2016年11月26日土曜日

ゲツセマネ
 イスラエルのオリーブ山の麓に、ゲツセマネという園があります。正面には黄金門を頂いて、いにしえから格好の祈りの場として用いられました。イエスさまもまたこの場所でお弟子たちとともに会合を重ねました。
 十字架につけられる前夜も、イエスさまはこのゲツセマネに来られました。誘惑に陥らないように祈っていなさい、と弟子たちに言い、ご自分は少し離れた所でひざまずいてこう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイの福音書2639節)
 この杯とは、十字架の死を指します。いよいよイエスさまがこの世に来られた最大の理由であり目的である十字架の死、罪の贖いがクライマックスを迎えようとしています。イエスは苦しみ悶えていよいよ切に祈り、汗が血のしずくのように地に落ちました。
 イエスさまは、私たちと同じ肉のからだでこの十字架の苦しみを味わわれました。神の子としての特権を用いることができるにもかかわらず、イエスさまはそうはされませんでした。ほふられる子羊のように、肉なるご自分を差し出されたのです。
 父なる神さまのみこころが、十字架による贖いにあることをイエスさまはご存じでした。しかし、イエスさまであっても祈りがなければ乗り越えられませんでした。できるなら過ぎ去らせてください、そうイエスさまは祈られました。けれども、最後には私の願うようにではなく、みこころをなさってくださいと祈ったのです。
 ゲツセマネの祈りは、祈りの神髄です。神さまのみわざは、このような祈りと共にあるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月27日号(第912号)より転載—

2016年11月21日月曜日

悔いる必要はありません

 悔いというものは人をネガティブにさせる厄介な感情です。
 先日私は、愛用のせっけんを取ろうとして、誤ってトイレの中に落としてしまいました。アハバの死海の泥が配合されているせっけんで、数年前現地で買いました。日本では手に入れにくいもので、しかも最後の1個です。あれ~っという感じでした。
 こんな時、心の隙間に失望、落胆が生じます。しかし、幸いなことに私たちは「すべての事を感謝しなさい」(テサロニケ人への第一5章18節)という聖書のことばを知っています。
 かれこれ20年、良い事があっても悪い事があっても全ての事を「感謝します」と語り続け、いよいよ頭で理解するより先にその一声が口をついてくるようになりました。その成長を神さまに感謝します。
 また、故事成語の一つに「覆水盆に返らず」というものがあります。器がひっくり返ってこぼれた水はもう元通りにはならない、といった意味です。元通りにならない、だから底なしに悔い続けるのです。
 しかし、ローマ人の手紙8章28節には次のように書かれています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 これは神さまの約束です。どんな問題があっても、全能なる父なる神はそれを益と変えてくださいます。神さまは私たちに許される問題の背後に、ご自身の素晴らしい祝福を用意しておられるのです。その事を信じられますか?
 ぜひ、信じてください。すべては益に変えられます。私たちの喜びは尽きることがありません。(イスラエル北野)
み声新聞2016年11月20日号(第911号)より転載—

2016年11月19日土曜日

天の国籍
 今、ちまたでは、蓮舫氏の二重国籍問題が取り沙汰されています。国籍の問題がここに来てにわかに脚光を浴びています。しかしこれは昨日や今日起こった問題ではなく、日本においても国籍を選ぶという問題は昔からありました。これからさらに、増えるでしょう。
 というのも、一つには時代の変化が来ているからです。私は北海道のA市に住んでいます。大都市ではなく中都市くらいの人口で都から離れています。にもかかわらず役所に行けばインドの格好をした方が数人いて流ちょうな日本語で話しているのを見、ホテルや介護の職に安い労働力として外国の方が用いられています。これは一世代前には考えられなかった光景であり、この延長線上にやがては、日本国籍を求めて永住する方も出てくるでしょう。しかし、移民受け入れの問題を含めて国籍の問題は一筋縄ではいかない問題です。それは民族の問題だからです。
 その中で、韓国籍と日本国籍の間でどちらを選ぶかという岐路に立たされたある韓国人クリスチャンの方の体験談を読みました。どちらに、よりアイデンティファイ(自己同一化)できるかという問題になりますが、どちらとも答えは出なかったと彼は語ります。これはもっともな事です。なぜなら彼はクリスチャンなのです。世から贖われた神さまの子です。彼の帰属は神さまにあります。世の国ではなく神さまの国が彼の国でありまた、国籍であるのです。
 さらに、聖書にもピリピ人の手紙3章20節に「私たちの国籍は天にあります」と書かれています。彼の目は開かれました。何人であろうが、キリストにあっては私たちは天国人です。民族の壁も打ち破る天の国籍こそ私たちが帰るべき故郷を示しています。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月13日号(第910号)より転載—

2016年11月7日月曜日

ただ信ぜよ
 皆さんが世界の全員を等しく救いに導くとしたなら、いったいどんな手段を講じますか。また、神はどうされたでしょうか。
 コリント人への手紙第一1章で、パウロは次のように語っています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(21節)
 宣教のことばの愚かしさを通して救う、というのが神さまの方法です。
 以前、Aさんというご婦人に伝道したところ、彼女は「うふふ」と笑いました。取り付く島がない様子で、処女が身ごもるなんてあり得ない、聖書は1ページ目から私は駄目よ、と門前払いでした。
 知恵によって信じようとしたAさんは、信じることができませんでした。愚かに思えたからです。しかし、これこそが神の知恵なのです。神はあえてつまずきを置き、また愚かさをまとい、肉の力によらないご自身への信仰を通して、人々が信じて救われるように福音を下さいました。
 多くの宗教が、勤行苦行など賢そうな事を行っています。しかし、それはその人を救うことができません。救いはイエスにあるからです。
 「ただ信ぜよ」。これが先人たちから聞いた言葉です。誰であれ、イエス・キリストを救い主として心に信じ、口で告白する者は皆救われます。お仏壇もお勤めも、その人を救うことはできません。しかし、信じてイエスさまを心にお迎えするなら、あなたは救われます。
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(同18節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月6日号(第909号)より転載—