2020年12月30日水曜日

ある日の夢

 クリスチャンになって、三十数年になります。振り返ってみると、そこここに神さまの御手が見えます。イエスさまを救い主と信じて私は、毎日緩やかに成長してきたつもりでした。ところが、5年単位10年単位で見てゆくと、実は驚くほどの大きな変化が起こっていることに気づいたのです。

 救われる以前の私は、いつも重苦しく圧迫されるものを感じていました。家族の問題、自分の問題で押しつぶされ、負の感情に支配されていました。それらは私にとっては深刻な問題でした。しかし、510年が経つうちに、いつのまにかそれらの縛りや圧迫から解放されていたのです。

 救われたのは18歳の時です。いわゆる疾風怒濤の時代で、強いコンプレックスを抱いていました。おしゃれをしたい年頃ですが、自己イメージが低く、ブティックが大の苦手でした。きれいに着飾ったハウスマヌカンが接客に来ると、上から見下げられているように感じるので、肩身が狭くて、買物どころではありませんでした。

 そんな私がある日、夢を見たのです。夢の中の私は、実際と同じく、打ちのめされた少女でした。髪はボサボサ、ぼろを着て道を歩いていました。すると左前方にブティックがあるのです。入り口にはワゴンがあって、そこにアクセサリーが山積みされているのが見えました。よく見たいなと、近づこうとした所、そこにサタンがやってきて、罵声を浴びせかけてきました。「ここはお前なんかが来るところじゃない。お前は女のつもりか。何だ、とっとと帰れ」というもので、胸が痛みました。

 すると、今度は第二の人がやって来ました。この人はイエスさまです。みもとに来るように私を呼んでくださいました。行くとワゴンの中からそれも一番豪華で綺麗な髪飾りを取り、私のボサボサの髪を慈しむように取りまとめて、プチンと止めてくださいました。筆舌に尽くしがたいほどうれしくて、かつ恥ずかしいやら、ありがたいやらで、あっという間に胸がいっぱいになりました。そして感動のあまり髪飾りを頭からむしり取ってしまいました。そして、イエスさまに言うのです。「お、お金ならあります。じ、自分で買います」

 こうして、私は、急いでバッグに手を入れ財布を探します。やっと見つけて、お金を出そうとしたところ、何と中身は空でした。エッと顔を上げると、もうイエスさまは見えなくなっていました。

 そして、知るのです。イエスさまの恵みは、お金で買えるようなものでないこと。また買えるような代価など何も持ち合わせていないのが自分なのだということです。緊張したにせよ、一方的な恵みとして受けるべきものを買おうと語った自分は、神の愛をまだよく知らない霊的幼子でした。

 神の愛は無償の愛です。イエスさまの柔和なご愛は心の慰めでありまた力です。神は私たちを愛してくださっています。イザヤ書にはこう書かれています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(434節)。

  MIKOE NEWSから転載」 2020年12月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年12月23日水曜日

Be strong

 ヌンの子ヨシュアは、モーセに仕えた従者です。モーセの死後、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地カナンに導きました。老齢のモーセに対してヨシュアは若者です。リーダーになって働きを全うするには勇気がいります。

 それ故、神はご自身のことばによってヨシュアを幾度も奮い立たされました。ヨシュア記には、幾度となく「強くあれ。雄々しくあれ」(1679節)という神ご自身の励ましのことばが語られています。聖書には多くの働き人がいます。しかし、ヨシュアのように神から直接力強いことばや励ましを頂いた者は他にいません。それだけ、ヨシュアにかかる重荷が大きいものであったからでしょう。

 同9節では特にこう書かれています。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたととともにあるからである」。

 神が私たちの力となってくださる、これが神さまの約束です。そして、ヨシュアは神のことばに奮い立ちました。「ただ強く、雄々しくあって下さい」、民もまたヨシュアに言いました(18節)。

 さて、「強くあれ」ですが、これは英語訳では「Be strong」といいます。strongは、強いという意味ですから、直訳すると強い状態でありなさい、といったところでしょうか。「雄々しくあれ」には「courage」が充てられています。勇気のあるという意味です。

 また、ピリピ人への手紙413節には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という一文があります。その通り、神の慰めや励ましがあるなら、弱い私たちであってもどんなことでもできるのです。

 あなたは、弱い人ですか。あなたには不足がありますか。問題の解決に労していますか。どのようなことがあっても、イエス・キリストはあなたのすべてを知っておられます。どうか、主にあって強くあり、また雄々しくあってください。主は必ずあなたの問題を解決されます。

 力は神のものです。主は、弱さのうちに働き、私たちを助けてくださいます。私たちの力は神のうちにあり、それは圧倒的な勝利となるのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/   

2020年12月16日水曜日

あなたの値段

 年の暮れになると、毎年、東京湾で海の大掃除をするそうです。東京湾は深いので何でも捨てられており、時々驚くような発見があります。大きなところでは、冷蔵庫やドラム缶、タイヤ、テーブル、と家電が目立ちます。しかし、時には自転車に車、そして車の中に男女まで乗っていることがあり、こうなれば警察の出動となります。

 ある牧師は、よくこの東京湾のことをたとえに出して「罪の赦し」のことを教えてくれました。私たちは、罪の大きい小さいにこだわってしまうところがあります。小さな罪の赦しは受け入れやすいけれども、大きな罪、道ならぬ罪、これらは赦されたと信じることができませんと語る人も多いのです。

 すると、牧師はイメージの中で私たちを東京湾の埠頭に立たせます。ペンを投げると、ぽちゃんと沈みます。次は冷蔵庫です。力を込めてドンと押します。大きな波音がして、冷蔵庫は海のなかに沈んで行きました。どちらも沈んだでしょう、と牧師は言います。

 罪もまたこれと同様なのです。確かに罪には大きい小さいというような差があります。しかし罪は大小ではなく、有るか無いかで裁かれるものなのです。悔い改めるなら、どんな罪であっても、(ペンであろうが冷蔵庫であろうが)、等しく東京湾に沈んで(赦されて)ゆくのです。それは罪において赦されないものは一つもない、ということなのです。

 今日お話ししたいのはまさにそれ、赦されない罪などない、ということです。イエス・キリストは、私たちを罪から贖うために世に来られました。神であられながら身をいやしくされ、病をいやし、悪霊から解放し、最後には罪人とともに十字架にかけられ、死なれました。「彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(イザヤ書535節)と書かれている通り、イエスにより私たちはいやしを受け、罪の赦しと永遠のいのちを頂いているのです。

 いいかえれば、それらを与えるために、イエスは世に来られたのです。私たちは罪人であり、自分で自分を赦すことはできません。一生罪の中に囚われていることを、イエスさまは憐れまれました。神は、私たちを愛しておられるのです。

 あなたを罪や死の原理から取り戻すために、イエスさまは、十字架にかかって死んでくださいました。あなたの値段は、御子イエスの十字架です。これより高価な贖いしろはありません。あなたを買い戻すために主は何という犠牲を払ってくださったことでしょう。

 イエスさまはどんな時にもあなたとともにいてくださいます。あなたを赦すために主は、十字架で死なれました。よみがえられた今は、多くの方々の救いのために、あなたもまた用いて下さいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2020年12月8日火曜日

再臨のしるし

  神さまの恵みを頂いて、先週娘が女児を出産し初孫が誕生しました。お産は、女性にとっては結婚と同様に重要な人生の節目です。これを経て、いよいよ母となるのですから、起こってくることも並大抵のものではありません。

 聖書の中でもお産やその痛みについては、いろいろな文脈で引用されています。「産みの苦しみ」という言葉もその一つで、子を産むには産みの苦しみを避けることはできません。陣痛です。容赦なく陣痛が押し寄せて、痛みといきみで数時間格闘。もう限界だというところで、ようやく産声が聞かれます。そして生まれてしまうと、今まであった苦しみや痛みはうそのように消え去っています。

 マタイの福音書24章は、小黙示録と呼ばれ、世の終わりについてお弟子たちがイエスさまに尋ねた様子が書かれています。「お話しください。(中略)あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」。

 それに対してイエスさまは、多くの偽キリストが出現して多くの人を惑わすことを語り、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(58節)と語られました。

 あわてないようにしなさい、これがイエスさまの答えです。陣痛も起こり始めは微弱な痛みですが、だんだんとそれは強くなり、ついには子を産み落とすほどの力となります。

 そして、ここで注目したいのは、「産みの苦しみの『初め』」という表現です。産みの苦しみとは戦争や患難、民族問題であり、また自然災害です。その数々は黙示録にも書かれています。でも、それはすぐには来ません。しかし兆候は現れており、それが産みの苦しみの「初め」として意識されているのです。

 世界中で今、大流行している新型コロナウイルスによる感染症もまた産みの苦しみの初めにあると言えるでしょう。有効なワクチンもなく、あちこちでクラスターが起こり、感染者は増え続ける一方です。コロナは時代を変えました。さらに変え続けて行くでしょう。

 これらのことから、私たちは再臨のしるしを読み取りましょう。イエス・キリストは、間もなく再び世に来られます。再臨を待ち望んでいる私たちのために主は来られます。それが近いことを心に留めてまいりましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年12月2日水曜日

棘(とげ)

 キリスト・イエスの使徒パウロは、神のために誰よりも多く働きました。そしてまた、誰よりも多くの試練を体験しました。聖書のコリント人への手紙第二1112章には、その困難の数々が記録されています。

 読んで印象深かったのは、パウロの独白です。ガマリエル門下のパリサイ人であるパウロには誇れるものがたくさんあります。およそ世が欲しいとするもののすべてを持っている人物です。これらパウロの持っているものは、世から見れば大いに誇れる「強さ」であったに違いありません。にもかかわらずパウロは「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(125節)と吐露してやみません。

 何があったのでしょうか。それは、彼の内に棘(とげ)が、あったのです。同7節にはこのように書かれています。「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に1つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」。

 この肉体の棘(とげ)が何であるかは、昔からよく議論されるところで、てんかん、マラリヤ、眼病などの病気が挙げられています。そして、棘(とげ)がパウロに許されるのは、パウロを高慢にさせないために、サタンの働きをある程度許すという神さまのお心によるものだと言います。パウロはこれを私から去らせてくださるようにと3度も主に願いました。

 しかし、神はそれをお許しにならなかったのです。そして、言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(9節)。

 私たち人間は「強さ」を力とします。でも、神の力は人の「弱さ」を土台として完全に現わされます。棘(とげ)とは、弱さです。痛み、神の助けを仰ぎ見ずにはいられない、その弱さが私たちを神につなげています。神は確かに「強さ」ではなく、「弱さ」の内に働かれます。パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言うに至りました。

 私たちは高慢になりやすく肉を誇る者です。ですから神は私たちにあえて棘(とげ)を許されることがあるのです。10節でパウロはこう言いました。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」。

 世の忌み嫌う「弱さ」は、キリスト・イエスにあって、私たちの「強さ」になるのです。こういう訳で、私たちもまた弱さを誇りましょう。弱さを通して働く神のわざこそ私たちの取り分です。 

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年11月21日土曜日


堅く信仰に立って立ち向かいなさい

 最近、私の周りにいるクリスチャンの多くが、それぞれ信仰の試しが許されているようです。皆、口をそろえて、厳しい厳しい、と言っています。一体いつまで待たされるのか、忍耐ももう限界、という言葉も聞こえてきます。与えられた約束は、実現のその時まで試されるものです。いったいどこまで忍耐して待たなければならないのか、神さまに問うてみたいです。しかしヨブがそうであったように、多くの場合、神はなお沈黙を守っておられます。

 祈りが答えられることは、心が生き返るかのようです。力が与えられ、問題に勝利し、試練に打ち勝ちます。でも、神さまから何の返答もなく祈りが届かないと、心は干からびた草木のようにうちしおれてしまいます。

 なぜ私の祈りは答えられないの、と悩む人は多いです。これには2つのことが理由として挙げられます。1つは、すべての事においては、神のみこころと時があるということです。聞かれている祈りであっても、実現の時までは、あたかも、祈りが聞かれていないかのような、忍耐の時が許されるのです。この場合、聖書は「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(へブル人への手紙1036節)と語っています。またもう1つの場合は、サタンが神からの祈りの答えを私たちにとどめている場合です。神がみこころとされていても、サタンは、神の許しのうちにではありますが、それがならないよう妨げるのです。

 これに関して、聖書は次のように記しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(第一ペテロ5章8,9節)。

 ここでは悪魔と記載されているサタンに対して、聖書は立ち向かうように語っています。具体的には、身を慎むこと、目を覚ましていること、堅く信仰に立っていること、そして立ち向かうことです。

 悪魔に対しては、決して背を見せてはならないことを覚えてください。背を見せるのは敗北のしるしであり、悪魔に好き放題をさせることになります。悪魔は、ほえたけるししで狂暴です。まともな対応など望むべくもない敵であり、私たちの隙を伺っています。しかし、神に従い、悪魔に立ち向かうなら悪魔は私たちから逃げ去ると聖書は言及しています。

 イエスさまが十字架で贖いを成し遂げてくださったので、今や私たちは圧倒的な勝利者です。堅く信仰に立って悪魔に立ち向かいましょう。悪魔は、必ずあなたの前から逃げ去り、あなたは神の勝利を見るでしょう。

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2020年11月10日火曜日

心の貧しい者

 先日、友人から「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書53節)というのは、どういう意味なの?というメールが来ました。

 実は私も、この「心の貧しい者」ということばの意味が何であるのか、よく分かりませんでした。この箇所の聖書解釈は、昔から諸説紛々あるところで、最初私は、心の貧しい者とは道徳的に問題がある人のことだと考えていました。でも天の御国はその人のものだというのだから、これでは意味が通りません。そこで、牧師に聞いたところ、これは反語であって、心の貧しい人とは、「心の豊かさに飢え渇いている者」と読み解くといいと教えてくれました。それ故「心の貧しい」ということばは、「心の豊かさに飢え渇いている」と読まれるのが妥当だと思います。

 また、ここで言う「心の豊かな人」というのは、世の楽しみやさまざまなことで既に心がいっぱいで、これ以上何かが入る余地がない心の状態の人を言います。神抜きで既に心が満ち足りているならば、そこにキリストの祝福やことばがあっても、それが心に入っていく余地はほとんどありません。

 それに引き換え、「心の貧しい者」とは、ありのままの私たちの姿です。心の豊かさに飢え渇き、痛みを覚え悩みを抱え、心には隙間風が吹いています。満ち足りるなんてとんでもない。自分には何かが足りないのだと思っており、その思いがキリスト・イエスに向かわせるきっかけになっています。心の貧しさの故に多くを神に求めざるを得ませんが、神は恵みをもって働き、キリストの愛や慰めは、私たちのひび割れた心に深く浸透しています。

 こういう訳で、心の貧しい者は幸いです。天の御国は、豊かさに飢え渇く方々を知っており、彼らを受けてくださる居場所です。

 それ故、どうか御国にあずかる者として、あなたもまたイエス・キリストを信じてください。イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、約2000年前に世に来られ、十字架で私たちの罪を担って死なれ、また3日目によみがえり、私たち人間を贖ってくださいました。キリストを信じる者は、無条件で罪の赦しと永遠のいのちが与えられています。キリストにあって、今や私たちは神の子です。

 神は、あなたを愛しておられます。また私たちの弱さも知っておられます。神は、私たちの避け所です。また力です。この方の元に帰りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年11月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年11月4日水曜日

約束

 子どもの頃、よく友だちと指切りをしました。「指切りげんまん。うそついたら針千本飲ます。指切った」と歌い、互いの小指を絡めてそれを切り、堅い約束を交わしました。興味深いことは、指切りは必ず11間の約束であったことです。指切りの対応は、複数の者と同時に指を切ることはできません。どうやら約束というのは、神や人に対して、11の間で結ばれるもののようです。

 私もまた、イエスさまを信じ、救いを頂いた中で、多くの約束を受けました。罪の赦しをはじめ、いやしや、折にかなった助け、脱出の道を頂くなどで、受けた約束のことばは多岐にわたります。

 頂いた約束のあるものは既に成就しました。しかし、長年にわたって忍耐し、辛抱強く待ち続けることによって成就したものが多くあり、また、まだ成就していない約束も数多くあります。信仰の約束と忍耐は表裏一体で、約束を受けたその時から、忍耐もまたスタートします。

 教会においてもまた、成就を待ち望んでいる約束のことばがあります。その一つはハバクク書の預言のことばで、「もし、遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(23節)というものです。直接的には、私たちはこれを後の雨、すなわち世の終わりに起こる大リバイバルの約束のことばであると信じています。結婚や就職のみことばとして受け取った人もいますが、つまりは「待たされますが大丈夫ですよ、遅れることはありません」という意味で、三十数年来の約束のことばとして、私たちはこれを信じ、希望を抱き、熱心に待っています。

 約束は必ず試されます。実現するその時まで待たされ探られ試されます。そして、試しと忍耐を経た後に、約束のことばは成就します。

 へブル人への手紙10章には、このように書かれています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(3536節)

 まさに求められるのは忍耐です。ヨブを思い起こし、またヨセフを思い出してください。彼らの上に置かれた忍耐の年月を思い出していただきたいのです。神の約束とは真逆の方向に現実は向かいました。絶望することもできたでしょう。いっそその方が楽だったかもしれません。しかし彼らへの神の約束は変わらず、忍耐の末に彼らはその約束の実を得ることができたのです。

 私たちもまた、忍耐を働かせ時を待ち望みましょう。もし遅くなっても、それを待ちましょう。約束は必ず成就し実現します。

MIKOE NEWSから転載」 2020年11月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年10月24日土曜日

 マリヤ

 ルカの福音書1章は、バプテスマのヨハネの誕生や、キリスト・イエスの受胎告知に関して書かれています。受胎告知を受けたマリヤはどのような人物であったのでしょう

 カトリックでは、マリヤをキリストの母として礼拝の対象としていますが、聖書に出てくるマリヤはナザレに住むいわゆる田舎娘であって、カトリックが主張するような「無原罪」(一度も罪を犯したことのない)の存在ではありません。このことと、この違いをはっきりととらえておいてください。

 聖書に書かれているマリヤはうら若き処女であって、ダビデの家系に属するヨセフの許嫁でした。後のバプテスマのヨハネを身ごもった不妊の女エリサベツが妊娠6カ月になった時、神からことばを託されたみ使いガブリエルがマリヤの所に来たのです。そして言います。

  「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます」しかし、マリヤはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何のあいさつかと考え込みました。み使いは「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を生みます。名をイエスとつけなさい」と言いました。

 受胎告知の瞬間です。しかし、マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言いました。

 するとみ使いはマリヤに告げます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(中略)神にとって不可能なことは1つもありません」。

 これを聞いてマリヤはどう答えたでしょう。「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」そう言いました。

   私たちは、この告白のうちにマリヤの神への全き信頼と真の謙遜を読み取ることができます。ガブリエルが語った言葉は世にあっては正気の沙汰とは思えないような言葉です。でも、マリヤはこの言葉を額面通りに受け取ったのです。そして、そればかりではなく、マリヤのへりくだった心は「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」という告白につながりました。

  マリヤの素晴らしいところは、神に対する全き信頼にあります。理解できることはともかくとして、理解できないことであっても、この神さまがお定めになったのだから、という深い信頼があるのです。私たちもまたマリヤの信仰にならいましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年10月18日日曜日

 愛のかたち

 シェークスピアは、『ハムレット』の中で「弱きもの,汝の名は女なり」という一文を書きました。

 うら若き頃、弱くて消え入りそうな手弱女(たおやめ)もその後405060歳と年を重ねるうちに、とても手弱女と呼べるような者ではなくなってきます。太ってしまったり、恥らいを失ったり、うわさ話が大好きだったり、かつての手弱女は年月とともに、続々と「手強いおばさん」に仕上がっていきます。

   日本では、結婚したら、かかあ天下になるのが「家」の安泰だと思われている節があります。そんな文化だからか、おばさん達の中には、自分の連れ合いのことをうちの「宿六」(やどろく)と呼んでみたり「ごくつぶし」と言ってみたりします。ちなみに「宿六」の六というのは、「ろくでなし」の「6」で、家を宿代わりに寝に帰ってくるだけのろくでなし、というのが、その意味するところです。「ごくつぶし」は、飯を食うのだけは一人前だが、ほかにはこれといった能力が無い、といった意味です。これらは日本語特有の親しみをこめた言い方といえなくはありませんが、「家」の縛りが強すぎて個々人としての夫婦の姿や成長を見ることができません。

 聖書を土台とした結婚観では、結婚は、頭であるキリストとみからだなる教会を指す奥義で、「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」というものです。神が引き合わせた一人の男と一人の女は、「もはやふたりではなくひとりなのです」と宣言され、夫婦になるのです。 

 エペソ人への手紙5章は結婚に関して書かれている箇所として有名です。結婚生活においては、夫と妻それぞれに求められている働きは異なります。結婚が目指すところは、夫と妻2人が同じになっていくことではなく、神を真ん中にして異なる2人が互いに結ばれ、一つ心同じ体となって助け合うようになることです。ですから聖書は妻に対しては、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)と「従う」ことを語り、夫に対しては「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)と「愛する」ことが求められているのです。 

 神は愛であり、愛は神です。従う愛があり、愛する愛があります。いずれも聖書で語られている神の大きな愛の中の一側面です。一口に愛といっても神の愛と人の愛は違いますし、求められるところもまた両性において異なります。男の助けとして創造られてきた女はそれ故に男以上に優秀なところがあります。妻は夫に一番近いので、夫の弱さ、夫の足りなさが、よく見えるところにいます。しかし、その時、夫をさげすむ者は、そこにある祝福を受けることができません。しかし、幻を共有して助け従ってゆくなら大いに祝福されます。それは、女性の側の選びに任されるところが大きいのではないかと思います。

 こういう訳であなたの宿六を敬い、宿六を感謝しましょう。彼はあなたを愛する愛を既に神さまからもらっています。ありがとうと言ってみませんか。彼はあなたを「私の骨からの骨」と呼び、無限に愛を注いでくれるに違いありません。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年10月10日土曜日

 罪の赦し

 マタイの福音書18章は、赦しのことを取り上げていることでよく知られています。

  いつものことですが、主イエスの弟子のペテロは、イエスさまに良い所を見せたいと思ったのでしょう。こういう質問をイエスにしました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」7度というのはペテロにとってかなり譲歩したつもりの回数です。

 イエスさまは、それに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」とおっしゃいました。勿論これは490回赦しなさい、という意味ではなく、徹底して、幾度であっても、赦しなさいと語っておられるのです。

 赦しはキリスト教の根幹をなす教えです。この赦しの教えがどこから始まったかというとやはり、イエスさまの十字架上でのおことばからでしょう。十字架にかけられ罪人の一人として数えられたイエスさまは、み苦しみの中にあっても、私たちをとりなしておられました。34節では「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、十字架の上から祈られています。責めることもなく、裁くこともなく、私たちを赦し、愛を示されました。

 人を赦すということはとても難しいことだと思います。個人的な思いですが、赦しを思うと、いつもドミノ倒しが脳裏に浮かんできます。「連鎖」ということを考えるのです。ドミノでは誰かが第一番目のドミノを倒すなら、あとはもう誰も止められないほどの早さで事は一気に展開します。

 赦しというものもまた、ドミノ倒しのようだと私は思います。全体を動かす最初の1手がありさえすれば、あとは一気に進んで行きます。そして最初の1手となったのが、イエスさまの赦しです。十字架の愛です。イエスさまの十字架の死は、私たちを赦すために支払われた尊い贖いの代価です。

 赦された人は、赦す人になることができます。イエスさまが私たちを赦してくださったからこそ、私たちもまたキリストの愛によって、赦す力を頂くことができるのです。

   マタイによる福音書6章にはこう書かれています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(1415節)

 人は、人を救う力を持ち合わせていません。でも、イエスさまは神の御子ですから、それを持っておられます。そして、イエスさまが十字架にかかって死なれたのは、ただ一度、ご自身の身を代価として、私たちの罪を永遠に贖うためであったのです。イエスさまは、死なれて後3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。

 こういう訳で、イエスさまがあなたのすべての罪を赦されたのですから、私たちもまた、互いに罪を赦し合いましょう。それでは、まずあなたから始めましょう。主が赦されたのですから、私たちもまた、私たちに負い目のある人を赦しましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年9月22日火曜日

 耳のある者・目を覚ましている者

 黙示録23章は、普遍的な7つの教会に対する神のことばが語られており、それぞれ最後に「耳のある者は(御霊が諸教会に言われることを)聞きなさい」という一文で締めくくられています。耳のある者とは誰でしょう。 

 私たちの体は、神さまがおつくりになったもので、11つの器官が調和をもって重要な働きを担っています。特に顔はその傾向が著しく、目、耳、鼻、口は、あらゆるものを認識し、情報を発信するようにつくられています。その中で、特に今回は「耳」や「目」を取り上げたいと思います。 

 若者は、イヤホンをつけて歩きながら音楽を聴くのが好きです。しかし、そうなれば、呼んでも聞こえません。耳が悪いのではなく、心が音楽に向いているからです。 

 聞く耳が無い。聞く耳を持たない。これは、本当に聴覚を失くしたというのではなく、おもに心が神から離れてしまった心の状態を言います。いくら神が素晴らしい計画を持っておられても、当人の心がそこにないなら、何の意味もありません。耳と心は密接な関係にあり、つながっています。 

 それ故、イエスさまは、聞く力に応じて、群衆と弟子たちとを区別されました。一般の群衆には「たとえ」を用いて教えられました。しかし、弟子たちにはその「ときあかし」をされたのです。そしてここでも、「耳のある者は聞きなさい」と言い、ご自身のことばを心で悟るかどうかを、私たちに任されました。 

 また、目に関しても、イエスさまは何度も「目を覚ましていなさい」と語ってくださっています。ゲッセマネでの祈りの時に、イエスさまは、苦しみもだえて祈り、汗が血のしずくのように地に落ちました。この一大事に弟子たちといえば、悲しみの果てに、眠り込んでしまっていました。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」とイエスさまにお叱りを受けたと記されています。(ルカの福音書22章参照)目は素晴らしい器官ですが、眠りやすいのです。 

 同福音書1315節には次のような引用があります。 

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである」。 

 耳は聞くため、目は見るための器官です。大切なのは、心、すなわち悟りです。心が主から離れると、いのちである言葉を聞けませんし、盲目になってしまいます。それ故私たちはあらゆる場面で悟る心を働かせていきましょう。そして、イエスさまのいやしを受け、永遠のいのちを受けましょう。これこそ、主があなたに与えようとしているものだからです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年9月14日月曜日

 いやされる信仰

 信仰といやしは密接な関係にあります。 

 使徒の働き14章に、パウロとバルナバがルステラで、福音の宣教を続けていた時のことが書かれています。そこでは、生まれつき足のなえた人、歩いたことが無い人が、パウロの話に耳を傾けていた様子が書かれています。 

 パウロはこの人に目を留め、いやされる信仰があるのを見て取ると、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」といいました。すると、彼は飛び上がって歩き出しました。 

 また、マルコの福音書5章では、十二年の間長血をわずらっている女性がいやされています。この女性は多くの医者からひどい目に会わされ、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったのに何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。 

 彼女は、イエスの事を耳にすると「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」とかたく信じて、群衆の押し迫る中、後ろからイエスの着物にさわりました。するとすぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを体に感じました。 

 イエスさまも、ご自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。 

 女性は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏して真実を余すことなく打ち明けました。イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」と言ってくださいました。 

 特筆すべきなのは、両者ともにいやされる信仰があったということです。あのイエスさまなら、きっと自分をいやしてくださる、そう信じる信仰が彼らにはあったのです。そして、その信仰はむなしく終わることなく、彼らの想像をはるかに超えたいやしと奇跡をもたらしました。 

 ペテロの手紙第一26節には「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と書かれています。彼とはイエスさまです。あなたもまた、信仰の海に漕ぎ出して、神さまのいやしと恵みを頂きましょう。神さまはどのようなことでもおできになり、あなたをいやしてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年9月3日木曜日

 神の『ものさし』

 人はそれぞれ持っている物が異なっており、その才能も能力も11人異なります。神さまは主権をもって11人に測ってタラント(能力)を与えてくださいました。マタイの福音書25章では、タラントについて次のように書かれています。 

 彼(神)は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、旅に出かけた。5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。同様に、2タラント預かった者も、さらに2タラントもうけた。ところが、1タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した(1518節)。 

 私たち互いの間では、与えられた能力の多い少ないという違いは確かにあります。しかし、聖書はもうけたものの多い少ないを問うている訳ではないのです。主人はこう言っています。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(2123節)。 

 忠実さ、これが神の尺度、神の唯一の「ものさし」なのです。これに照らし合わせて私たちは評価を受けるのです。 

 1タラントを預かったしもべは、それを地の中に隠してこう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」(2425節)。 

 この言葉は主人の逆鱗に触れました。主人はこう言います。「悪いなまけ者のしもべだ。(中略)おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息が付いて返してもらえたのだ。(略)だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを10タラント持っている者にやりなさい」。 

 人それぞれ、能力によって結ぶ実は異なります。そして人は結んだ実の多い少ないを「ものさし」として、私たちを測ります。それが世なのです。しかし、神はそうではありません。神が私たちを測る「ものさし」は、あくまでも忠実さなのです。結果でも実の大小でもありません。 

 ルカの福音書にはこのように書かれています。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」(161011節)。後の世においても忠実さは、神の尺度、神の「ものさし」であるようです。私たちは、与えられているものに忠実でありましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月30日日曜日

 仕える者になりなさい

 最近、藤井聡太棋聖の活躍が、あちこちで聞かれます。しかしそこで繰り広げられているのはまさに勝負です。勝負の世界は厳しいものです。誰が上で誰が下か、ということが明確にされるのが勝負だからです。勝ち負けというのは、人生の至る所で私たちが直面するもので、そこから逃れ得る人は一人もいません。 

 イエスの12弟子の中に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの兄弟がいます。二人は、母親とともにイエスのもとにやって来て、お願いをしました。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」というものです。 

 これにはイエスさまもあきれたようです。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」と言いました。2人は「できます」と答えました。確かに、後の日にはヤコブは殉教の死を遂げ、ヨハネはパトモスへ島流しにされます。しかし、「わたしの右と左にすわることは、私が許すことではありません。それに備えられた人々があるのです」とイエスさまは語られました。他の10人もこれを聞くと腹を立てました。彼らも言わないだけで、考えていることは同じだったのでしょう。 

 上に行き上に立って益を得ようという野望、これが人にはあります。お前は私にとって上か下かと区別をつけて生きること、これは、無意識になされているねたみの生き方です。競争が起こるのも結局は上か下かを区別するためです。 

 「鶏口牛後」という言葉があります。「鶏口となるも牛後となるなかれ」というのがその意味するところで、大きな団体で部下になっているよりも(牛後)、小さい団体でもかしらになった方がいい(鶏口)、という考え方です。これには賛否両論があるでしょう。 

 かしらになりたいものは大勢います。上から目線であなたに語ってくるでしょう。でも、イエスさまはお弟子たちを集めてこう言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコの福音書104344節)。 

 これは、世には愚かに聞こえる教えです。しかし、ここに解放があり勝利があります。仕えられるより、仕えることをキリストイエスは推奨されました。私たちもまたイエスさまに倣いましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月22日土曜日

 失うことは得ることです

 聖書の福音書には、それぞれ次のようなイエスさまのことばが引用されています。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカの福音書924節)というものです。 

 これはイエスさまが得意とする逆説的な表現で、究極的には殉教のことを指すことばとして読むことができます。世において、自分に死んで自分中心にではなく神さまを中心に生きる時、私たちは祝福されます。神に聞き従う人生がいかに祝福されるかを、イエスさまはこの箇所から伝えようとしておられるのです。 

 さて、世界的なピアニストとして活躍しておられる辻井伸行氏は、つとに有名で、多くの人の心に触れる演奏をします。彼は、ここでこの音をといった瞬間、痒い所に手が届くように、まさにその音を正しく出してくれます。多くの人が素晴らしいと絶賛してやまない天与の才があります。 

 その辻井さんは、生まれながら目が見えないという障がいを抱えておられます。しかしその演奏にはハンディなど微塵も感じさせません。むしろ、優れた資質が露わにされています。確かに辻井さんは眼が不自由です。でも、見えるところ以上の心の眼を確立されており、それを最大限に用いて演奏をなされるのです。辻井さんの人生には神の栄光を見る思いがします。目が見えないことは、彼にとって、失ったこと以上に、得ることが大きいものとなったのではないかと私は思います。 

 殉教も同様です。私たちは肉の命こそ失いますが、神が下さる永遠のいのちに与ります。神にささげたものは幾倍にもなって戻ってきます。一見失うように見えますが、神はさらにすぐれたものを備えておられるのです。殉教には殉教の報いがあります。 

 以前は、私は失うことはその時点で終わりだと思っていました。しかし、そうではありませんでした。私たちの人生には、失うことによって、得るものがあります。また、得させるためにあえて、失わせるものもあります。そしてどの道においても、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。これこそ私たちの確信です。 

 こういう訳で、私たちは神に知られているのですから、恐れることはありません。すべてのことを感謝し、イエスキリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月12日水曜日

「イエスが愛された者たち~サマリヤの女篇」

 イスラエルは、12部族を擁する民族です。ところが、ソロモンの子ヤロブアムの代に、北王国10部族と南ユダ2部族に分れてしまいます。そして、紀元前721年、北王国イスラエルの首都であるサマリヤはアッシリヤに占領され、多くの住民が捕囚となり引いて行かれました。その後、新しくサマリヤに移住してきた他民族がいて、その人たちとの間に雑婚が起こり、混血民族となり民族の血統が失われてゆきました。それに対してユダヤ人は人種的純粋性を守り通しました。それゆえユダヤ人はサマリヤ人を蔑視し、両者の間には根深い対立と反目がありました。 

 ユダヤからガリラヤへ行く時はサマリヤを通るのが近道です。けれども多くのユダヤ人は、それを避け、あえてヨルダン渓谷の厳しい道を通って行きました。しかしイエスさまは「サマリヤを通っていかなければならなかった」と聖書が記しているように、まっすぐに顔をサマリヤへ向けておられました。深いお考えがあったのでしょう。 

 昼の12時頃、イエスさまはスカルというサマリヤの町に着き、井戸のかたわらで旅の疲れをいやしておられました。すると、1人のサマリヤ人の女が水をくみに来ました。イエスさまがこの女に、水を飲ませてくださいと所望すると、女は驚き、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と言いました。ユダヤ人は雑婚のサマリヤ人を軽蔑しつきあいをしなかったからです。 

 イエスさまは、女にこのようなことを言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」女は、「その水を私に下さい」といいました。 

 すると、イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言います。女は「私には夫はありません」と言いました。「もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」イエスさまはこうおっしゃいました。 

 5人の夫を持ちまた別れ、今は内縁の夫と暮らしている女の素性をイエスさまは言い当てました。驚きのあまり女は、水がめを置いて町に急ぎ、民に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言ったひとがいるのです。この方がキリストなのでしょうか」。 

 こうして、彼女を通して大勢のサマリヤ人がイエスに出会い、イエスが世の救い主・キリストだと信じるに至りました。 

 女は、罪深い女でした。人がいない炎天下を選んで水くみをしているのは彼女に社会的な負い目があるからです。それがイエスに会うと一変し、自ら苦手な民の所に行き、イエスを紹介しました。主イエスはこの女に届くためにあえてサマリヤに来られたのです。イエスさまは裁きません。この女を愛し憐れんで、永遠のいのちへの水を与えたいと思われたのです。そして女だけではなく、ユダヤ人にさげすまれている雑婚のサマリヤもまた、愛し救おうとされたのです。 

 人は罪人です。しかし聖書には「罪に惑わされてかたくならないようにしなさい」(へブル人への手紙3章13節)という一節があります。イエスさまが来られたのは、裁くためではなく、赦し救うためです。罪人を愛された主、イエスはこう呼ばれることを良しとされました。多く赦される者は多く愛する者となるからです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年8月4日火曜日

「イエスが愛された者たち~ペテロ篇」 

 ペテロを自分のクリスチャンネームとする人は決して少なくありません。ペテロに自分を重ねるのか、自称ペテロも本家同様、よく失敗しています。肉丸出し。自己顕示欲が強い。目立ちたがり屋で、よく失敗する。これがペテロです。けれども悪い奴かといえばそうとは言い切れなくて、ひと言でいうなら憎めない人物です。彼は彼なりに心からイエスさまを愛していました。イエスさまもまたそのことをご存じで、ありのままのペテロを愛しておられたのです。 

 ペテロは肉にあってよく失敗をしました。特にイエスさまが最も大切なことを語っておられる時に真逆を行くのです。福音書によれば、主イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問うたところ、ペテロは「あなたは、キリストです」と100点満点の答えをしました。そこでイエスさまは、もう大丈夫だと思われたのでしょう。ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならないと弟子たちを戒められると、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められました。これは主の宣教の中核をなすもので、まさにこのためにイエスさまは世に来られたのです。 

 しかしペテロは、イエスさまを引き寄せて、いさめ始めました。「主よ。神の恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」善意の言葉です。 

 しかし、それに対してイエスさまは、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言いました。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」そして、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せ、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と、宣教の招きを広くなされたのです。 

 また、イエスさまは12弟子の中で最も若い青年ヨハネを特に愛されました。ペテロは内心それが妬ましくてなりません。自分に対する素晴らしい主の召命を聞いた後でも、彼が気になりました。すべて自分が1番でないと面白くないという側面が伺えます。 

 誰よりも自分は主を愛している、そうペテロは自負していました。ところがこれが覆される時が来ました。主イエスのことば通り、イエスが祭司長律法学者たちに捕らえられた時、「おまえはイエスとともにいた」と言われると、「知らないね。何を言っているのか分からない」と、自分を救うため3度イエスさまを否みました。イエスはあらかじめこうなるとペテロに言っておられたのですが、果たしてその通りになったのです。ペテロは、主イエスを裏切りました。イエスを愛しているのに、否んでしまった自分の弱さに、彼は号泣しました。 

 しかし神はここから、ペテロの公けの人生をスタートさせます。3度イエスを否んだペテロに、主は現れ、3度「あなたは私を愛しますか」と言ってくださいました。ぺテロには、愛しますと言えるようなものはもうありません。彼は心を痛めて「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」と語り、それが精一杯でした。 

 これが、イエスが愛されたペテロのありのままの姿です。人の愛と神の愛は違います。自分を大きく見せようといったものはもはやありません。神はペテロを愛しておられ、牧者へと建て上げてくださいました。あなたもまた、自分を飾ることを捨て、ありのままのあなたで、イエスのもとに行きましょう。主はあなたを愛し、あなたを建て上げてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月28日火曜日

「言ってはいけないひと言」

 神は侮られるようなお方でありません。聖書はたびたび「神を恐れる」ことを私たちに教えています。私はクリスチャンになって37年になります。長きにわたってクリスチャンでいると、神さまがどういうお方かじんわりとわかってきます。神を恐れるという一点において、言ってはいけない言葉というのが確かにあるのです。 

 第一列王記20章は、イスラエルの王アハブとアラムの王ベン・ハダテとの戦いを書いています。両者は敵対関係にありました。圧倒的にアハブが劣勢でした。しかし預言者が来て、勝利を語るとアハブは奮い立ち、アラムを打って大損害を与えました。 

 ところがこの敗北に、アラムの家来はこう言いました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう」。 

 一年後、再び両者は戦うことになります。そこに預言者がやって来てイスラエルの王アハブに言いました。「アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう」(20節)。 

 両軍は互いに向かい合って7日間、陣を敷き、それから戦いを交えた所、イスラエルは一日のうちにアラムの歩兵10万人を打ち殺し、大勝利を収めたのです。一日で10万人というのは神でなければできない数字です。山の神、地の神というのは、真の神・唯一絶対の主を知らない者が語ることばであって、主は自らこれをくつがえされたのです。 

 第二列王記7章にも、神への恐れを持たない者の、愚かな幕引きが記録されています。その後、ベン・ハダテは全軍を招集し、サマリヤを包囲しました。そこでイスラエルはひどい食糧難に陥り、子どもを食べることさえ行われていました。 

 この状況に王は憤っていました。しかし、預言者エリシャは、こう言います。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」。 

 ところが、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が口答えします。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」。 

 預言者は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言いました。 

 そして迎えた翌日。主がアラムの陣営に戦車の響き、馬のいななきを聞かせたため、彼らは陣営をそのまま置き去りにして、命からがら逃げ去って行きました。そこで民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことば通り小麦1セア大麦2セアが1シェケルで売られるようになりました。侍従はその管理にあたりましたが、門で民が彼を踏みつけたので彼は死にました。神を知らないのに、軽々しく神と口にした侍従のひとことは見逃されるものではありませんでした。 

 神は、私たちの言葉のすべてを聞いておられます。そしてご自身に挑戦する言葉には自らをあらわし、正しい裁きをなさいます。人はその人生の土台に神を恐れるということを持たないのなら、やがて滅びの道を歩むようになります。しかし、神さまを正しく恐れて語る言葉は主からの祝福を受け豊かな実を結びます。 

 言ってはいけないひと言、それは神を恐れないで口にするあらゆる無駄な言葉です。私たちは、生ける神を恐れましょう。 

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月23日木曜日

「イエスが愛された者たち~ザアカイ篇」 

 エリコの町にある取税人がいました。名をザアカイと言います。当時エリコは交通の要所でにぎわっており、ザアカイは取税人の頭でした。彼は私腹を肥やし、大金持ちでしたが人々から嫌われていました。けれどもそんなことはザアカイにとってはどこ吹く風で、彼は気にも留めませんでした。 

 イエスさまがエリコに来られたと聞くと、ザアカイはうわさに聞くイエスを見たいと思いました。ところが彼は背が低く、人だかりに呑まれてしまうので道沿いのいちじく桑の木に登り、そこからイエスを見ようとしました。 

 するとちょうどそこにイエスさまが来られ、ザアカイを見上げて言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家にとまることにしてあるから」ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスさまを迎えました。これを見て皆は、イエスさまは罪びとの所に行って客となられたとつぶやきました。 

 しかし、イエスさまに出会ったザアカイは、一変しました。宴たけなわになると、ザアカイはやおら立ち上がりイエスに言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。 

 イエスさまもこれを喜び、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を探して救うために来たのです」と言ってくださいました。恐らく満面の笑みを浮かべてのおことばであったでしょう。 

 サムエル記第一16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る」という一文があります。祭司長・律法学者は当時のエリートです。しかしそれはうわべだけのことであって、心はむしろ罪人ザアカイが神の目にかなっていたのでしょう。 

 ルカの福音書15章で、羊飼いは一匹の迷った羊を探すためには、99匹の羊を置いたままにして見つけるまで捜し歩くと書かれています。ザアカイはそんな羊の一匹であったのです。 

 私たちもまた、失われた羊、失われた人です。イエスさまは私たちを探し出し、悔い改めを導き、救いに与らせるために世に来られた救い主です。主はあなたの心をご存じです。イエス・キリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月13日月曜日

 「イエスが愛された者たち~幼子篇」

 当然のことながら、子どもは大人とは違っていて、独自の世界に生きています。足手まといになると大人から邪険にされても、聞いているのかいないのか、つかず離れずの距離を保ってそこここにいるのが子どもです。 

 さて、イエスさまが来られた時、人々はイエスさまに触っていただこうとして、子どもたちをみ元に連れてきました。ところが、弟子たちは子らを叱りました。大人の世界に子どもが立ち入るな、ということでしょうか。あっちへ行けと言われたかもしれません。 

 しかしイエスさまはこの様子をご覧になると、憤って彼らに言いました。 

 「子どもたちを、私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」 

 「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(マルコの福音書10章13~16節参照)。 

 神の国は、子どもたちのものであり、子どものように神の国を受け入れるのでなければそこには入れないとイエスさまは言うのです。 

 子どものように、というのはどういうことか考えてみました。 

 子どもには、無条件で天のお父さんに抱き着く心の低さがあります。着ている服が泥だらけであっても、ぬぐうでもなく、身元に飛び込んで来る、その全き信頼。これが神の目には尊いのです。 

 ありのままで、というのが子どもたちの強みです。多くの大人は、高いハードルを自分で作ってしまい、神の国を自ら遠くしてしまいました。 

 イエスさまが、子どもを愛したのは、その偽りのない心を尊ばれたからです。イエスさまは弟子たちをお叱りになると、子どもたちを抱いてやって、1人1人に手を置いて祝福してくださいました。 

 イエスさまは、子どもを愛されました。私たちもまた天のお父さまの前には子どもです。悩み苦しみを包まず述べて、すがりましょう。主は平安を下さり、あなたを守って下さいます。       

MIKOE NEWSから転載」 2020年7月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月4日土曜日

サウルとダビデ 

 聖書の箴言に「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(29章25節)という一文があります。人を恐れて失敗した代表的な器は、サウルでした。

 サウルは初代のイスラエルの王です。その当時イスラエルは、神自らが裁きつかさたちを通して治めておられていたにもかかわらず、民はそれを好まず、他国同様「王」がほしいと言い出し、大いに御心を損ねました。しかし神は、イスラエルに王を与えられます。それがサウルであったのです。サウルは容姿端麗でまた戦士でした。王になるにふさわしいと人々が思うような人物であったのです。

 ダビデは、召し出された頃は少年で、紅顔の美少年であったようです。神を恐れる人物で、彼もまた戦士でした。イスラエルの戦陣をなぶる大男ゴリアテを一つの石で倒した話はつとに有名です。女たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌っては踊り、サウルの妬みを引き出しました。 

 二人とも罪を犯します。サウルは、アマレクとの戦いで、聖絶せよという主の御声に聞き従わず、良いものを惜しみ、価値のないものだけを聖絶し、さらには自分のために記念碑まで立てました。彼は主に聞き従っているつもりでいました。しかし、そうではないことをサムエルに告げられるとこう言いました。 

 「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」いささか弁解じみているように聞こえます。そしてサウルはサムエルに懇願します。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目立ててください」(サムエル記第15章30節参照)サウルは神よりも人を恐れたのです。箴言のことば通り罠にかかってしまいました。 

 一方、ダビデもまた罪を犯しました。戦士ウリヤの妻を召し入れ姦淫の罪を犯し、さらには、その罪を隠すため激戦地にウリヤを送り死なせてしまいます。これもまた、大きく主の御心を損ないました。 

 預言者ナタンによって罪を指摘されるとダビデは直ちに「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。核心を突く悔い改めでした。するとナタンは即座に「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」という主のことばを取り次ぎました。 

 罪こそ犯してしまいましたが、ダビデは神への恐れを持っていました。罪は神の前に問われるものであり、悔い改めは神に対してなすものです。サウルは人を恐れたので神の前に本当の悔い改めができませんでした。 

 そしてそれがサウルにとっての罠となりました。私たちは人を恐れやすいものですが恐るべきお方は、父なる神さまおひとりです。この方を恐れることは正しい道であり、この方に信頼する者は守られます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年6月29日月曜日

 ブーメラン

 杉並区に城堀荘という下宿があります。35年前に、ここで特別な神さまの働きがありました。イエス・キリストを信じ救われた女子大生4名が寝食を共にし、熱心に主に仕え、神の器としての訓練に与りました。今から思えばこれは特別な恵みであったと思います。4名は今、キリストの弟子としてそれぞれ召された所に立って実を結んでいます。

 城堀荘で私たちは、真剣に献身を考え、また追い求めました。聖書には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書834節)と書かれています。その中で特に「自分を捨て」るということが徹底的に訓練されました。

 ある姉妹は深く愛したカーペンターズをささげました。愛用のレコードを処分し、そこにイエスさまをお迎えしました。私もまた、自分の拠り所となっていた文学をささげました。イエスさまが新しく私の拠り所となられたからです。やると決めたらそれこそ徹底して行うのが若さで、すべてをささげた濃厚な時間を過ごしました。

 話は変わりますが、ある牧師が説教の中で、サルを捕獲する方法について言及されました。恐らくそれは南の国であったと思います。椰子の実に穴を開け中に小石を入れておきます。それをそこかしこに仕掛けると、やがて好奇心の強いサルが近づいて来ます。そして穴に手を入れると、中にあった小石をしっかりと握ります。そして引き出そうとするのですが、握った手は大きくなっているので穴から出すことができません。握った手を手放せばよいのにその知恵がないのです。こうして、サルはいともたやすくハンターに捕獲されます。

 しかしこれは、サルに限った話ではありません。私たちも手に握っているものがある限り、新しいものを受けることができません。握っているものを手放さないなら、サルと同様いとも簡単に捕獲する者に捕らえられてしまいます。こういう訳で、自分にとって今握っている大切なものをささげることは、失うことではなく、より大きい祝福に与ることなのです。

 こういう訳で、握っているものがあるかないか神にお委ねしましょう。そして、さらにすぐれたものを受けるため、握っているものを一旦神にすべてをお返ししましょう。そうすれば、それらは、より優れたものとなって、また何倍にもなって、ブーメランのように、あなたの所に帰って来ます。

  (イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年6月20日土曜日

ギデオンの300名

 イスラエルにまだ王がなかった頃、神は士師(裁きつかさ)を起こして、イスラエルを治めておられました。その中の一人がギデオンです。ミデヤン人からイスラエルを救うため、ギデオンは召し出されました。

 その戦いは実にユニークで興味深いです。ミデヤン人の軍隊は13万5000名でした。対するイスラエルは、3万2000人です。およそ4倍ものひらきがあります。当時の戦争は、今のように兵器で勝敗が付くものでなく、人海戦術つまり兵の数によって勝敗がつくものでした。ですから、どう見てもイスラエルには不利な戦いであるように思います。ところが、神は「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない」と語られたのです。イスラエルが『自分の手で自分を救った』といって、わたしに向かって誇るといけないから」というのがその理由です。多すぎるなんて、ミデヤン軍から見ればイスラエルは4分の1です。倒すのは赤子の手をひねるように簡単でしょう。3万2000人は決して多い人数ではありません。しかし、神はギデオンに、「恐れおののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい」と告げるように指示します。このことによって、2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。

  それでも神は、民はまだ多すぎると言います。「水のところに下って行け、あなたのために彼らをためそう」とギデオンに言いました。下っていくと主は「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ」と言い、口に手を当てて水をなめた者の数、3百名で、ミデヤン人をあなたの手に渡すと言われたのです。3万2000人でさえも、少ない人数であると思います。しかしそこからわずか1%に満たない300名でミデヤン人13万5000人と戦うのです。勝ち目なんてあるわけないでしょう。

  しかし、これが神の戦いなのです。この後、ギデオンは残った300名を3隊に分け、全員に角笛とからつぼを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせました。3隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、左手にたいまつを堅く握り、右手に角笛を堅く握って「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫び持ち場についたので、ミデヤン人の陣営は混乱し、主は同士討ちが起こるようにされました。その結果、イスラエルは圧倒的な勝利を見たのです。

  ギデオンは神に聞き従いました。それゆえそこから先は、神がはたらかれました。勝ち目のないところに神が介入され、奇跡が起こり、神の栄光と勝利が現されました。その土台となったのは、試しを経て残った300名です。たった300名がミデヤン人13万5000人に打ち勝ったのです。これが神の戦いです。

  主の預言者エリヤはバアルの預言者450人に1人で立ち向かい勝利を得ました。羊飼いダビデは職業戦士ゴリアテに石1つで勝利しました。たった一人であっても神の陣営に立つならそこに勝利があります。人にはできないことであっても、神はどんなことでもおできになるのです。

  ギデオンの300名はいわば底でした。神は軍を最小化させられました。そして、そこから働きが大きく展開していきました。小さくさせられたこと、へりくだることを通して、この戦いは人の手から神の手に移ったのです。

  今、私たちはわずかです。しかし、これから大きく増え広がって行きます。300名を土台として圧倒的な勝利を見て行きます。期待しましょう。
 (イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年6月12日金曜日

若者への提言

 私は、50代半ばの女性です。「おばちゃん」と言われて久しく、ン十年になります。しかし、このところ、いつの間にか「あ」が付きはじめて「おばあちゃん」になって・・複雑な気持ちでいたのですが、何と12月には本物のおばあちゃんになります。
 初老にさしかかっている私たちも、始まりは皆20歳そこそこでした。神さまに召されて日本中から集められ、私たちは、自分に対する神のビジョンを受けるために大胆に信仰の海に漕ぎ出しました。そして、おのおのその信じるところによって踏み出していきました。
 ある者は、牧師として宣教地に赴き、たくさんの教会を立て上げました。1つの教会から、今や100を超える教会が出てきています。またある者たちは、あふれるばかりたくさんのリバイバルソングを作りました。そして、ある者は危険を覚悟の上で出て行って、孤児たちの母となりました。その頃はただ「ことば」しかありませんでしたが、それを十分として、信仰に立って出て行ったのです。
 それから、20年30年が経ち、働きは実を結ぶまでになりました。
 マタイの福音書25章に興味深い記述があります。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のよう」だ、とことわった上で、「おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントとを渡し」ました。皆出て行って、商売をし、それぞれ五タラント、二タラントもうけました。ところが、一タラントを受けたしもべは、地を掘ってそのお金を隠しました。やがて、主人が帰って来て、彼らと清算をしました。
 五タラント、二タラントもうけた者に主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」とねぎらいの言葉をかけました。ところが、一タラントを預かったしもべは、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」と言い、主人の怒りを買います。銀行に預けておくべきだった、そうすれば利息がついて返してもらえたはずだ、こう言って彼の一タラントは五タラント持つしもべのものとなりました。
 私たちは、例外なくタラントを頂いています。このタラントには忠実であることが求められるのです。人それぞれ持って生まれたものは違います。しかし、大小にかかわらず与えられたものを用いることを神は忠実さと認められるのです。この点においても神は平等です。
 私たちの人生には例外なく神のみこころ、召しがあります。神は私たちを自由にし、どういう人生を送るのか私たちに委ねておられます。そして、やがて人生の実を結ぶ時がやって来ます。
  最後に、ある姉妹のことをお話ししたいと思います。彼女は、孤児院の働きをするという召しを受けていました。信仰を頂いて、神のことばを唯一の拠り所として単身某国に赴きます。内戦の中にあっても孤児たちの母となるために留まり、活動を続けました。今はそれから20年以上になります。先日私たちのキャンプに、孤児5名とともに来日しました。豊かな実が結ばれています。
 人生は、何かをするには少なすぎる、とお思いでしょうか。しかし、神の召しを行うには十分なのです。信仰のビジョンを高く掲げてください。大きければ大きいほど、結ぶ実も豊かです。何もしないで人生を送るのは、土の中にあなたのタラントを埋めるようなものです。
 「時」は恵みです。若者には手つかずの時があります。キリストイエスのしもべとなり、永遠に至る実を結びましょう。
(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/