2012年8月29日水曜日

「感謝」は奇跡の導火線

もう20年近く前になりますが、一人の奥さんが、問題の解決を求めて教会に来られました。ご主人のお仕事が何をやっても長続きしない、ということ を心配しておられました。
 ご主人にも聞いてみましたが、ただ働くのではなく、一生の仕事として、人に感謝されるような仕事に就きたい、という強い願いがあったことが分か りました。
 彼はイエスさまを信じ、その仕事が何であるのか、神さまに導きを求めたところ、塾の教師になることだ、ということが見え始めてきました。
 早速、最大手であるA予備校に応募してみたところ、1次審査に合格しました。2次審査は形式的なもので、もう大丈夫と喜んでいましたが、何とま さかの不採用になりました。
 しかし、聖書のテサロニケ人への手紙第一5章18節「すべての事について、感謝しなさい」という勧めのことばがあります。それ故、不採用になっ たことを感謝しました。ともかく感謝したのです。
 それから数日後、彼は偶然1枚のチラシを目にしました。何と、塾の教師の募集と書かれています。導きを感じそこを訪ねたところ、即採用となりました。
 そして、さらに驚いたことには、不採用になったA予備校が経営悪化で倒産してしまったのです。もし、彼がA校に行っていたら、路頭に迷うところ でした。神さまはその事をご存じで、彼に別の塾の職場を備えてくださっていたのです。
 祈ること、また聖書のみことばに立って感謝をささげるなら、目には見えない神さまの手が動きます。多くの所で、感謝したときに奇跡が起こるのを 私は見てきました。感謝は奇跡の導火線です。これは力ある約束であり、あなたも主イエスを信じるなら、この祝福にあずかることができるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月2日号(第691号)より転載—



2012年8月21日火曜日

死は死ではない

 人が、死ぬことを恐ろしく思うのは、その先を知らないからです。ですから、聖書、特にコリント人への手紙第一15章にある希望をお分かちしま しょう。私たちは主イエス・キリストによって、死んでもよみがえりを果たすのです。
 ある時、ある人が見た夢での話です。あくまでも「夢」なのですが、大変興味深かったので、真実かどうかは別にして、少しお話ししたいと思いま す。
 ある夜、その人は夢を見ました。そこは黄泉のような所で、彼女は、鍾乳洞のような岩陰に伏せっていました。そこから立ち上がろうとしましたが、 たちまちからだ全体が、砂のようにさーっと流れ落ち、瞬く間に地のちりに帰ってしまったそうです。主の前に行こうとしましたが、からだがないので 立てません。からだを下さいと懇願したところで、目が覚めたそうです。
 聖書では、人はちりから出てちりに帰ることを語っています。肉のからだが朽ち、無くなっても、私たちは無ではありません。
 私たちは、地上のからだだけではなく、神が下さる御霊のからだがあるというのが聖書の記すところです。このように書かれています。「死者の復活 もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ」(42節)、
「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらさ れるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(44節)
 私たちは血肉のもので、血肉の死を迎えますが、イエス・キリストを主と迎えるなら、血肉のからだは朽ちない永遠に向かってまかれ、イエスさまが下さる御霊のからだを受けます。
 イエスを信じ、復活の希望にあずかってください。これは真実な話です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月26日号(第690号)より転載—



2012年8月15日水曜日

屈 折

 ヨハネの福音書5章に、38年もの間、病気でいた人の話が出てきます。当時、エルサレムには、べテスダという池があり、大勢の病人が伏せってい ました。彼もまたその中の一人でした。
 イエスさまは、彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言いました。「よくなりたいか」
 それに対して、彼はこのように述べました。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう ほかの人が先に降りて行くのです」
 これは、弁解のような答えです。良くなりたいに決まっています。でも彼は、イエスさまに「はい。なりたいです」とは言えませんでした。どうして でしょうか。この弁解のような答えにこそ、彼の苦しみの年月を読み取ることができます。
 38年という年月は、人が希望を失うに十分な時間でした。病人には、病人の心の屈折があるのです。時に諦めがあり、憤りもあり、また失望し、孤 独に追いやられます。望みのない病に、もうどうでもいい、どうせ俺なんか、とやけっぱちな思いにもなったでしょう。
 それらを知ってイエスさまは、「よくなりたいか」と聞いてくださったのです。そして、良くなれるのかという希望が頭をもたげたところに、イエス さまの次なるおことばが届きました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。彼はすぐに直って歩き出しました。
 イエスさまは、昔も今も変わることがありません。イエスさまは私たちを救いたいという一心で、十字架で死んでくださいました。イエスさまの十字 架の打ち傷に代えて、私たちはいやされるのです。今、心を開いてこのお方を信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月19日号(第689号)より転載—




2012年8月7日火曜日

不公平な神さま

 長年の求道者である友人が、神さまは結局、不公平だと思う、と言いました。
そんな事ないよ、と言ってあげたかったですが、まだ神さまを信じてい ない人の目には、神さまが不公平だと映ることも仕方がないのかもしれません。
 マタイの福音書20章の話です。神さまを意味するぶどう園の主人は、早朝、1日1デナリの約束で労務者を雇い、ぶどう園にやりました。その後、 9時に
も、12時、3時、ついに5時になっても、職にあぶれた者がいたので、彼らもまたぶどう園に遣わされました。
 精算をする時、最後に来た者から順に1デナリをもらいました。早朝から来た人は相応の上乗せがあるだろうと期待しましたが、彼らも頂いたのは1 デナリでした。不公平だと彼らが訴えるのも無理ならぬことでしょう。
 しかし、これに対して主人はこう言います。「自分の分を取って帰りなさい。
ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいので す」(14節)、「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」(15節)
 神さまというお方は、私たちが思うよりはるかにあわれみ深く、愛なるお方です。不公平と言っても約束とたがうことは決してなさりません。その上 で神さまは、お心のままに、「恵もうと思う者を恵ま」れるのです。そのはからいが人知を越えているがゆえに、時に人は、ねたましく思うのです。
 皆さんは、人の成功を喜べますか。その祝福を共に喜べるでしょうか。神の愛は、あまりにも大きいので、人には「不公平」という形で表出すること があります。しかし、あの人を恵んでくださる神は、あなたをも恵んでくださる神なのです。その事を忘れずにいきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月12日号(第688号)より転載—