2020年9月22日火曜日

 耳のある者・目を覚ましている者

 黙示録23章は、普遍的な7つの教会に対する神のことばが語られており、それぞれ最後に「耳のある者は(御霊が諸教会に言われることを)聞きなさい」という一文で締めくくられています。耳のある者とは誰でしょう。 

 私たちの体は、神さまがおつくりになったもので、11つの器官が調和をもって重要な働きを担っています。特に顔はその傾向が著しく、目、耳、鼻、口は、あらゆるものを認識し、情報を発信するようにつくられています。その中で、特に今回は「耳」や「目」を取り上げたいと思います。 

 若者は、イヤホンをつけて歩きながら音楽を聴くのが好きです。しかし、そうなれば、呼んでも聞こえません。耳が悪いのではなく、心が音楽に向いているからです。 

 聞く耳が無い。聞く耳を持たない。これは、本当に聴覚を失くしたというのではなく、おもに心が神から離れてしまった心の状態を言います。いくら神が素晴らしい計画を持っておられても、当人の心がそこにないなら、何の意味もありません。耳と心は密接な関係にあり、つながっています。 

 それ故、イエスさまは、聞く力に応じて、群衆と弟子たちとを区別されました。一般の群衆には「たとえ」を用いて教えられました。しかし、弟子たちにはその「ときあかし」をされたのです。そしてここでも、「耳のある者は聞きなさい」と言い、ご自身のことばを心で悟るかどうかを、私たちに任されました。 

 また、目に関しても、イエスさまは何度も「目を覚ましていなさい」と語ってくださっています。ゲッセマネでの祈りの時に、イエスさまは、苦しみもだえて祈り、汗が血のしずくのように地に落ちました。この一大事に弟子たちといえば、悲しみの果てに、眠り込んでしまっていました。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」とイエスさまにお叱りを受けたと記されています。(ルカの福音書22章参照)目は素晴らしい器官ですが、眠りやすいのです。 

 同福音書1315節には次のような引用があります。 

 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである」。 

 耳は聞くため、目は見るための器官です。大切なのは、心、すなわち悟りです。心が主から離れると、いのちである言葉を聞けませんし、盲目になってしまいます。それ故私たちはあらゆる場面で悟る心を働かせていきましょう。そして、イエスさまのいやしを受け、永遠のいのちを受けましょう。これこそ、主があなたに与えようとしているものだからです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年9月14日月曜日

 いやされる信仰

 信仰といやしは密接な関係にあります。 

 使徒の働き14章に、パウロとバルナバがルステラで、福音の宣教を続けていた時のことが書かれています。そこでは、生まれつき足のなえた人、歩いたことが無い人が、パウロの話に耳を傾けていた様子が書かれています。 

 パウロはこの人に目を留め、いやされる信仰があるのを見て取ると、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」といいました。すると、彼は飛び上がって歩き出しました。 

 また、マルコの福音書5章では、十二年の間長血をわずらっている女性がいやされています。この女性は多くの医者からひどい目に会わされ、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったのに何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。 

 彼女は、イエスの事を耳にすると「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」とかたく信じて、群衆の押し迫る中、後ろからイエスの着物にさわりました。するとすぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを体に感じました。 

 イエスさまも、ご自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。 

 女性は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏して真実を余すことなく打ち明けました。イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」と言ってくださいました。 

 特筆すべきなのは、両者ともにいやされる信仰があったということです。あのイエスさまなら、きっと自分をいやしてくださる、そう信じる信仰が彼らにはあったのです。そして、その信仰はむなしく終わることなく、彼らの想像をはるかに超えたいやしと奇跡をもたらしました。 

 ペテロの手紙第一26節には「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と書かれています。彼とはイエスさまです。あなたもまた、信仰の海に漕ぎ出して、神さまのいやしと恵みを頂きましょう。神さまはどのようなことでもおできになり、あなたをいやしてくださいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年9月3日木曜日

 神の『ものさし』

 人はそれぞれ持っている物が異なっており、その才能も能力も11人異なります。神さまは主権をもって11人に測ってタラント(能力)を与えてくださいました。マタイの福音書25章では、タラントについて次のように書かれています。 

 彼(神)は、おのおのその能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、旅に出かけた。5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。同様に、2タラント預かった者も、さらに2タラントもうけた。ところが、1タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した(1518節)。 

 私たち互いの間では、与えられた能力の多い少ないという違いは確かにあります。しかし、聖書はもうけたものの多い少ないを問うている訳ではないのです。主人はこう言っています。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(2123節)。 

 忠実さ、これが神の尺度、神の唯一の「ものさし」なのです。これに照らし合わせて私たちは評価を受けるのです。 

 1タラントを預かったしもべは、それを地の中に隠してこう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」(2425節)。 

 この言葉は主人の逆鱗に触れました。主人はこう言います。「悪いなまけ者のしもべだ。(中略)おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息が付いて返してもらえたのだ。(略)だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを10タラント持っている者にやりなさい」。 

 人それぞれ、能力によって結ぶ実は異なります。そして人は結んだ実の多い少ないを「ものさし」として、私たちを測ります。それが世なのです。しかし、神はそうではありません。神が私たちを測る「ものさし」は、あくまでも忠実さなのです。結果でも実の大小でもありません。 

 ルカの福音書にはこのように書かれています。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」(161011節)。後の世においても忠実さは、神の尺度、神の「ものさし」であるようです。私たちは、与えられているものに忠実でありましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年9月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/