2023年3月31日金曜日

奇跡~感謝に働く信仰

 最近感動したことがあります。教会の海外宣教でチームがドイツの教会に行きました。ご奉仕は祝福され、そこの教会の女性責任牧師が涙を流してチームに言ったそうです。なんでも、その女性はどう対処すればよいのか分からない問題があって、ずっと神さまに答えを下さいと泣いて祈っていたそうです。「しかし今日その答えが分かりました。悪いことも感謝するということ。感謝することは知っていたけれど、悪いことを感謝するなんて知らなかった。本当にありがとうございます」と申し出られたのです。

 聖書のテサロニケ人への手紙第一518節に「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」という一文があります。とても有名な箇所です。感謝しなさい、というメッセージで、これを否定する人はいないでしょう。ところが、読み飛ばしやすいのが「すべての事について」という一語です。すべてというのは、良いことも悪いことも両方という意味なのです。つまり、悪い事柄も良いこと同様感謝の対象となるのです。

 マーリン・キャロザース師を通して、私たちはこの「すべての事について感謝する」ということの学びを重ねてきました。その中心は、ズバリ!悪いと思われることを感謝することでした。経験から述べると、悪いと思われることを感謝することは、良いことを感謝することよりはるかに多くの奇跡を生んでいます。良いことを感謝するだけでは感謝の恵みの大半を失っています。

 口先だけでも感謝する、これも重要な教えです。悪いことを感謝する時、ほとんどの場合心が付いていきません。しかしそれでいいのです。これは信仰です。口先だけでも感謝するなら、神はその信仰を見てくださり、益にあずからせてくださいます。また、訓練により口先感謝が身に付いてきたら、とんでもない奇跡が雨あられと降ってきて、私たちを喜びの人へと変えていきます。

 ある姉妹の結婚の証しは素晴らしいものでした。なんでもみんなで食事をしていた時、彼女が注文した料理だけが来ませんでした。それで、小さく「プレイズ・ザ・ロード」(Praise the Lord、主を賛美せよ)と言い、感謝したそうです。その様子を近くで見て、こんなことも感謝するのか、と驚いたのが、今の彼女のご主人です。1つの感謝で結婚まで開かれてしまったのです。実に感慨深い出来事です。

 それでは、なぜ感謝できないことを感謝することが力を持つのか考えてみましょう。それは、信仰が一役買っているのです。良いことを感謝するのはまあ、当たり前のことです。しかし、感謝できない悪いことを感謝するには、これを許された神を認めること、さらにはこれが益とされることを信じる必要があります。状況ではなく神を見上げる、この信仰が働くからこそ、大きな神のみわざを見るのです。

 奇跡は信仰と感謝を土台として生み出されます。私たちはこれから多くの奇跡を見てゆきます。あなたもまた感謝の人となりましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月31日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2023年3月26日日曜日

7度を70倍するま 

 7度を70倍するまで、とは何のことだか分かりますか。これは、赦すことについての主イエスの見解です。自分に対して悪意を持って接してきた人を赦すことはとても大変なことです。私個人としては1人につき1度赦すのが関の山で、同じことで23度赦す、という事態になると、またこれかと怒りも倍増し、ますます赦し難くなります。

 日本古来伝わってきている教えでは、「仏の顔も三度まで」と言いますので、赦すことの上限は3度つまり3回までの事であって、それ以上は問われていません。多分、3度赦したということは、とても多く赦したことになるのでしょう。ちなみに、ユダヤ教でも赦しは3度までと教えられているそうです。

 イエス・キリストの弟子であるペテロは、ある時この赦しに関して、最大限の忍耐を示してこう言いました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」。7度というのは、3度の倍以上の数です。イエスさまによく言ったと言っていただけるのではないかとペテロは思ったかもしれません。

 しかし、イエスさまはこう言われました。「7度まで、などとはわたしは言いません。7度を70倍するまでと言います」(マタイの福音書1822節)。もちろんこれは490回まで赦せという意味ではありません。無制限に赦せという意味です。ペテロはさぞ驚いたことでしょう。

 イエス・キリストは、このことに関してたとえを用いて語られました。赦しの根拠に関して次のように述べられたのです(マタイの福音書182135節参照)。

 ある時、王は、そのしもべたちと借金を清算したいと思われました。まず1万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られました。ところが彼は返済することができなかったので、主人は当人も妻子も持ち物全部も売って返済するよう命じました。そのしもべは主人の前にひれ伏して「どうかご猶予をください。そうすれば全部お支払いいたします」と言いました。主人はかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。

 ところが、彼は出ていくと、彼に100デナリの借りのある仲間に出会い、首を絞めて「借金を返せ」といいました。その人は「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と頼みました。ところが彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。これを伝え聞いた主人は「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言い、怒って借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡したのです。

 1万タラントというのはかなりの大金で、一国の王の身代金にも匹敵するものだそうです。それに比べて、100デナリは取るに足りない少額です。私たちの罪とは、いわば1万タラントなのです。その罪の負債は自分では到底償い切れないものです。ですから神は哀れに思い、イエスを救い主と信じる者に一切の罪の赦しを与えてくださいました。

 「赦し」は神の国の根幹をなす教えであり、また原則です。「赦し」の根拠は、イエスさまの十字架にあります。私たちが赦されるために、イエスさまは定められた時に十字架でみ苦しみにあわれました。神によってあなたが赦されたのであるなら、神もまた、赦されたあなたが、今度は赦す側に回ることをみこころとしておられます。7度を70倍するほど、私たちは赦されています。それ故、私たちもまた、7度を70倍するまで、隣人を赦し、愛しましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年3月21日火曜日

十字架の力

 父が、食道静脈瘤破裂で死線をさまよっていた時のことです。ある夜、病院から電話がかかってきました。父が、私を呼ぶようにと言っているので来てほしいという内容でした。何事かと驚いて父の病室に向かいました。既に消灯時間後であったので病院は真っ暗で、気味が悪く、夏だというのに寒気を覚えました。

 病室に入ると、父は「ここに悪霊がいる。何とかしてくれ」と言うのです。私は父の枕元に立ち、手を置いて祈りました。すると、何と父が見ている霊が私にも見えるのです。それらは悪霊で、今まで父が信心していた霊や神々でした。それらの霊がわが物顔で父の死を今か今かと待っているのです。そして言うのです。

 「これは俺のものだ。これは俺から散々利益を受けたのだ。だから今度は俺の奴隷になる番だ」。多くの神々や悪霊が同様なことを言って父を刈り取ろうと集まっていたのです。残念ながら、彼らの言い分は間違ってはいません。霊の世界は、ギブアンドテイクです。霊との関わりで悪霊から益を受けたなら、その見返りが求められます。特に命がその的になることが多く、それは当然と言えば当然の結末なのです。

 しかし、こちらも霊に関しては専門家を標榜(ひょうぼう)しています。ここですごすごと引き下がるわけにはいきません。それに、病気を機に父はイエスさまを信じました。神の子となったのです。勝算は十分にあります。そこで私は、父に一つの聖書のみことばを伝えました。ヨハネの福音書15節です。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」というもので、父にこのみことばに心を集中し、繰り返して語り、それをイメージしてくれるよう頼みました。

 そして、私もまたこのみことばを用いて、主イエスの名によって悪霊に退散するよう命じました。そこで見たのは、十字架の圧倒的な力です。どんな悪霊も、イエスの御名によって命ずると、それに従わないわけにはいきませんでした。また、十字架で流されたイエスの血潮を語ると、どんな霊であっても退散するより他ありませんでした。それはやみの中に輝く光のようで、光が現れたらやみも悪霊も、一瞬のうちに消え去ります。このようにやみは光に打ち勝つことができません。主イエスの十字架の死は働いて、私たちを贖(あがな)うものとなり、私たちの罪や死の負債はすべて十字架によって支払われているのです。イエスの十字架を信じているものは、救われており、永遠のいのちを持ち、死を見ることはありません。

 およそ3時間をかけて、私たちは前述の聖句を土台として、一つ一つ霊との関係を断ち切っていきました。大きなものも小さいものも等しく霊は去っていき、一通りそれが終わる頃には夜が明け染め、父は静かな寝息を立て始めました。悪霊は死を前にした父を取ろうとしてざわめいていました。しかし、神はそれを許されませんでした。

 イエスさまは、私たちの身代わりとなってくださったのです。イエスさまは、約2000年前に世に来られ、十字架で苦しみを受け死なれました。その死によって私たちを贖い、3日目には復活を遂げ、今は天に引き上げられ、天で生きておられます。この主イエスの十字架に引き換えて、私たちのすべての罪は赦され、病もまたいやされるのです。

 こういうわけで今やイエスを信じる者は罪に定められることがありません。病も死も恐れる必要はありません。誰であってもどんな問題があっても、私たちはこの瞬間からも神に立ち返ることができます。聖書もまた、このように書いてあります。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(コリント人への手紙第一118節)

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年3月17日金曜日

ねたみ 

 罪にはいろいろありますが、その中でも今回は「ねたみ」の罪について取り上げてみたいと思います。ねたみは罪の中でも拮抗するにとても手ごわい罪です。私たちは、人との比較に生きやすく、それが高じて実にねたみやすい性質を持っています。

 イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのもねたみです。マルコの福音書1510節に「ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである」とさりげなく書かれた一節があります。その通りで、祭司長、律法学者たちは、群衆が自分たちを離れ、こぞってイエスのほうに行こうとするのを見てねたみに駆られ、イエスを憎み、恨み、正直なところ殺してしまいたいという強い思いを抱いていたのです。ねたみは殺人の実まで結ばせる恐ろしい罪です。

 振り返ってみると、創世記の昔からねたみも殺人もありました。カインとアベルはエバが産んだ兄弟で、兄のカインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼うものでした。ささげものをする時になると、神は最良のものをそれも自分で持って来たアベルのささげものに目を留められました。でも、カインとそのささげものには目も留められませんでした。カインはこれにひどく怒り、顔を伏せました。神は、罪を治めるべきである、とカインに語られました。しかし、カインは弟アベルを野に誘い出し、襲いかかって殺してしまいます(創世記4章参照)。弟が称賛を受け、自分が無視されたことが我慢ならなかったのです。正しいのは弟で、弟によって自分が間違っていることを見せつけられたとき、死に至らせるねたみを心に抱きました。

 ステパノもまた、ねたみから殺された者のひとりです。聖霊に満たされ正しいことを語りましたが、それによって彼がその時代の者を罪に定めると、人々ははらわたが煮え返る思いでステパノに向かって歯ぎしりし、ついには彼に殺到し、石で打ち殺してしまいました(使徒の働き7章参照)。

 正しい者が正しいが故に憎まれ殺される、こんな矛盾が代々にわたって続いているのです。神がこのことを許されているのは、そこにも神による報いがあるからです。主イエスは、殺されましたが神の力によって3日目に復活し、アベルの訴えは神に届いています。ステパノに至っては殉教者の初穂となりました。ですから神はあえて助けの手を入れることなく、彼らが死ぬことを許されたのです。

 私もまた自分のうちに彼らと同じようなねたみの罪があることを自覚しています。すべて自分にはないものを他の人が持っているなら、それを喜ぶべきでしょう。しかし、喜びではなくねたみに心が捕らわれるのは、そこに罪があり、サタンが働いているからに他なりません。私はその人をねたむあまりに、その人を通してなされる神の働きを止めようとしたのです。はっとしてその瞬間、我に返ったのは神の憐れみです。この体験から私は、ねたみはどこにでもあり、場合によっては殺しにさえ通じる実に恐ろしい罪だと改めて知るに至ったのです。

 私たちは神を恐れましょう。それによって、ねたみから身を引き、神の心をわが心とし、神の思いをわが思いとしていくことができるよう祈りましょう。なぜなら、神さまに愛されていることを体験している者には、ねたみは効き目がないからです。聖書に書かれているように「全き愛は恐れを締め出」すのです(ヨハネの手紙第一418節)。まことの愛には恐れがありません。この愛こそ、私たちへの報いであり取り分です。イエス・キリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年3月8日水曜日

ヨセフの2年間

 ヨセフは、ヤコブとラケルのあいだに生まれたヤコブの年寄り子です。ヤコブ、すなわちイスラエルには、2人の女奴隷とレアとラケルの妻2人からの12人の子が生まれ、彼らは後の族長たちとなりました。

 同じ子どもでもヤコブは、誰よりもヨセフを愛していました。それは、ヤコブがラケルを姉のレアやジルパやビルハなどの女奴隷以上に愛していたからです。ヤコブは、ことのほかヨセフをかわいがり、袖付きの長服を作り着せてやりました。それを見ていた兄たちは彼をねたみ憎しみ、彼と穏やかに話すことができないほどでした。

 またヨセフは、夢を見る者でした。畑で束を束ねていると自分の束が真っすぐに立ち、兄さんたちの束が自分の束におじぎした、という夢を見ます。さらには、太陽と月と十一の星が自分を伏し拝んでいる夢を見、さすがに父はこれを叱りました。でもイスラエルはこれらをすべて心に留めて置きました。

 そして、いよいよヨセフに波乱万丈な人生が始まります。兄の安否を知るため羊の群れを訪ねたところ、かえって兄たちに捕らえられました。そして、銀20枚でイシュマエル人に売られエジプトに行ったのです。ヨセフは、エジプトの王パロの廷臣ポテエファルに買い取られました。

 主がヨセフと共におられたので、そこでも主の祝福が臨み、ヨセフは主人にことのほか愛され、主人はヨセフに全財産を任せるようになりました。ところが、主人の妻がヨセフに「私と寝ておくれ」と言い寄ってくるのです。ついにある日、人払いされた家の中で彼女が迫るとヨセフは上着を残して逃げました。彼女はその上着を見せて、あなたの奴隷は私を辱めようとしたのですと夫に言うと、主人は怒りに燃え、ヨセフを王の囚人が監禁されている監獄に投げ込んでしまいました。

 こうして、ヨセフは一転して奴隷から囚人となりましたが、ここでも主はヨセフと共におられ、ヨセフは監獄の長の好意を受け、囚人をお世話する役目に就きました。そして、そこに送られてきたのがエジプトの王の献酌官長と調理官長です。二人は夢を見たのですが解き明かしが困難でいら立つ様子でした。ヨセフは、神からの知恵をもって対応し、見事に二人の夢の解き明かしを果たします。

 ヨセフには、願いがありました。冤罪を晴らしたいというものです。そして今、千載一遇のチャンスが訪れたのです。「あなたがパロのもとに戻されたら、私を思い出し、恵みを施してください。私のことをパロに話してください。私はへブル人の国から、さらわれて来たのです。投獄されるようなことは何もしていないのです」。必死になってヨセフは訴えました。

 ヨセフが解き明かした通り、3日目に二人はパロのもとに戻され、一人は元の職に戻され、もう一人は処刑されました。ヨセフの解き明かしは当たっていました。ヨセフは、元の職に戻されたパロの忠臣が、自分のことをパロに話し、パロの使いが来るのを今か今かと期待して待っていたことでしょう。ところがなんと、この人はヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。

 ここから先のことは、聖書には出てきません。ヨセフが失望したことやどうやって立ち直っていったか、それも記載されていません。ただ、それから2年の後、神の手が動き出しました。パロが解き明かしの必要な夢を見たのです。そこで、ようやくヨセフは呼ばれ、急いで地下牢から連れ出されました。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてからパロの前に立ちました。実に堂々としたふるまいです。

 詩篇105篇に、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)という一文があります。両親と兄弟たちにお辞儀されるほど偉くなるという幼年ヨセフの夢の示しは、この後ヨセフがエジプトの大臣となることで成就します。溺愛を受けた幼少期から一転して奴隷に、そして奴隷から囚人へと、落ちる一方であった彼の人生ですが、最後にすべては逆転しました。

 聖書に記載されていない2年間。この沈黙の2年のうちに、ヨセフの信仰の立て上げがなされました。ヨセフの希望は一度ついえましたし、人間的な可能性はすべて断たれました。さすがの信仰者ヨセフも、今回ばかりは失意のどん底に置かれたでしょう。しかし、神はヨセフを捨ておかれなかったのです。神はご自身を望みとすることをヨセフに教えられました。そしてついに神の時が来ました。この後、ヨセフは飢饉(ききん)の中、全イスラエルをエジプトに呼び寄せ養います。このためにヨセフは先んじてエジプトに送られたと聖書には書かれています。このヨセフの一生を思うにつけても、神のご計画は何と偉大なものかと、驚嘆してやみません。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年3月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/