2025年6月18日水曜日

 今が信じる時です

 先週613日に衝撃的なニュースが飛び込んできました。イスラエルがイランを空爆したというニュースです。イスラエルはイランの核開発施設数カ所を含む軍事施設など数十カ所を空爆、破壊したとのことでした。ロシアとウクライナの戦闘から中東でもイスラエルとハマスの間で軍事衝突が起こり、この中で、多くの方々が、イスラエルとイランの全面的戦闘を危惧していましたが、ついに不安が現実的なものとなってしまったようです。アメリカのトランプ大統領も、サミットを早退するなど前代未聞の行動をとり、その関心の異常な高さを知ることができます。

 かつて1970年代、イランとイラクが戦争状態になった時(いわゆるイ・イ戦争)、当時中東には多くの国、特にヨーロッパから石油開発のためにさまざまな企業が多大な出資をしてプラントに参加し、日本からも大手総合商社が参加していました。

 ところが、この二つの国の間で戦争が起きた時、日本以外の多くの国々が自分の国に戻っていきました。それは外交や安全保障の現実的な判断からですが、彼らは聖書を知っていましたので、中東で何か起こったら、すぐに終わらないばかりか、大変なことになると思っていたからという背景がもしかしたらあるのかもしれません。

 日本はあまり聖書を知りません。また両国ともあまり物資のない国でしたから、戦争はすぐにやむものと思っていました。そして戦争が終わった時には、最後まで留まったわれわれにかなり有利な結果となると思っていました。

 ところがこの戦争はそれぞれの国のバックに当時のソ連、アメリカが付き、イラン、イラクに対して膨大な軍事支援をし、別名米ソ代理戦争と言われるほどの戦争となりました。当然その被害も大きく、戦争は約8年続きましたが、終わった頃には、留まっていた日本の企業はプラント存続どころか、企業そのものの存続に影響が出るほどの事態となっていたそうです。

 日本から見れば中東はかなり遠くの国のように見えますが、この中東の出来事は常に世界全体に大きな影響を与えてくるのです。聖書から見れば、中東、特にイスラエルがその中心であり、イスラエルに関わる出来事は、他の中東諸国に勝って大きな影響力を持ちます。

 今回、このイスラエルとイランが本格的に戦闘状態となったことで、多くの国々が慌てるのも当然といえましょう。聖書、特に旧約聖書の預言書であるダニエル書9章を見ると、イスラエルを中心とした中東の混乱を終わらせるためか、やがて世界的な政治リーダーが中東を中心とした恒久的な平和条約を締結することが書かれています。

 もちろん、預言書にはさまざまな解釈があることは良く知っています。この恒久的中東和平が締結されてから7年で今の世界が終わることが書かれています。そして次の世が来ます。この次の世に入ることができるのは、イエス・キリストを自分の贖(あがない)い主と信じた者だけです。

 今回のイスラエルとイランの戦争も、間違いなくこの恒久的中東和平が近づいていることのしるしです。

 時はそれほど多く残されていません。イエス・キリストを信じるのはまさに今のこの時であると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月11日水曜日

 ラザロの復活

 ヨハネの福音書11章のことです。ベタニヤのマリヤの兄弟ラザロが、病気にかかっていました。そこで、姉妹たちは、イエスの所に使いを送って、言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 イエスはこれを聞いて、言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」。イエスさまは、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。それで、ラザロが病んでいることを聞かれても、そのおられた所になお二日とどまられました。そして、その後「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われました。イエスさまは、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」とおっしゃいました。

 お弟子たちは、「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」と言いました。それに対して、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」。主はご自分がなされることを知っておられたのです。ところが、お弟子のトマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と、とんちんかんな事を言います。彼もイエスを信じてなかったのです。

 イエスが着いた時、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていました。当時のユダヤ人の言い伝えの中で、死んで3日以内ならまだ死者の霊が黄泉(よみ)には行っておらず、生き返る可能性があると考えていたようです。しかし、4日たっていたら、もう生き返ることは絶対に無い、と考えられていました。ですから、ラザロの復活はメシヤでなければできない奇跡でした。このような状況の中、マルタは真っ先にイエスを迎えに行きました。そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになるものは何でも、神はあなたにお与えになります。

 イエスは言われます。「あなたの兄弟はよみがえります。」。マルタは「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」と答えました。

 すると、イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。

 マルタは、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と立派な信仰告白をしました。

 多くの人が泣いていました。また、イエスも涙を流されました。そして、死に対する憤りをもって、墓に来られました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました。

 「その石を取りのけなさい。」とイエスは言われました。マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と返事をします。イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と彼女に言われました。そこで、彼らは石を取りのけました。

 イエスは目を上げて言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。

 そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布に巻かれたままで出てきました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」と主イエスは言われました。

 ラザロは復活したのです。これを見た多くのユダヤ人がイエスを信じました。

 死は、普通私たちにとって絶望です。しかし、イエスはこの場所で、それに打ち勝つ力をお持ちであることを示されたのです。イエスさまご自身も、十字架で死んだ後、3日目によみがえりを果たされました。イエスさま以降、死は、もはや人類を支配しないのです。死に打ち勝つまことのいのちが、イエスのうちにあるのです。そのことを示すために、聖書のこの箇所が書かれました。

 イエスを信じる者は、死んでも生き、生きていてイエスを信じる者は決して死ぬことがありません。これが、イエスを通して神が約束されていることなのです。このことを、あなたも信じましょう。イエスさまは、神です。この方のうちには永遠のいのちがあるのです。私たちは、もはや死を恐れる必要はないのです。

 それゆえ、イエス・キリストをあなたの個人的な救い主として、心にお迎えいたしましょう。イエスは、あなたのすべての罪を赦し、あなたに定められている死からいのちへとあなたを移し、永遠のいのちを与えてくださいました。それが確かであることを示すため、イエスは死んで4日もたち、どう考えても望みのないラザロをよみがえらされたのです。コリント人への手紙第一1555節に「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と書かれている通りです。

 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。そして、この神への信仰は決して失望に終わることがありません。死に打ち勝ったイエス・キリストを信じ、死に打ち勝つ勝利を得ましょう。

 すべて病は神の栄光が現されるためのものです。あなたも必ず神の栄光を見ます。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年6月4日水曜日

ベタニヤのマリヤ

 エルサレムに程近いベタニヤという村に、イエスが愛されている二人の姉妹がいました。姉の名はマルタ。妹は、マリヤと言います。同じ姉妹であるにもかかわらず、ふたりは正反対な性格でした。気配りにたけている出来の良い姉とマイペースな末の妹、といったところでしょうか。

 ルカの福音書10章には、この二人の様子が詳しく描かれています(38節~42節)。イエスさまが旅を続けておられる時、ベタニヤに入ったところ、マルタは喜んでイエスさまを家にお迎えしました。マルタは、これもして差し上げたい、あれもして、それから、といろいろともてなしのために気が落ち着かず、実際、猫の手も借りたいほどの状況でした。ところが、妹といえば、イエスさまの足もとに座ったまま動かず、じっとイエスさまの語ることに聞き入っているばかりです。この忙しい時に一体お前は何をやっているの!、とさぞじれたことでしょう。

 それで、憤ったマルタはついイエスさまにマリヤを非難してこう言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

 それに対するイエスさまの答えはこうでした。「マルタ。マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。主は、マリヤの在り方を、マルタの言い分よりも正しいとされたのです。

 それから月日がたち、過越の祭りの6日前に、イエスさまはまたベタニヤのマルタとマリヤの家に来てくださいました。イエスさまが死人の中からよみがえらされた彼らの兄弟ラザロとマルタ、そしてマリヤがいました。人々はイエスのためにそこに晩餐(ばんさん)を用意しました(ヨハネの福音書12111節参照)。マルタは熱心に給仕していました。

 晩餐のたけなわ、皆の前でマリヤは驚く行為に出ます。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油300グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました。

 イエスを裏切ろうとしていた、イスカリオテ・ユダはこれに憤慨して言います。「なぜ、この香油を三百デナリ(およそ人の年収に当たる)に売って、貧しい人に施さなかったのか。」

 しかし、イエスさまはこう言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。

 マタイの福音書では、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(2613節)とイエスさまは語っておられます。

 ナルド油というのは、乙女が結婚式に備えて少しずつためておく香油だそうです。それを、すべてイエスさまに注いだマリヤの気持ちを主は受け止めてくださっていました。マリヤは愛するイエスさまに対して、自分にできる限りのことを行ったのです。マリヤは主が十字架でお亡くなりになることが近いことを、知っていたのです。なぜなら、そのことをイエスさまが既に話しておられたからです。御足のもとで、主のことばを聞き入っていたマリヤだからこそ、イエスさまのおことばによって、主の時がそこまで迫っていることを知り得たのです。

 対するお弟子たちは、イエスが何度も、人の子は十字架にかけられ殺されること、そして、3日目によみがえることを話されたのにもかかわらず、それを理解し悟ることができませんでした。イエスさまに死なれては困る、とまだ自立できていない心の状態があったのかもしれません。また、ユダヤ人の王イエスという自分たちの望むメシア観を捨てきれず、主が亡くなることを受け入れられなかったのかも知れません。いずれにせよ、主イエスのことばはお弟子たちの心に入って行きませんでした。ですから、ゲッセマネの祈りでも眠りこけてしまい、目を覚ましていなさいという主のことばにも聞けなかったのです。そして、ふたを開けると弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。

 しかし、何の肩書きも立場もない一人の信者にすぎないマリヤが、弟子たちが聞けなかった神のことばをしっかりと聞いていたのです。主の足もとで一心に聞いていたのがマリヤでした。ですから、主が、お亡くなりになることを知って、埋葬の用意をしたのです。

 そればかりではありません。イエスさまが復活することもマリヤは聞いて捉えていました。聖書にはイエスの墓に多くの女たちが向かったことが記されていますが、その中にベタニヤのマリヤの名はありません。イエスさまが、ご自分のご生涯について語ったことをマリヤはじっと聞いて捉えていたのです。そして、それをしっかりと心に留めていました。

 イエスさまは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と語られました。私たちは、この一つを聞けているでしょうか。神のことばに耳を傾けているでしょうか。これこそが、最も大切なことだと、ベタニヤのマリヤを通して主が語っておられると思います。

MIKOE NEWSから転載」 2025年6月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2025年5月28日水曜日

放蕩息子

 ルカの福音書15章で、有名な放蕩(ほうとう)息子のたとえという箇所があります。

 ある人に、息子が二人ありました。弟は放蕩息子でした。まだ父が存命中なのに、父に身代を分けてくれるよう願い出ました。父は、そのわがままを聞き入れてやり、財産を兄と弟に分け、弟の分を彼に与えました。

 それから、幾日もたたないうち、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。しかし、彼はそこで放蕩三昧を尽くして、湯水のように財産を使い果たしてしまいました。

 そこに、その国にききんが起こったのです。彼は食べるのにも困り始めました。それで、ある人の所に身を寄せました。その人は彼を畑にやって、豚(当時忌み嫌われていたもの)の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、誰一人、彼に与えようとはしませんでした。世間は、放蕩息子が思う以上に厳しいものでした。

 こうして、われに返った放蕩息子は、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。』

 こうして、彼は故郷の父のもとに行きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は息子の姿を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。放蕩息子は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

 ところが父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」。こうして、祝宴が始まりました。

 そこに仕事を終えて帰って来たのが兄息子です。これはいったい何事かと尋ねると「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」。すると、兄は怒って、家に入ろうとしませんでした。

 父は出て来て、いろいろとなだめてみました。しかし、兄は父にこう言います。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」。もっともな言い分だと思います。

 しかし、父は彼に言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

 この例話が書かれたのは、一つには神の愛がどれほどあわれみ深いものかを示すためだと思います。神は、家出した放蕩息子であっても彼の事を忘れてはおらず、いつ帰って来るかと常に心を寄せていました。それでまだ家から遠かったにもかかわらず、彼を見つけたのです。そして父は、彼をかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。自分に向かって、「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めている放蕩息子を見ると、父は(神は)、罪のすべてを赦して、助けの手を伸べずにはいられないのです。ここに神の深いあわれみの心が描かれています。それゆえ、祝宴を張って祝ったのです。神の愛とは、このようなものなのです。

 しかし、兄はそれが不満でした。兄が立っていた所は、律法です。子山羊一匹下さらなかったと父を責めました。父の恵みも愛も知らないのです。父は私のものは全部お前のものだ、と言ってくださいました。兄が弟の立場に立っても、父は同じようにしてくださったでしょう。でも、それが兄には見えていなかったのです。なぜでしょうか。それは兄が、父との愛による関係ではなく、ただ律法の内にある関係にしか立っていなかったからです。

 イエスさまは、マタイの福音書で「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(1920節)ということばを語られました。

 忠実だった兄は、本当は一番父の近くにいて、誰より父の愛なることを知っているはずでした。しかし、父の愛を見たのは、放蕩を重ねた罪人である弟の方でした。

 誰でも神に立ち返るなら、そのすべての罪を赦していただけます。神はイエス・キリストを罪の代価として私たちに与えてくださったからです。それゆえ神は、もはや私たちに罪をとがめてはおられません。律法を守ることによっては決して知ることのできない愛を、神は人間に注いでおられるのです。弟はその愛にあずかりましたが、兄はそれを知ることができませんでした。

 私たちもまた、心をかたくなにすることなく、愛なる神を知りましょう。神の愛は、人の思いをはるかに超えて深いのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月21日水曜日

 ザアカイ

 ルカの福音書19章で、ザアカイという人物が登場します。「彼は、取税人のかしらで、金持ちでした」。この一節から、彼がおおよそどういう生き方をしてきたかが分かります。

 いわゆる拝金主義です。取税人は、ローマへ支払う税の取り立て屋であり、しかもその上に上乗せまでして取り立て私腹を肥やしていたと言われています。それゆえ、かれらはユダヤ社会では嫌われ者でした。その取税人のかしらというのであれば、もうけのために相当悪いことをしてきたことでしょう。

 箴言178節に「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。」と書かれています。これが、お金の力です。わいろの見返りというものは、必ず贈り主に帰ってきます。どうやって財産を築いたか、ザアカイはお金の力を知り尽くしていた人だと思います。そして、お金以外信じられない人になっていただろうと思われます。

 あるファーストレディーが、「私、お金のない人はだめなの」と公の場でこう語ったことを聞きました。世の中には本音としては彼女の言葉に同調する人は多いと思います。では、お金持ちはぜいたくか、といえば必ずしもそうではないのです。金持ちほど、お金を使いたがらない傾向があります。それは、彼らがお金を信じているからです。信じるお金が減ることは耐え難いことなのです。蓄え蓄え、お金に仕えるような人生を送り、またお金を持っている自分にうぬぼれていますが、それがみじめな生き方であることには全くというほど気づいていません。確かにお金は、至る所で通用する力があるからです。しかし、こんな現実だけを見るだけの考え方で果たして良いのか、と私は疑問に思います。

 イエスさまは王であるのに、ご自分の国である世に来られた時、貧しさの中に身を置かれました。自分を富ますことをせず、人々にご自分を与え尽くされました。また、マタイの福音書6章には「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(2021節)と語られ、改めて私たちの宝、私たちの心がどこにあるかと問われました。

 そして、24節でははっきりとイエスさまは「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とおっしゃいました。

 こんな中で、ザアカイはイエスさまに出会ったのです(ルカの福音書19110節参照)。ザアカイは、地元で評判になっているイエスさまにぜひ会ってみたいと思っていました。何かが、ザアカイの心を動かしていたのです。しかし、彼は背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。もしかすると、背が低いことはザアカイのコンプレックスで、それが彼を拝金主義に向かわせたのかも知れません。しかし、群衆は彼を嫌っていたので、誰一人として彼に場所を譲ってくれる人はいませんでした。

 そこで、ザアカイは先回りをして、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言うのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。

 人々は、あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた、と言ってつぶやきました。しかし、素晴しいことがすでに起こり始めていたのです。

 ザアカイは立って、主イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。
 イエスは、彼に言いました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

 イエスさまに出会って、ザアカイは救いを得たのです。イエスさまの愛が、彼を変えました。彼は、イエスさまがどんな方か、また自分を愛してくださっていることが分かったのです。今や、ザアカイの価値観は一変しました。お金ではなく、主の内にこそ永遠に続く価値があることを彼は知ったのです。それゆえ、先ほどのような言葉が、彼の内から出てきたのです。

 人をキリストに近づけるのは、お金ではありません。心です。あなたの宝とするものが何であるかが、あなたの心を現しています。ザアカイは、その心をお金から主イエス・キリストに変えました。それで、主もまた「きょう、救いがこの家に来ました。」と言ってくださったのです。

 テモテへの手紙第一610節にこのようなみことばがあります。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。金銭を愛することは、ろくなことではありません。確かにお金は必要ですが、それが目的になってしまった時、大きく人生を誤ってしまうことを私たちは知っておきましょう。まことのいのちを得ることも、お金では買えず、ただキリストの恵みによることを忘れないでください。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月14日水曜日

 神の心をわが心とする

 出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、4040夜、山にいました。

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(3118節)

 ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。

 しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)

 主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。

 敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。

 モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。

 こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記31213節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。

 イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書103739節抜粋)

 主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。

 このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。

 歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(169節)

 私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月7日水曜日

罪の赦しと救い

 罪の赦しということを考えると、それは人間にはできないことであると分かります。旧約時代には、罪の贖(あがな)いのためには、律法によって細かな規定が定められていました。罪過のためのいけにえは、雄牛の頭に手を置き、それをほふり、聖所の垂れ幕に血を七たびふりかけ、その血を祭壇の角に塗り、血を全部祭壇の土台に注ぎ、取った腎臓や脂肪、小葉を祭壇の上で焼き、火によるささげ物として煙にします(レビ記4章参照)。人々はこれを繰り返し行い、罪の贖いをしました。

 へブル人への手紙1013節には「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(中略)かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」と書かれています。

 そして、イエスさまはこう言われたのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(57節)

 これは、イエス・キリストが受肉し、世に来られ、十字架の死によって、またそれに続く復活によって、私たち人類のすべての罪を贖ってくださることを語っています。御子イエスは、ご自分がご自分の肉によって、人類の罪を贖うという神のみこころを知った上で、世に来られ、苦しみと死と復活を通してそれを全うされたのです。

 そして、このように書かれています。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(1213節)。罪の赦しは、イエス・キリストにおいて完成したのです。

 ヨハネの手紙第一には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(19節)と書かれています。ですから、今や、どんな罪でも赦されない罪はありません。神の前で罪を言い表すだけで、すべての罪が赦されます。そして、恵みによって罪の生活から立ち直る力までも与えられるのです。

 けれども、ある方々は、自分のこの罪だけは決して赦されない、赦されてはならない、と思っておられます。しかし、どうか赦されることを信じ、受け入れてください。

 人は自分の罪を自ら償うことはできないのです。自分の罪を赦していただくために人は何を差し出すことができるでしょうか。何千年もの間、人類は律法に従い牛や羊をささげ、罪と格闘しました。しかし、誰一人として、罪を帳消しにできた人はいませんでした。罪は依然として残るのです。罪の前に人は無力です。ただ無条件に赦していただくより他はないのです。そして救い主(メシア)であるイエス・キリストだけが、罪を赦すことがおできになるのです。

 ヨハネの福音書316節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語られています。御子イエスさまは、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、義なる神と私たちの間を断絶していた罪の問題を、十字架によって解決してくださったのです。それは、神の愛とあわれみとによります。

 詩篇103篇にもまたこのように書かれています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(812節)

 私は、東が西から遠く離れている、というこの表現を、とても気に入っています。御子を信じる者は、その罪、咎、そむきから遠く離されているのです。東が西から遠く離れているほどに。

 罪の赦しのために神はどれほどの犠牲を払われたことでしょう。それらはすべて、神が用意し神が完成させてくださったものです。人が関わったところは一つもありません。ですから、それは「恵み」なのです。

 イエスさまに関して、ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り(ヨハネの福音書114節)、また「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(17節)と語っておられます。モーセによって与えられたのは律法で、私たちを救うことはできませんでした。しかし、赦しという恵みとまことは、イエス・キリストによって実現し、私たちを救いに導き入れたのです。

 ですから、この恵みにしっかりと立ち、イエス・キリストによる罪の赦しを信じてください。私たちは、十字架を信じることによって救われ、罪を告白することによって赦されます。そして、赦されたあなたの上に、神は豊かな祝福を与えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/