2020年12月30日水曜日

ある日の夢

 クリスチャンになって、三十数年になります。振り返ってみると、そこここに神さまの御手が見えます。イエスさまを救い主と信じて私は、毎日緩やかに成長してきたつもりでした。ところが、5年単位10年単位で見てゆくと、実は驚くほどの大きな変化が起こっていることに気づいたのです。

 救われる以前の私は、いつも重苦しく圧迫されるものを感じていました。家族の問題、自分の問題で押しつぶされ、負の感情に支配されていました。それらは私にとっては深刻な問題でした。しかし、510年が経つうちに、いつのまにかそれらの縛りや圧迫から解放されていたのです。

 救われたのは18歳の時です。いわゆる疾風怒濤の時代で、強いコンプレックスを抱いていました。おしゃれをしたい年頃ですが、自己イメージが低く、ブティックが大の苦手でした。きれいに着飾ったハウスマヌカンが接客に来ると、上から見下げられているように感じるので、肩身が狭くて、買物どころではありませんでした。

 そんな私がある日、夢を見たのです。夢の中の私は、実際と同じく、打ちのめされた少女でした。髪はボサボサ、ぼろを着て道を歩いていました。すると左前方にブティックがあるのです。入り口にはワゴンがあって、そこにアクセサリーが山積みされているのが見えました。よく見たいなと、近づこうとした所、そこにサタンがやってきて、罵声を浴びせかけてきました。「ここはお前なんかが来るところじゃない。お前は女のつもりか。何だ、とっとと帰れ」というもので、胸が痛みました。

 すると、今度は第二の人がやって来ました。この人はイエスさまです。みもとに来るように私を呼んでくださいました。行くとワゴンの中からそれも一番豪華で綺麗な髪飾りを取り、私のボサボサの髪を慈しむように取りまとめて、プチンと止めてくださいました。筆舌に尽くしがたいほどうれしくて、かつ恥ずかしいやら、ありがたいやらで、あっという間に胸がいっぱいになりました。そして感動のあまり髪飾りを頭からむしり取ってしまいました。そして、イエスさまに言うのです。「お、お金ならあります。じ、自分で買います」

 こうして、私は、急いでバッグに手を入れ財布を探します。やっと見つけて、お金を出そうとしたところ、何と中身は空でした。エッと顔を上げると、もうイエスさまは見えなくなっていました。

 そして、知るのです。イエスさまの恵みは、お金で買えるようなものでないこと。また買えるような代価など何も持ち合わせていないのが自分なのだということです。緊張したにせよ、一方的な恵みとして受けるべきものを買おうと語った自分は、神の愛をまだよく知らない霊的幼子でした。

 神の愛は無償の愛です。イエスさまの柔和なご愛は心の慰めでありまた力です。神は私たちを愛してくださっています。イザヤ書にはこう書かれています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(434節)。

  MIKOE NEWSから転載」 2020年12月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年12月23日水曜日

Be strong

 ヌンの子ヨシュアは、モーセに仕えた従者です。モーセの死後、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地カナンに導きました。老齢のモーセに対してヨシュアは若者です。リーダーになって働きを全うするには勇気がいります。

 それ故、神はご自身のことばによってヨシュアを幾度も奮い立たされました。ヨシュア記には、幾度となく「強くあれ。雄々しくあれ」(1679節)という神ご自身の励ましのことばが語られています。聖書には多くの働き人がいます。しかし、ヨシュアのように神から直接力強いことばや励ましを頂いた者は他にいません。それだけ、ヨシュアにかかる重荷が大きいものであったからでしょう。

 同9節では特にこう書かれています。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたととともにあるからである」。

 神が私たちの力となってくださる、これが神さまの約束です。そして、ヨシュアは神のことばに奮い立ちました。「ただ強く、雄々しくあって下さい」、民もまたヨシュアに言いました(18節)。

 さて、「強くあれ」ですが、これは英語訳では「Be strong」といいます。strongは、強いという意味ですから、直訳すると強い状態でありなさい、といったところでしょうか。「雄々しくあれ」には「courage」が充てられています。勇気のあるという意味です。

 また、ピリピ人への手紙413節には「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という一文があります。その通り、神の慰めや励ましがあるなら、弱い私たちであってもどんなことでもできるのです。

 あなたは、弱い人ですか。あなたには不足がありますか。問題の解決に労していますか。どのようなことがあっても、イエス・キリストはあなたのすべてを知っておられます。どうか、主にあって強くあり、また雄々しくあってください。主は必ずあなたの問題を解決されます。

 力は神のものです。主は、弱さのうちに働き、私たちを助けてくださいます。私たちの力は神のうちにあり、それは圧倒的な勝利となるのです。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/   

2020年12月16日水曜日

あなたの値段

 年の暮れになると、毎年、東京湾で海の大掃除をするそうです。東京湾は深いので何でも捨てられており、時々驚くような発見があります。大きなところでは、冷蔵庫やドラム缶、タイヤ、テーブル、と家電が目立ちます。しかし、時には自転車に車、そして車の中に男女まで乗っていることがあり、こうなれば警察の出動となります。

 ある牧師は、よくこの東京湾のことをたとえに出して「罪の赦し」のことを教えてくれました。私たちは、罪の大きい小さいにこだわってしまうところがあります。小さな罪の赦しは受け入れやすいけれども、大きな罪、道ならぬ罪、これらは赦されたと信じることができませんと語る人も多いのです。

 すると、牧師はイメージの中で私たちを東京湾の埠頭に立たせます。ペンを投げると、ぽちゃんと沈みます。次は冷蔵庫です。力を込めてドンと押します。大きな波音がして、冷蔵庫は海のなかに沈んで行きました。どちらも沈んだでしょう、と牧師は言います。

 罪もまたこれと同様なのです。確かに罪には大きい小さいというような差があります。しかし罪は大小ではなく、有るか無いかで裁かれるものなのです。悔い改めるなら、どんな罪であっても、(ペンであろうが冷蔵庫であろうが)、等しく東京湾に沈んで(赦されて)ゆくのです。それは罪において赦されないものは一つもない、ということなのです。

 今日お話ししたいのはまさにそれ、赦されない罪などない、ということです。イエス・キリストは、私たちを罪から贖うために世に来られました。神であられながら身をいやしくされ、病をいやし、悪霊から解放し、最後には罪人とともに十字架にかけられ、死なれました。「彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(イザヤ書535節)と書かれている通り、イエスにより私たちはいやしを受け、罪の赦しと永遠のいのちを頂いているのです。

 いいかえれば、それらを与えるために、イエスは世に来られたのです。私たちは罪人であり、自分で自分を赦すことはできません。一生罪の中に囚われていることを、イエスさまは憐れまれました。神は、私たちを愛しておられるのです。

 あなたを罪や死の原理から取り戻すために、イエスさまは、十字架にかかって死んでくださいました。あなたの値段は、御子イエスの十字架です。これより高価な贖いしろはありません。あなたを買い戻すために主は何という犠牲を払ってくださったことでしょう。

 イエスさまはどんな時にもあなたとともにいてくださいます。あなたを赦すために主は、十字架で死なれました。よみがえられた今は、多くの方々の救いのために、あなたもまた用いて下さいます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2020年12月8日火曜日

再臨のしるし

  神さまの恵みを頂いて、先週娘が女児を出産し初孫が誕生しました。お産は、女性にとっては結婚と同様に重要な人生の節目です。これを経て、いよいよ母となるのですから、起こってくることも並大抵のものではありません。

 聖書の中でもお産やその痛みについては、いろいろな文脈で引用されています。「産みの苦しみ」という言葉もその一つで、子を産むには産みの苦しみを避けることはできません。陣痛です。容赦なく陣痛が押し寄せて、痛みといきみで数時間格闘。もう限界だというところで、ようやく産声が聞かれます。そして生まれてしまうと、今まであった苦しみや痛みはうそのように消え去っています。

 マタイの福音書24章は、小黙示録と呼ばれ、世の終わりについてお弟子たちがイエスさまに尋ねた様子が書かれています。「お話しください。(中略)あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」。

 それに対してイエスさまは、多くの偽キリストが出現して多くの人を惑わすことを語り、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(58節)と語られました。

 あわてないようにしなさい、これがイエスさまの答えです。陣痛も起こり始めは微弱な痛みですが、だんだんとそれは強くなり、ついには子を産み落とすほどの力となります。

 そして、ここで注目したいのは、「産みの苦しみの『初め』」という表現です。産みの苦しみとは戦争や患難、民族問題であり、また自然災害です。その数々は黙示録にも書かれています。でも、それはすぐには来ません。しかし兆候は現れており、それが産みの苦しみの「初め」として意識されているのです。

 世界中で今、大流行している新型コロナウイルスによる感染症もまた産みの苦しみの初めにあると言えるでしょう。有効なワクチンもなく、あちこちでクラスターが起こり、感染者は増え続ける一方です。コロナは時代を変えました。さらに変え続けて行くでしょう。

 これらのことから、私たちは再臨のしるしを読み取りましょう。イエス・キリストは、間もなく再び世に来られます。再臨を待ち望んでいる私たちのために主は来られます。それが近いことを心に留めてまいりましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年12月2日水曜日

棘(とげ)

 キリスト・イエスの使徒パウロは、神のために誰よりも多く働きました。そしてまた、誰よりも多くの試練を体験しました。聖書のコリント人への手紙第二1112章には、その困難の数々が記録されています。

 読んで印象深かったのは、パウロの独白です。ガマリエル門下のパリサイ人であるパウロには誇れるものがたくさんあります。およそ世が欲しいとするもののすべてを持っている人物です。これらパウロの持っているものは、世から見れば大いに誇れる「強さ」であったに違いありません。にもかかわらずパウロは「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(125節)と吐露してやみません。

 何があったのでしょうか。それは、彼の内に棘(とげ)が、あったのです。同7節にはこのように書かれています。「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に1つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」。

 この肉体の棘(とげ)が何であるかは、昔からよく議論されるところで、てんかん、マラリヤ、眼病などの病気が挙げられています。そして、棘(とげ)がパウロに許されるのは、パウロを高慢にさせないために、サタンの働きをある程度許すという神さまのお心によるものだと言います。パウロはこれを私から去らせてくださるようにと3度も主に願いました。

 しかし、神はそれをお許しにならなかったのです。そして、言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(9節)。

 私たち人間は「強さ」を力とします。でも、神の力は人の「弱さ」を土台として完全に現わされます。棘(とげ)とは、弱さです。痛み、神の助けを仰ぎ見ずにはいられない、その弱さが私たちを神につなげています。神は確かに「強さ」ではなく、「弱さ」の内に働かれます。パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言うに至りました。

 私たちは高慢になりやすく肉を誇る者です。ですから神は私たちにあえて棘(とげ)を許されることがあるのです。10節でパウロはこう言いました。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」。

 世の忌み嫌う「弱さ」は、キリスト・イエスにあって、私たちの「強さ」になるのです。こういう訳で、私たちもまた弱さを誇りましょう。弱さを通して働く神のわざこそ私たちの取り分です。 

 MIKOE NEWSから転載」 2020年12月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/