2014年2月21日金曜日


パラダイス
 イエスさまは、生涯の終わりに2人の罪人とともに十字架にかけられました。
罪人の1人はイエスさまに悪口を言い、「あなたはキリストではない か。自分
と私たちを救え」と言いました。
 ところがもう1人の罪人はこう言いました。「おまえは神をも恐れないのか。
おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたこ との報
いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかっ
たのだ」「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときに は、私を思い
出してください」
 これを聞いてイエスさまは、彼に言いました。「まことに、あなたに告げま
す。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカの福音 書23
39節―42節)。何と希望がある言葉でしょう。

 先日、私たちは肺炎で危篤状態にある方のところに祈りに行きました。息子さ
んが何度も伝道されたそうですが、ご両親はガンとして受けつけなかっ たそう
です。しかし、私たちが行った時はまるで様子が違いました。牧師が「イエス・
キリストを救い主として信じるなら手に触れてください」と言っ たところ、手
が触れ、重ねて問うと、より強く手を触れてきました。
 死を目前にした時、人はイエスさまがどんな方かが分かるのでしょうか。お父
さんは安心した表情を浮かべ、洗礼を受けました。そして翌日、呼吸困 難で苦
しむことなく、安らかに召されて行きました。
 イエスさまを信じる者は皆パラダイスに行きます。しかも、直ちにです。どう
か皆さんもイエスさまを救い主として心にお迎えください。この方はあ なたを
救うためにこの世に来られたメシヤです。  (イスラエル北野)

 

 み声新聞2014年2月23日号(第768号)より転載—

2014年2月11日火曜日


幸福ですか
 ある日、私は「あなたはどんな人になりたいのですか」と聞かれました。その
時は漠然としていましたが今は言えます。クリスチャンのマーリン・ キャロ
ザース氏のようになりたいのです。この人は、生ける神とともに人生を歩み、ど
んなことがあっても感謝し、主を喜びとする輝きに満ちた人で す。
 いつも喜んでいるというのは、素晴らしいことです。不幸はマーリンさんには
打ち勝ちませんでした。寄り付いたとしても、一瞬のうちにそれは感謝 に変わ
ります。私もこんな人生を歩みたいと思います。
 話は変わりますが、幼稚園の頃、幼児たちの間でかならず起こる儀式のような
ものがありました。お道具箱の中にハサミがないと「ありません」と、 先生に
うえんうえん泣くのです。よく私のハサミも盗まれて、泣きました。そのうち、
知恵がついてきて、ない時には隣の子のハサミを拝借しました。 変わってその
子が泣きました。
 幼稚園の子どもでも、マーリンさんの教えは必要でしょう。ハサミを取られて
も「プレイズ・ザ・ロード」と言える人になることを、神さまは望んで おられ
ます。というのも、神さまは不幸をコントロールする力を私たちに与えておら
れ、それを用いるよう望んでおられるからです。
 不幸が勝利することは、私たちの同意なしには起こりません。逆に言えば、不
幸に陥るのも陥らないのも私たちは選択できるのです。
 喜びはサタンのかせを断ち切ります。サタンは喜びのうちには入ってこれませ
ん。良いことを喜んだとしてもそれは当たり前のことです。喜べない時 に喜ぶ
その信仰のうちに、神さまは答えてくださり、勝利を現してくださいます。
     (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年2月16日号(第767号)より転載—

2014年2月3日月曜日


イエスさま
イエスさまは、どんなお方であったのでしょう。聖画には優しくハンサムに描か
れていますが、イザヤ書53章3節には、「彼はさげすまれ、人々から のけ者に
され、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たち
も彼を尊ばなかった」と書かれており、らしからぬ風貌であっ たかも知れません。
 イエスさまは、父なる神さまのひとり子です。万物は、この方によって造られ
ました。王の王、主の主です。なのに、世に来られると、だれよりも苦 しい
所、低い所に立つ人生をおくられました。「医者を必要とするのは丈夫な者では
なく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招 くために来
たのです」(マルコの福音書217節)と語り、しばしば収税人や罪人たちとと
もに食卓を囲みました。弱い者の権利を守り、貧しい人を 差別することがあり
ませんでした。それゆえ迫害もねたみも受けました。最後には、ユダヤ人の王と
書かれた罪状で十字架に死なれ、贖いを成し遂げ、 私たちに永遠のいのちを与
えてくださいました。
 こんな王がいるでしょうか。さげすまれ、のけ者にされ、悲しみ、病を知って
いる王。しかし、私たちにはこれこそが最も必要なのです。貧困や病と いうの
は、いとも簡単にさげすまれます。金持ちを友人にしたい人は多いですが、貧し
い者は嫌われます。病も同様です。さげすみを受ける者の心の屈 折と痛みをだ
れが分かってくれるでしょう。
 イエスさまです。イエスさまはそこを通られました。ですから、どんな道に
あってもあなたを慰めることがおできになります。イエスさまの慰めは、 あな
たの生きる力となります。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年2月9日号(第766号)より転載—