2019年2月6日水曜日

ライト(光)

 あと2年で私は、父が召天した年齢になります。父が結んだ実は多岐多様で、私など及ぶべくもない波乱万丈の人生でした。
 その日、父はゴルフ場で吐血しました。食道静脈瘤(りゅう)破裂です。病院に入院し、バルーンを調整して止血を図り、何とか一命を取り留めました。
 ヨハネの福音書1章に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)という一文があります。これは、強力なみことばで、父の枕元に立ってこの聖句をゆっくりと朗読すると、父を取り巻いているあしきものが一つ一つ消えて行きました。この聖句は、キリストの勝利のことばでもあり、このみことばを用いるにあたって神さまの勝利がどれほど大きいかを知るようになりました。
 聖書に触れる機会が少ない日本人は、無意識のうちに、神さまとサタンを同列に見ようとする傾向があります。けれども、それは誤りです。神さまとサタンでは、光と暗闇ほどの違いがあります。光と闇は別物で、決して両者が交わることはありません。神は全能者で、サタンは被造物なのです。どんなに深い闇であっても、そこに光が置かれるなら、たちまちにして闇は消失します。両者にはこれほどの違いがあるのです。
 ヨハネの手紙第一には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(1章5節)と書かれており、ここでも光の絶対的な勝利が記されています。イエスさまご自身もまた、こう語っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8章12節)
 今は、救いの時です。「あなたがたがに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月10日号(第1028号)より転載—

2019年1月30日水曜日

幸せにするために

 出エジプト記は、壮大なスケールで展開される聖書の一大巨編です。イスラエルの民はモーセのつえに従い、奴隷の身分から解かれ、エジプトを脱出し、神が与える約束の地カナンに向かいます。とはいえ、エジプトがそうやすやすと許す訳がありません。パロは、幾たびも心変わりをし、イスラエルを使役しようとし、追い掛けました。
 気付けば、絶体絶命のピンチが来ていました。後ろにはエジプト軍、前は海という状況となったのです。民は、この荒野で死ぬよりエジプトで奴隷であった方が良かった、とつぶやきました。しかし神は前進と語られたのです。モーセが手を海の上に差し伸ばすと海が二つに分かれ、海の底の乾いた道を民は行き、出エジプトの栄光が現されました。
 時折、私たちは、主に従ってきたのに、なぜこんな悪い事が起こるのかといったことを、つぶやくことがあります。悩みますが、それは神さまがあなたに対して、ご自身のご栄光の計画をお持ちだからだと思います。悪い事も良い事も、神は測って与えてくださいます。意味のないものは一つもありません。試練ですら神は祝福とされるのです。
 試練はさばきに見えますが、違います。試練は良きものです。愛から出ているからです。神さまは私たちを愛しておられるのです。親が子を愛するように、この霊の父もまた、私たちを子として愛するが故に、懲らしめたり悟らせたりするのです。
 神さま、なぜこんな試練をお許しになったのですか、という祈りをした時、申命記8章16節に答えを見付けました。そこには「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と書かれていました。あなたを幸せにするためにその試練は許されているのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月3日号(第1027号)より転載—

2019年1月23日水曜日

芸術家

 イタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロは、聖書からゴリアテに立ち向かう青年ダビデを彫刻で表現しました。「ダビデ像」は彼の代表作であり、目にした方も多いと思います。
 とかく芸術家というものは、凡人にはあずかり知れない感性を持つもので、彫刻に関して彼はこう語りました。「大理石の中に人が閉じ込められている。苦しそうだから早く出してやらないと
 私たちに見えるのは大理石の塊ですが、ミケランジェロには、その塊の中に完成されたダビデ像が見えていたのです。しかも、その大理石は、2人の芸術家がさじを投げたものであって、3番目にミケランジェロに回ってきた捨てられた石であったのです。そこから最高の芸術作品が生み出されました。神さまは、何と素晴らしいお方なのでしょう。
 マルコの福音書121011節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」という一文があります。これはミケランジェロの彫刻に通じる話ではないでしょうか。
 神さまは最高の芸術家(陶器師)で、私たちは土くれです。失敗したからといって失望する必要はありません。どんな事でも神さまにおできになれない事はありませんし、神さまは、常にあなたに最善を図ってくださるお方だからです。
 私たちは、誰もが罪を持ち、失敗があります。しかし、イエスを主と信じる私たちは、芸術家の手によって最善のものへと作り変えられるのです。芸術家、それは神です。ローマ人への手紙828節をお読みください。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束されています。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月27日号(第1026号)より転載—

2019年1月16日水曜日

振り返らずに

 イスラエルの死海を訪れた際、ロトの妻といわれる岩塩の柱を見ました。そのいきさつは創世記19章をお読みください。神がソドムとゴモラを滅ぼそうとした時、御使いはロトを助けようと、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と警告しました。しかしロトの妻は逃げる途中振り返ったので、塩の柱になってしまったというのがその由来です。
 聖書を読んでみると、神さまは、後ろを振り返ることがお嫌いであるようです。例えばイエスさまは、ルカの福音書9章62節で、家族にいとまごいさせてくれと請うた弟子に「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」とおっしゃいました。
 また、ピリピ人への手紙3章でパウロはこう語っています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。(中略)ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(1214節)
 過去に目を留めると足が止まってしまいます。パウロが語っているように、後ろのものを忘れるということはとても大事なことです。そして、ひたむきに前のものに向かうということはそれ以上に大切です。
 イザヤ書43章にはこのように書かれています。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか」(1819節)
 あなたの所にも今、確かに新しい事が起ころうとしています。後ろを振りかえらず前へと進む時がやって来たのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月20日号(第1025号)より転載—

2019年1月9日水曜日

 

 祈りは一つの原則で、祈りは決して一方通行に終わるものではありません。今日救いを受けた方であっても、イエスさまの御名(みな)によって祈ることができます。そして、そればかりではなく、祈りの答えを見ることができます。クリスチャン1年生であっても、信仰歴数十年といった人と同様の結果を見るのです。
 それは、イエスさまの十字架の贖(あがな)いによって、私たちが、罪なき者とされたからです。罪があると、罪は神さまと私たちの間を遮断しますから、例外はあるとしても、祈りは聞かれません。しかし、悔い改めるなら、神は全ての罪を赦してくださるので、神のみこころに沿った祈りは聞かれます。
 経験でもなく年数でもありません。信仰です。信仰を運用し、信仰によって神に近づくなら、誰であっても神は祈りに応えてくださいます。これは原則です。
 信仰と祈りは、切っても切れない関係にあります。というのも、信じていない人は、はなから祈ることをしません。どうせ無駄だと諦めているのです。反対に、祈りを知っている人は、確信を持ってどんどん祈るようになります。祈ること自体が信仰の行いとなるので、祈る者は祈りに応えられる神さまの現実を体験するようになります。
 問題の中にある人は多いです。しかし、その中で祈りを用いる人は思いのほか少ないのです。祈りは神が働く基盤です。日々の小さな事柄を祈れる人は、大きな問題が来た時でも祈ることができます。
 祈りは、主イエスを信じる私たちの特権であり、祈りは神の手を動かします。それ故、祈ることをお勧めいたします。
 マルコの福音書1124節にはこのように書かれています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月13日号(第1024号)より転載—

2019年1月2日水曜日

憎しみそして赦し

 世にある限り、恨みつらみは避けられません。私たちは皆、罪びとですから、人を傷つけ、また傷つけられます。それ故、「赦す」ということを学ぶことは誰にとっても必要です。しかし、これは簡単にできるものではありません。
 考えてみてください。大切な人を犯罪で殺された人はどうでしょう。犯人に復讐(ふくしゅう)してやりたいと思わないでしょうか。それを押さえて、その人を赦すことは大変な苦しみになります。
 私もまた、赦せないという心の痛みを戦っていた時期があります。しかし、あるシスターの書いた著書の一行で立ち直りました。「赦(ゆる)せないという悩みは、赦したいという心から始まっているのです」。確かそのように書かれていました。
 神さまは、赦したいのだという心の方を見てくださいます。間違っても、赦せないことを懲罰するお方ではありません。ですから、神に助けを求めていただきたいのです。神はあなたの味方です。
 ローマ人への手紙12章にはこのように書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると、主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。(中略)そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(1921節)
 十字架の上でイエスさまがなされたこともまた赦しでした。唾をかけられ、平手で打たれ、でもイエスさまは抵抗しません。私たちを贖(あがな)うため、赦すために、十字架で死なれました。イエスさまが私たちのために死んでくださったこの真実は、あなたに赦す力を与えます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月6日号(第1023号)より転載—

2018年12月26日水曜日

 

 詩篇105篇19節に、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」という一文があります。
 彼とは、ヨセフです。ある時ヨセフは二つの夢を見ました。自分の束が立ち上がると兄の束が回りに来てヨセフの束におじぎする夢と、父母兄たちを指す太陽と月と11の星が自分を拝んでいたという夢です。
 将来自分が偉くなるという夢です。しかしヨセフの人生は、これとは真逆に進みました。彼は、兄たちのねたみによって奴隷に売られ、エジプトのパロの廷臣ポティファルの奴隷になります。さらにポティファルの妻に言い寄られて、主人の怒りを買い、監獄に入れられます。彼の人生は逆へ逆へと進みます。
 そんなヨセフに転機が訪れました。パロの献酌官(けんしゃくかん)と調理官が監獄に来たのです。ヨセフは、ここから出してくれるようパロに頼んでほしいと言いました。今度こそここから出られると思ったでしょう。しかしその約束は忘れ去られたのです。献酌官が再びヨセフを思い出すまで2年間、彼は試されました。
 2年後、ついに、ヨセフはパロの前に立ちます。パロはヨセフをエジプトの大臣に任命します。彼が見た夢は実現しました。
 試練の中にいる時はいつまで我慢しなくてはならないのか、先が見えません。永遠に続くかのように見えるものです。しかし、試されても神のことばとその約束を決して手放してはなりません。聖書もこう語っています。
 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(へブル人への手紙103536節)
(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月30日号(第1022号)より転載—