2023年7月26日水曜日

罪の赦し

 年を取れば取るほど、誰でもその人生に大小いろいろな罪を犯してきたことを心のうちに見出すものです。私たちは生まれながらの罪人(つみびと)で、誰でも人生において一つや二つ忘れ得ぬ過ちがあるものです。わびたいと願ってもその人はもう世にいなかったり、もっとやさしく愛をもって接すればよかった、などと自責や後悔に襲われることもしばしばです。また、子どもであっても罪の支配のうちにあり、いじめの問題は端的にそれを表しています。

 罪にはサタンが働きます。ですから、残虐なことが起こるのです。罪はサタンの餌(えさ)なのです。サタンは、罪に働き、私たちを憎み、あわよくば殺そうとしています。私たちの罪を日夜神に訴えている告発者です。ローマ人への手紙に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(623節)と書かれています。そのように、罪はその結果として死をもたらすのです。私たちが死ぬのは、それが罪の行き着く先であるからです。しかし、書かれている通り、神はキリスト・イエスにある永遠のいのちを与えるという約束を私たち人類に与えてくださいました。

 ここで私は皆さんに問い掛けてみたいのです。罪は、赦されるでしょうか? 犯した過ちは消えるでしょうか? 多くの人が「いいえ」と答えるでしょう。どう転んでも犯した罪がなくなるということはありません。そんなうまい話ないでしょう。しかし、神を賛美します。ただ一方的な愛と恵みによって神は罪の赦しを人類に下さったからです。

 マルコの福音書2章においてイエスさまは、中風のいやしを求めてきた男に「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。これを聞いて律法学者たちは、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」とつぶやきました。イエスさまはそれをご自分の霊で見抜いてこう言われました。「人の子(イエスさまのこと)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」。そして「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言うと、ただちに男はいやされ、驚く人々の前を出て行きました。イエスさま自らが語られたように、イエスさまには罪の赦しという権威があるのです。(111節)

 それでは、それはどういうふうに赦されるのでしょう。それは、神さまの特別な消しゴムがあって、それで罪や咎(とが)をゴシゴシ消してゆくのではありません。イエスさまを信じることです。神さまは、上から天から私たちを見ておられます。そして、イエス・キリストを信じた人を見るにあたって、神は十字架の主の血潮を通して見てくださるのです。その人を覆っている主を見るので、一片の罪もない者として、神の子として私たちを見、天における一切の祝福を注いでくださいます。罪過の中に死んでいた古い私は過ぎ去り、イエス・キリストにあって新しく神の子として生まれるのです。

 イザヤ書にこう書かれています。「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる」(118節)。たとえどんなに大きな罪であろうと、赦され難いその過ちも、神に帰るなら、神は豊かに赦してくださいます。こういう訳ですから、あなたもまたイエス・キリストを信じ、罪の赦しを受けましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年7月15日土曜日

粘り強くあること

 聖書は、私たちに信仰を教え、あらゆるところで信仰を用いることを奨励しています。そして、信仰による大きなわざは、粘り強く祈ることによって起こるとイエスは語りました。

 ルカの福音書11章で、イエスさまは興味深いお話をされました。ある人が真夜中に友達の所を訪ねました。なんでも旅人である友人が、自分の所に訪ねてきたにもかかわらず、出すものがないというのです。それで、君、パンを三つ貸してくれないか、と友人に所望したのです。それに対して友人は「めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」と言います。友人とはいえ寝ているところを起て何かをするという労を取ることはしませんでした。

 しかし、イエスさまはこう言いました。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(58節)

 その通りです。「一念岩をも通す」という言葉があります。あくまで頼み続けるなら、ついには相手も根負けします。皆さんはそこまで祈ったことがありますか。それを私たちは「祈り切る」と言います。祈り切ってしまうなら、祈った通りのものを受けるのはもう確定しているのです。マルコの福音書に「祈って求める者は何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(1124節)と書かれている通りです。人間関係においてはしつこさは嫌われます。しかし神の前ではそうではありません。これによって後には神の栄光を見るようになります。

 イエスさまはしつこさが何かよく知っておられて、それを祈りに運用することを奨励されたのです。しつこく、あくまでしつこく祈り求めるなら、願いの扉は聞かれるという祈りの原則を教えてくださっているのです。しつこさは、決して諦めません。願い通りになるまで手を緩めません。求めたものを現実に手にするまでチャレンジし続けます。これには脱帽します。約束のものを手に入れるには、しつこさは強力な力であるのです。しつこさも立派な信仰のあるべき姿なのです。

 それが表れているのがヤコブです。ヤコブは兄エサウをだまして長子の祝福を受けました。逃げるようにして母の郷里に身を寄せ、そこで妻子を得、財産を得て、いよいよエサウのいるカナンの地に帰ることになりました。エサウを恐れるヤコブは、夜中密かに家族財産といっしょにヤボクの渡しを渡りました。そして、一人だけ後に残りました。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した、そう書かれています。(創世記32章参照)

 ある人というのは、受肉前のキリストとも言われています。ヤコブはその人と戦いました。それは激しいものであって、その人はヤコブに勝てないのを見てとってヤコブのもものつがいを打ったので、ヤコブのもものつがいが外れました。するとその人は、「わたしを去らせよ。夜が明けるから」と言いました。ヤコブは、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」とさらに粘りました。

 その人は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と言い、その場で彼を祝福しました。

 ヤコブは一晩中、神と格闘し、勝ちました。去らせよと言うまで格闘をし続けました。このようにあくまで粘り強く求めるなら、神もまた私たちの祈りに答えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年7月4日火曜日

免罪符

  大学受験を目の前にした17歳の私は、無宗教を自認する私的宗教家でした。ややこしい言い回しですね。多くの日本人がそうであるように、無宗教を自認していながら初詣には神社にお参りに行き、葬儀は仏式で抵抗なく焼香を上げ、結婚式はキリスト教式であげることに何のためらいもないのです。イザヤ・ベンダサンなど多くの批評家はこれを理解することが難しいと、よくこのことを取り上げますが、日本人の宗教観は特殊で特定の宗教を信心している者は稀です。むしろ特定の宗教に入ることはそれに縛られているとして、歓迎されないようにも思われます。

 さて、私が何をしていたのかといえば、それは受験合格のお守りを集めていたのです。神道、仏教はもちろんのこと、JR学(がく)駅の入場券5枚や(ご入学という意味)、高松の動物園の「ナマケモノ」の札なども取り寄せました(怠けても枝から落ちないという意味)。これらを集めて悦に入っていました。本当にそれらが効くと信じていたわけではありません。効けばいいな、くらいの気持ちでした。

 そんな私を見て、ある男性は忠告してくれました。いくつもの神さまに頼ったら、神さま同士がけんかして効かなくなるよ、一つにしておきなさい。しかし、お守りが効くなど実は信じていなかったので、私は聞く耳を持ちませんでした。

 確かに、落ちた大学もありましたから、そういう点では彼の言うことも一理あったかもしれません。しかし、今となれば、少しは霊的なことも分かるようになりましたので、結論から申し上げれば、人が紙に刷ったようなものはしょせんは紙であり、いずれは朽ち果て地のちりとなります。

 しかし、紙で刷ったもので、大もうけしたという話が世界にはあります。「免罪符」です。1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売り出された「贖宥状」(しょくゆうじょう)とも言います。これは、そもそもは、イタリアのサンピエトロ大聖堂の建設費を集める名目で集められたものです。他にも十字軍に服役できない女性や高齢者、病人にこれを買うよう奨励されたという歴史もあります。

 ウィキペディアによると、「贖」は「あがなう」こと、「宥」は「ゆるすこと」を意味し、罪の赦しをお金であがなうということになります。一種の「お札」で、それを買った人は現世の罪が許され、天国に行くことができるとされ、死んだ人のために買えばその人も救われる、とされました。これは教会の莫大な収入になり、教会としてもうまみに酔いしれ、これを手放すことができませんでした。

 しかし、これが聖書的に妥当かどうかは、言うまでもありません。使徒の働き412節には、次のように書かれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」。この方とは、もちろんイエス・キリストです。十字架で血潮を流して私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。彼は、約束のメシヤです。

 私たちは罪人(つみびと)で、赦されなければならない人間です。しかし、その赦しは神から来ないと誰からも来ることはありません。ただ十字架の主、この方イエス・キリストによらないでは、罪の赦しも永遠のいのちもありません。そして、ただ主を信じるだけで、私たちは救いにあずかるのです。

 大切なものは、往々にして目には見えません。免罪符には何の力も約束もありません。信仰とはそもそも一人一人、自分が主と向き合って信じるのです。あなたの信仰がいくら強くても、その信仰は他の人の代わりになることはできません。免罪符には救いはありません。それは人から出たものであって、でっち上げで大ウソなのです。ただイエスの十字架の贖いを信じるだけ、それだけで私たちは、罪の赦しを受け、救いを得るのです。十字架のイエスこそ本物です。イエス・キリストを信じ、真の救いを受けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年7月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/