2016年1月25日月曜日

救い
 私は、真理や救いを求めて求道し続けた2人の方を知っています。
 1人は、それは仏教にあるのではないかと考え、仏教を土台としたあらゆる精神世界を放浪しました。しかし、彼はついに、真理はイエスにある、と信じ救いに至ったのです。まさかキリスト教に、真のいのちがあったとは思ってもみなかった、と述懐されました。
 もう1人の方もまた、長年の求道者でした。彼女は救いを求め続けていました。そしてそれが、イエスにあると知ると大いに感動し、あまりにも素晴らしいので、イエスさまを独り占めにしたい、と思ったそうです。
 さて、仏教は、自力本願と他力本願とおおむね二つに分けられます。自らの努力や修行によって救いの道を切り開いていこうとするのを自力本願といい、自分にはできないので阿弥陀仏などに頼って救われようというのを他力本願といいます。
 そのような観点から見れば、キリスト教は究極の他力本願といえます。神は、私たちが生まれながらの罪人であることを憐れんで、救いのために御子イエスを下さったのです。
 イエスさまは、私たちの罪を担い、十字架で死なれ、3日目によみがえられました。この御子による贖いを信じる者は、さばきで罰せられることなく、永遠のいのちが与えられるのです。
 もし、人がおのが人生の意味を尋ね続けるなら、必ずイエス・キリストに出会うでしょう。イエスの十字架の贖いを信じることが、唯一の救いの道だからです。
 「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(ペテロの手紙第一2章25節) (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月24日号(第868号)より転載—

2016年1月16日土曜日

光と闇
 1986年7月、父が食道静脈瘤破裂で死線をさまよいました。夜中、病院から連絡があって、父の元に駆け付けました。あくまでも、私個人の感覚的なものですが、枕元に立って祈ると、今まで父が拝み仕えていた、あらゆる種類の悪霊どもが、父はいよいよ自分たちのものになるのだと言ってざわめいているのが見えるのです。
 感謝すべきことは、その時私はすでにクリスチャンになっており、霊の戦い、対応を知っていたことにあります。これまで、父が信心していた何十もの偶像や悪霊、宗教を、一つ一つ主イエス・キリストの御名によって縛り、父との関係を断ち切りました。
 不思議なことに、その時、私は父と同じものが見えました。そして主の御名がどれほど威力があるのかを体験しました。イエスの名を用いると悪霊は退く以外にないのです。その勝利は圧倒的なものでした。
 ヨハネの福音書1章5節にはこう書かれています。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」。私はこれを紙に書いてベッドに貼り付け、繰り返しこのみことばを語り、キリストの勝利を告白しました。
 主の戦いは、敵と四つに組むようなものではありません。神とサタンは五分の戦いではありません。やみはどんなに深くとも、そこに光が置かれるなら直ちに消失します。やみは光に打ち勝てません。このような勝利が神の下さる救いなのです。この事を通して、父は救いを受け入れ、救われました。
 光は、イエス・キリストその方です。もはや暗やみにとどまる必要はありません。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年1月17日号(第867号)より転載—

2016年1月10日日曜日

脱出の道
 福音派の教会から、主の十字架クリスチャンセンターに転会し、オンライン会員となったある女性が「転会するまでは生き生きと動く神さまの手だけを見てきましたが、こちらに来てからは、今度は生き生きと動くサタンの動きも見るようになりました」と興味深いことを語っておられました。
 主の十字架クリスチャンセンターは、カリスマの教会で、霊の戦いや見分けなどが開かれている教会です。当然、神さまだけでなくサタンの動きもまた顕著に見、学ぶようになります。
 特に「リバイバルが始まりました」という神さまのことばが下ってからは、戦いは以前にもまして厳しくなりました。ある方は「今の私を殺すなら武器は要りません。不安一つあれば十分です」と言いました。確かに、小さな恐れを心に許してしまったら天井知らずにそれが増え広がり、いともたやすく窮地に追い込まれてしまいます。大げさではなく、昨今の戦いは本当に死をも覚悟するほどのものがあります。
 しかし、コリント人への手紙第一1013節にはこのように書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」
 神さまは私たちを、愛してくださっています。死を覚悟するような厳しい試練があっても、神さまは脱出の道を備えておられます。そればかりか、試練を通して、神の栄光のみわざを見せてくださるのです。神さまの愛は人知を越えて偉大です。イエス・キリストをあなたの主として心にお迎えください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月10日号(第866号)より転載—

2016年1月3日日曜日

赦しの特権
 最近、夫が「赦しの特権」ということをよく語ります。赦しはキリスト教の根幹を成す教えです。「主の祈り」の中でも毎回「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。赦しにおいては、まずこちらから赦すというのが主のあり方です。
 ヨハネの福音書20章にも「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(23節)と書かれており、赦すことも赦されることも、私たちの一存に任されています。
 赦すことを実行するのは、難しいです。人は、罪を赦す権威や力は持っていません。赦しは神のものです。しかしながら神はそれを私たちに委ねてくださいました。神は、互いに赦し合うことによって、全ての人にこの恵みが届くようにしてくださいました。
 とはいえ、赦しの前にあったものは痛みです。赦したくてもできない心の理由があります。この縛りから救ってくださるのがイエスさまです。
 オランダの伝道者であるコーリー・テン・ブームは、第2次世界大戦中に収容所に入れられ、多くの苦しみを受けました。戦後、和解を説いていた聖会に、かつての鬼軍曹が和解を求め手を差し出してきました。その時、彼女はいてつきました。どうしても手を取れなかったと言います。コーリーは、イエスさまを仰ぎました。
 その時、まるでダムが決壊したかのような豊かな愛が一気に彼女に注がれました。空気が一変し、キリストの愛があふれました。コーリーは赦すばかりかキリストの愛に打たれました。こういう訳で、私たちもまた赦しの道を行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月3日号(第865号)より転載—