2019年9月25日水曜日

病のいやし

 先日、親しい知人が他界しました。大腸がんでした。何でも、手術できない所にあるがんであったということで、治療しようがなかったと聞きました。治癒を望みえない治療はつらかっただろうと思います。「これじゃあ棺おけに足を半分入れているようなものだよ」と本人は冗談めかして笑っていましたが、迫りくる最後にお1人で戦われたその胸中はいかばかりであったでしょう。
 当然のことですが、世の中には医者が治せない病がまだまだ多くあることに気づかされます。確かに、多くの医学者の研究によって医療は日進月歩を遂げておりその努力には敬意を表します。しかし、医学は万能ではないのです。本当の意味ではいやしは神の領域でしかない、と私は思っています。いやしは神のものでありキリストに属するものです。そして、その根拠はキリストの十字架の贖いです。
 イザヤ書53章に「彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)という一文があります。これは、神のいやしの根拠としてしばしば引用される聖書のことばです。私たちのいやしの根拠はイエスさまの十字架でのみ苦しみにあり、その打ち傷にひきかえて私たちにいやしが与えられるのだというのです。
 また、詩篇103篇3節には「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」と書かれています。赦しといやしには密接な関係があります。
 まず、神さまから赦されること、それが、いやしの始まりとなります。イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであったと信じるのなら、その人は赦しを得ています。そして、多くの縛りから解放され、病からも解放(いやし)されます。イエスさまを信じ、すべての点で幸いと健康を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月29日号(第1061号)より転載—

2019年9月18日水曜日

国 籍


 某自動車会社前会長のG氏は、ブラジル、レバノン、フランスと3つの国籍を持っています。国籍は主に血統主義と出生地主義と2つに分かれているため合法的に複数の国籍を持つことができます。日本では当たり前のように与えられている国籍ですが、国際社会の厳しさを知る者は、幾つかの国籍を持ち、安定した基盤を得ようと労苦しており、これは珍しい事ではありません。
 国籍とは「所属」です。私たちの所属を証明するもので、重要なものです。日本国籍を持つ者には日本のパスポートが与えられます。今の日本のパスポートでは、北朝鮮を除くあらゆる国々に行くことができます。
 また、世界には「難民」と呼ばれる方々がいます。紛争や人権侵害などから自分の命を守るためにやむを得ず母国を追われ逃げざるを得なかった人たちで、アイデンティティーを保証する祖国を失った彼らは、パスポートもなく所属も国籍もありません。国籍に関しては、聖書ではピリピ人への手紙3章20節に「けれども、私たちの国籍は天にあります」と書かれています。
 ある青年が、長年国籍のことで悩んでいました。A国か日本かという葛藤があったと聞いています。彼がその悩みから吹っ切れたのは、先ほどの聖書の言葉によりました。A国人でも日本人でもなく、自分はクリスチャン、すなわち天国人であると彼は知ったのです。自分の国籍は天国だと知った時、長年彼を縛ってきたものが解かれていきました。
 誰でも、福音を聞いて、イエスさまを救い主として信じるなら、神の子とされます。そして、天の国籍を持つ者として、新しく生まれます。それ故、地上の歩みが終わる時には、無条件で天へ迎え入れられます。
 あなたもイエスさまを信じて、天の国籍を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月22日号(第1060号)より転載—

2019年9月11日水曜日

待たされる

 神さまの道を進んで行くと、必ず通されるレッスンがあります。「待たされる」ことで、それを好む人は稀(まれ)でしょう。しかも、神さまは私たちに対して、時に沈黙を守られます。この狭間(はざま)にあって悩み苦しんだのが「ヨブ記」のヨブです。時が来るまで彼は待たされました。
 また、詩篇105篇19節には「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。彼とはヨセフです。ヨセフは偉くなるという示しを受けていました。しかし現実は奴隷に売られ、監獄に入れられ、示しとは真逆の道を進みました。彼もまた、待たされた人でした。
 更に、ハバクク書2章には「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(3節)と書かれています。これは、リバイバルを約束する神の言葉として、教会に与えられた言葉です。そこから待たされ、今はもう三十数年になります。
 ヤコブの手紙1章には次のように書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためさると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(24節)
 すべては私たちを立て上げるため、神は悩みの炉さえもゆるされるのです。信仰と忍耐は密接な関係にあり、約束の成就に至るまで信仰はためされます。ここに忍耐が生じます。待たされるのです。しかし、終(つい)に時が来ます。忍耐の末にヨブは失ったものの二倍の祝福にあずかりました。ヨセフは一日にして囚人からエジプトの大臣になりました。神さまは真実なお方です。試練はこの上ない喜びです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月15日号(第1059号)より転載—

2019年9月4日水曜日

一粒の麦

 ヨハネの福音書1224節に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という聖句があります。哲学的で、含蓄の深いことばです。けれども、一粒の麦として死ぬということがどういうことなのか今一つ、よく分かりませんでした。
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節でイエスさまは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語っておられます。栄光とは、イエスさまが十字架にかかられ死なれる時がやってきた、ということで、ここでいう一粒の麦とは、直接的にはイエスさまのことを指しています。イエスさまがわたしたちの罪の身代わりとなって、死ぬことが無ければ、ただ一人の死で終わります。しかし、もし神のご計画の内に十字架で死ねば、そのみ苦しみの末に豊かな救いの実を見ることができる、というのです。
 また、25節にはこう書かれています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」これも24節と同様に逆説的な表現です。いのちを憎むことが、いのちを得ることに繫がるというのです。
 自分のいのちを愛するのは私たちの肉です。時にその肉のいのちを憎むほどまでして神に従ってゆくことが求められます。自分のいのちを自分のものとせずに福音のためにいのちを捨てるなら、かえってそれを得るようになります。この聖句は、殉教への招きのみことばでもあるのです。
 この世のいのち以上に大切なものがあります。それは永遠のいのちであり、天の報いです。あなたもキリストに従い通して、一粒の麦として地に蒔かれるなら、そこから確かに大収穫がもたらされ、報いとして天の宝を受けるでしょう。共にキリストに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月8日号(第1058号)より転載—