2020年4月8日水曜日

再臨の兆し

 世界を挙げて今、人類は新型コロナウイルス との戦いに直面しています。初めてのことで対 応が慎重でありすぎたのでしょうか、後手に回 ってしまいました。日本では、7都府県で4月 7日に非常事態宣言がなされましたが、感染者 は増加する一方です。
 東京に住む私の友人は、新型コロナウイルス の影響を受けて、失業の危機にひんしています。 今まで当たり前であった仕事が、政府の自粛要 請を受けて突然なくなりました。この流行はあ らゆる分野で未曽有の被害をもたらしています。
 しかしながら、ここに来て多くの人が、時代が 変わってきたことに気づいてきたのではないで しょうか。その時代とは、終わりの時代です。そ れはイエス・キリストが再臨される時代です。 もちろん、今日明日に再臨が来るわけではあり ません。しかし、その時は確実に近づいています。
 マタイの福音書 24 章では、弟子たちがイエス に、世の終わりにはどんな前兆があるのでしょ う、と尋ねています。イエスは、人に惑わされ ないように気をつけなさい、と語りました。イ エスの名を名のる者が大勢現れ多くの人を惑わ し、戦争のうわさを聞くであろうこと。また、 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 方々にききんと地震が起こると言われました ( 1 7 節参照)。そして、それらは「産みの苦 しみの初め」であると述べられたのです。
 同 14 節には「この御国の福音は全世界に宣べ 伝えられて、すべての国民にあかしされ、それ から、終わりの日が来ます」と書かれています。 ここに私たちの忍耐と希望があります。
 間もなくイエスは再び来られます。その時、 そのご栄光はいかばかりでしょう。神は私たち を天に迎えてくださいます。この約束を心にと どめ、おのが道を忠実に歩んでまいりましょう。   (イスラエル北野)

み声新聞2019年4月12日号(第1089号)より転載—

2020年4月1日水曜日

知っていただきなさい

 神さまがいかに私たちを愛しておられるのか、 イエスさまは、たとえを用いてお話しされました。
  「五羽の雀(すずめ)は二アサリオンで売っ ているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御 前には忘れられてはいません。それどころか、 あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられてい ます」(ルカの福音書 12 章6、 7 節)
 何のことでしょうか。イエスさまの時代、ス ズメは庶民の食べ物で、2羽で1アサリオンで した。それを二つ買うと1羽おまけが付いてく る、それが5番目のスズメです。値段さえつか ない価値無きスズメです。しかし、そういった スズメでも、神さまはちゃんと覚えてくださっ ているというのです。イエスさまは、あなたが たはたくさんの雀よりもすぐれたものです、と 言ってくださいました。また、私たちの頭の毛 の本数なんて誰が知っているでしょうか。神さ まです。神さまは私たち以上に私たちのことを 知っておいでです。というのは、私たちを愛し ておられるからです。
 ピリピ人への手紙4章には「何も思い煩わな いで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神 に知っていただきなさい。そうすれば、人のす べての考えにまさる神の平安が、あなたがたの 心と思いをキリスト・イエスにあって守ってく れます」(6、7節)という一文があります。
 私たちは、しばしば手に余るような問題に見 舞われ、心配や思い煩いでいっぱいになります。 しかし、そのことを感謝して祈り、また求め願 うなら、神はあなたの祈りと願いを聞き届けて くださいます。神はあなたを愛しておられます。 ですから、あなたもまた、あなたの必要を知っ ていただきましょう。愛され平安を下さり、助 けてくださいます。心の願いを知っていただく、 これが解決です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月5日号(第1088号)より転載—

2020年3月25日水曜日


目を覚ましていなさい

あれよという間に、新型コロナウイルスによ る感染の被害は地球規模の広がりを見せ、パン デミック(世界的大流行)になりました。厳し い規制が引かれ、終息に向けての手だてが講じ られています。しかし、いまだ終息の見通しが 立っていません。恐らくこの問題は、時代を分 けるものとなるでしょう。既に、さまざまな分 野において、大きな社会変化を生んでいます。  一つにはこの流行によって、改めて世界に国 境がないことが確認されました。確かに国境と いう地理的区別はありますが世界はグローバル に動いています。これは、国境を越えた地球規 模の災害なのです。
  また、私たちクリスチャンにとっては、これ は再臨のしるしです。黙示録には世の終わりに さばきが許されることが書かれてあります。剣 や飢饉(ききん)や死病などで、進んで見よう とするなら今回の新型コロナウイルスの問題は、 その再臨のしるしです。
 さて、イエスさまはご自身が渡される夜、ゲ ツセマネで悲しみもだえて祈り、特にペテロと ヤコブとヨハネに目を覚まして祈るよう指示さ れました。ところが彼らはひどく眠気がさして 目を覚ましていることができませんでした。イ エスさまは「あなたがたは、そんなに、1時間 でも、わたしといっしょに目を覚ましているこ とができなかったのか。誘惑に陥らないように、 目をさまして、祈っていなさい。心は燃えてい ても、肉体は弱いのです」と語られました。
 今は終わりの時です。私たちは再臨に備えま しょう。その日その時がいつであるかは誰も知 りません。父なる神さまだけがご存じです。人の 子(イエスさまのこと)は、思いがけない時に来 るとも聖書に書かれています。ですから、目を覚 ましている必要があるのです。忍耐を働かせて 祈り、その日を迎えましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月29日号(第1087号)より転載—

2020年3月18日水曜日


聞かれる祈り

 祈りは特別な祝福です。祈りは人類に与えられた特権であると私は思います。祈りは神に対して向けられるものであって、犬猫や私たち人間以外の被造物は祈ることはありません。祈りは人間だけが用いることができる特権であり祝福です。
 私の祈りの生活は、イエス・キリストを信じた時から始まりました。祈ることは、息を吸うことで、聖書を読むことは食事を食べることだよ、と聞かされて祈ってみたら、初めてにもかかわらずまさに神が働く奇跡を見ました。偶然だと言い切れないリアルな答えを受け、祈りは聞かれると知りました。祈りは、私の人生を一変させました。
 祈りが聞かれるためには、いくつか注意することがあります。一つは罪を悔い改めることです。神さまは義なるお方なので私たちの側に罪があると祈りは届きません。罪を悔い改めることは、祈りが聞かれるということと深い関わりがあります。神さまにお願いして、神との関係を断絶している罪を示していただき、それを捨てましょう。
 もう一つは正直に祈るということです。祈りのハードルを低く設定しましょう。こうすれば、祈りはぐっと楽しくなります。祈りは美辞麗句を駆使して上手に語る必要はなく、ありのままでよいのです。神はまた私たちの父ちゃんですから、私たちが求めるその願いを知ってくださり、愛と最善を注いでくださいます。ですから、心を低くして求めましょう。
 最後は、信仰を用いることです。マルコの福音書1124節には「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と書かれています。時に祈りは信仰が求められます。信仰の祈りによって、神のことばは爆発的な勢いで実を結びます。神は祈りを聞かれた、そう信じて祈りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月22日号(第1086号)より転載—

2020年3月4日水曜日


リバイバル

 リバイバル、というと何を思いますか。リバイバルって何でしょう。私の属する教会は、リバイバルに召しを持つ教会で、ハバクク書から「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(2章3節)ということばを頂き、三十数年来「それ」を待ち望んでいます。
 また、ヨエル書2章23節には「主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださる」という約束が書かれています。
 雨とは、聖霊の注ぎかけであって、使徒行伝時代に、聖霊の激しい働きを受け「初めの雨」と呼ばれるリバイバルのわざが起こりました。そして、世の終わりに再び、今度は「後の雨」といわれる聖霊の激しい働き、終末の大リバイバルが起こることが約束されています。私たちはそれを待ち望んでいるのです。
 リバイバルという語を定義づけると、「一度廃(すた)れたものが再評価されること」を言います。リバイバルという言葉は今も映画や音楽、ファッションなどの分野でよく用いられている言葉ですが、もともと日本にはリバイバルという語はありませんでした。英語のリバイバルという語をそのままカタカナに持ってきたものであって、18世紀のアメリカで起こった信仰復興の働きを言います。一度廃れた信仰が刷新されるという意味ですが、リバイバルの日にその実現を見るでしょう。
 マタイの福音書1220節で、イエスさまはご自分のことを「いたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」と語られました。このことば通り、たとえ私たちが弱くても、イエスさまにより頼むなら、弱ささえも用いて神のわざは進みます。リバイバルは既に始まっています。神は私たちを用いてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月8日号(第1084号)より転載—

2020年2月19日水曜日



 かつて祈りの場を求めて、長野県清里にある清泉寮を訪ねたことがあります。敷地を散策する中で1枚の板に書かれた聖書のことばを見つけました。ヨハネの手紙第一1章5節から、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と書かれていました。聖書では神は光であり、誰も近づくことのできない光の中に住まわれていることが書かれています。
 聖書の冒頭である創世記1章では、初めに、神が天と地を創造した(1節)と書かれています。地は茫漠として何もなく、やみが大水の上にあり、神の霊が動いていました(2節)。そこに神が「光があれ」と仰せられると光がありました(3節)。神は光を見て良しとされ、光とやみを区別されました(4節)。これが創世記に書かれている光の出自です。創造の昔、神さまはみこころをもって光を創造されました。
 光の最も顕著な特徴は、やみと交わることがないところにあります。ヨハネの福音書1章5節には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」という一文があります。このことばの意味するところは神の圧倒的な勝利です。やみに対する光の勝利を語っています。いくらやみが深く広く覆っていても、そこに光が入ればどうなるでしょうか。たちまちにしてやみは消失してしまいます。どんなにやみが深くても、光の前にはその武装はたちどころに解除されてしまいます。光にはこれほどの力があるのです。
 こういう訳で、今や光は、やみの中に輝いています。もはや私たちはやみを恐れる必要はありません。イエス・キリストを心にお迎えすることは、やみであった心に神の愛のともしびを置くことです。また問題に光を当てるなら、そこに解決があります。イエス・キリストを信じて救いを受け、神の元に帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月23日号(第1082号)より転載—

2020年2月12日水曜日

 

 詩篇27篇でダビデは次のような言葉を残しています。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」(4節)というもので、同感です。
 主は麗しくまた慕わしくて、知れば知るほどいつまでも主のみそばにいたいと思います。これはただ一つの願いであって、これが答えられるなら、あとはもう何もいらないと私も思います。それほど主と主の家は素晴らしいのです。
 クリスチャン用語の一つに「臨在」という語があります。ここに神がおられるという特別な臨みかけの中に置かれることを言います。振り返れば、人生の中で、大切な事が起こる際には必ず強いご臨在が現されていました。臨在の中で私たちは神と交わることができるのです。
 米国ロサンゼルスにオンザウエイ教会という教会があります。教会の開拓当初、私たちはそこのプレイヤーチャペルによく祈り込みに行きました。そこは特別な所で、ある日、四隅に天使が降り立ち、一面に霧のようなものが立ちこめるということが起きました。それを境に人々が救われ始め、教会は成長していきました。霧のようなものはご臨在であったと言われています。
 ただそこにいるだけで、恵みが注がれていました。広く受容されていること、深く愛されていること、そして何よりもたましいのやすらぎがありました。目には見えませんが見えること以上に父なる神さまは近づいてくださいました。
 神のご臨在、これに勝る喜びはこの世にはありません。神さまは最高の祝福を与えてくださいました。詩篇1611節にもこう書かれています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」
(イスラエル北野)


み声新聞2019年2月16日号(第1081号)より転載—