信じ、また従いましょう。イエスさまへの信頼は、裏切られることがありません。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月25日号(第1056号)より転載—

2019年8月14日水曜日

できるものなら

 人の親となることは何て難しいことでしょう。たとえ世間が子を見捨ても、親はやすやすと子を見捨てることができません。それが親というものなら、その愛には本当に頭が下がります。
 マルコの福音書9章に、おしの霊に憑かれた息子を持つ父親が登場します。霊が子に憑りつくと、ところかまわずその子を押し倒し、泡を吹き歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。父親はイエスさまの弟子たちに、霊を追い出しくれるよう願いましたが、お弟子たちにはできませんでした。
 そこで、イエスさまのもとにその子を連れていくと、イエスさまは父親に「この子がこんなになってから、どれくらいになりますか」と尋ねられました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊はこの子を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。
 するとイエスさまは「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と直ちに父親を一喝されました。これを聞くと父親は、叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。
 お父さんを責めることはできません。長年、できることはみな行ったでしょう。それでも好転しなかったのです。あきらめが先に立つ父親の心の屈折をイエスさまはよくご存じでした。またご自身が働かれるには信仰が必要であることもです。それゆえ父親の心から不信仰を払拭(ふっしょく)するため、イエスさまは声を上げられたのです。「できるものなら、というのか」と。
 できるのです。イエスさまはどんなことでもできますし、また、なしてくださいます。これを確信としてイエスさまに期待するなら、奇跡の御手(みて)が現されます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月18日号(第1055号)より転載—

2019年8月7日水曜日

世代交代

 イスラエルの民は、モーセに従って出エジプトしました。神がイスラエルに与えられた約束の地カナンに入るまで、荒野で40年間さまよいました。本当はもっと早くカナンへ入るはずでした。
 最初、彼らがカナンを目前にした時、モーセは族長たちを遣わし、その地を偵察させました。40日がたって彼らは帰って来て報告します。「そこにはまことに乳と蜜が流れています。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きくアナクの子孫を見ました」
 確かにそこは最高の地でした。しかしカナンには先住民族がいて、戦っても勝てないと彼らは言ったので、会衆は大声をあげて泣き明かしたと書かれています。ただヨシュアとカレブだけは彼らと違い「神はカナンの地を私たちに下さる」と語り民を説得しようとしました。
 イスラエル人のつぶやき不信仰は、神の知るところとなり、神は次のように宣告されました。(民数記14章参照)
 「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。(29節)さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう(31節)しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない」(33節)
 ここに厳粛に、世代交代が宣言されました。カナンの斥候に費やした四十日を、一日を1年と数えて、四十年の間に親世代は全員荒野で死に絶えてしまいます。代わって彼らの子世代の者たちがカナンの地に入り、神との契約を継承しました。
 聖書は、世代ということを重く見ています。新しい時代には新しい世代が用いられます。私たちは、私たちのなすべきことに忠実でありましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月11日号(第1054号)より転載—