2019年12月25日水曜日

危険な遊び

 小学生の頃、友人の家に集まり、皆で「こっくりさん」をして遊びました。文字盤の上に置かれた10円玉がスイスイ動いていくのが不思議で、私は誰と結婚しますか、とか何歳の頃ですかなどと聞いては、半信半疑でうれしがっていました。女児たちは皆、占いが大好きで、ゲーム感覚でそれを楽しみました。しかし、これこそが遊びを隠れみのにしたサタンの思惑であったのです。
 サタンは巧妙で、かつ自分を隠すことにたけています。そもそもサタンなどいないと思うこと自体がサタンが作り上げた妄想で、広く世に浸透しています。私たちにとってはたわいない遊びのつもりでも、こっくりさんはれっきとした悪霊で、行っていることは霊との交信です。
 こういう訳で、霊と関わりを持った私は、後日、精神を病みました。何をやっても自殺の思いが切れないのです。医者も薬も効き目がありません。サタンの論理はギブ・アンド・テークです。サタンの力を利用して何かを得たなら、必ずその見返りが求められます。サタンが狙っているのは私たちのたましいであり命であって、その行き着く所は死です。
 しかし、あわれみ深い神は、滅びゆく人間を惜しんでくださいました。18歳の時に私はイエス・キリストに出会い、救いを受けました。イエス・キリストは十字架で死なれました。それはサタンに捕らわれた私を、神が永久に買い戻してくださるためであったのです。
 それから四十数年がたち、今は21世紀です。インターネットを用いての働きが大きく展開し、さまざまなゲームが提供されています。中には本物の呪文や魔方陣を使っている作品もあり、無自覚にそれに触れている人は多いです。しかしこれは危険な遊びです。サタンのわなを見分け、サタンに心を奪われることなく、主イエスを信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月29日号(第1074号)より転載—

2019年12月18日水曜日

救いについて

 救いって何でしょう? 救いはキリスト教の専門用語です。仏教系の宗教では悟りという境地を約束していますが、それとも違います。
 救いは、天地万物を造られた全能の神が用意してくださったものであり、恵みによって誰もが受けることができる祝福です。
 救いに関しては聖書に、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒の働き4章12節)と書かれており、この方とはイエス・キリストです。世に宗教多しといえども、救いを語るのはイエス・キリストの福音以外にありません。ですから救いを受けるためイエス・キリストを信じましょう。
 具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。ローマ人への手紙10章には次のように書かれています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(9、10節)
 救いと告白は密接な関係にあります。コリント人への手紙第一12章3節には、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことができません」と書かれています。それ故、イエスを主と口で告白することは重要です。
 また、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったというのはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストが贖(あがな)いを成し遂げてくださったということです。イエス・キリストは、私たちの一切の罪を負って十字架で死なれ、贖いを果たし3日目に死者の中からよみがえりを果たされました。ここに救いが完成されました。誰でもこの福音を信じるなら救われます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月22日号(第1073号)より転載—

2019年12月11日水曜日

神の戦い

 近現代における戦争は、武器によって勝敗が決まります。聖書の時代では剣やよろいはあったものの武器に差はなく、基本的には人数の勝負です。千名と万名の戦いでは万名が勝利するのです。
 にもかかわらず、士師記におけるギデオンは、ミデアン人・アマレク人との戦いの際、神さまによって兵士の人数を300名にまで減らされました。自分の手で自分を救ったと誇るといけないから(7章2節)だというのがその理由で、主はこの300名を用い敵陣で同士打ちが起こるよう仕向けられ、イスラエルは勝利しました。
 また、サムエル記第一17章には、イスラエルとぺリシテ人との戦いが記されています。すなわち少年ダビデとゴリアテとの戦いです。
 ゴリアテは大男の職業戦士で、日々イスラエルの陣営をなぶり、人々を恐れさせていました。ただ、ダビデだけは「この割礼を受けていないぺリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」(26節)と語り、ゴリアテとの戦いに挑みます。
 ダビデは言いました。「おまえは、剣と、槍(やり)と、投げ槍(やり)を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(中略)この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(4547節)
 こうしてダビデは、石投げ器と一つの石でゴリアテに向かい、彼の額を打ち、その一打で彼を打ち殺してしまいました。神がそれをなされたのです。
 ギデオンとダビデに共通することは、彼らが戦ったのは神の戦いであったということです。現実的にはとても勝ち目のない戦いが、生ける神に聞き従うことによって大勝利を得たのです。私たちが直面する戦いもまた神の戦いです。堅く信仰に立ち、神の救いを待ち望みましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月15日号(第1072号)より転載—

2019年12月4日水曜日

 

 苦難のしもべヨブをご存じでしょうか。聖書に「ヨブ記」があり、その主題は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という所にあります。
 ある時、神の許しの中でヨブは、理不尽としかいえない取り扱いの中に置かれました。1日にして家族と全財産を失ってしまったのです。もちろんヨブは、起こったすべての事につぶやくことなく、感謝をささげ、信仰を用い、非の打ちどころのない対応をしました。それは称賛に値するものでした。ところが、試練はそれで終わらず、さらに厳しい試練が許されます。サタンは、ヨブを悪性の皮膚病で打ちました。
 ヨブは生まれて初めて自分の生まれた日をのろいました。生きていることをいとうまでこの試練は厳しいものでした。さらに、ヨブの友人たちは、むなしい慰め手で、ヨブに非があるからこんな事が起こるのだという論調でヨブに向かい、ヨブの苦しみをさらに増し加えました。
 ヨブが苦しんだのは、神が沈黙を守られたからです。問うても尋ねても何をしても、神はご自身を隠されました。どんなに苦しくても厳しくても、神、主を認めることさえできれば、ヨブは満足したでしょう。でも神は現れてくださいませんでした。これがヨブの最も大きな苦しみでした。なぜ答えてくださらないのですか。切々とヨブは祈ります。信仰ももう破綻という所までヨブは試されました。
 やがて時が来て、嵐の中から神はヨブを呼ばれました。ヨブは神にあずかり、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と語りました。新しい段階の、神との出会いを頂き、神はヨブに失ったものの2倍を与え、ヨブを祝福されました。
 信仰が試されると忍耐を生じます。忍耐の末にこそ受けるべき祝福があります。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月8日号(第1071号)より転載—