2023年6月27日火曜日

ナアマン

 奇跡の土台には、必ずと言ってよいほど神のことばがあります。神はことばを下さり、そのことばが実現する形で、いやしや奇跡が起こります。どこそこに行き、そこでこれこれのことを行いなさい、とイエスさまが語られ、その通りにしたところいやされたということが、聖書の至る所で記録されています。

 イエスさまが語られたことばに従うことが、いやしが起こるポイントです。けれども、多くの人はいやしや奇跡に関して、既になにがしかの自分のイメージを持っています。自分はきっとこういう形でいやしてくださるに違いないと決めつけて考えてしまうのです。病気の年月は思う以上に長いのですから、それもまた無理のないことでしょう。しかし、それは時に神の恵みにあずかることの妨げとなってしまいます。私たちはそれをナアマンに学ぶことができます。

 ナアマンは、旧約聖書列王記第二5章に登場します。これは預言者エリシャが活躍した時代です。この頃アラムとイスラエルは敵対関係にありました。ナアマンはこのアラムの将軍で、多くの人々の尊敬を集めていた勇士でした。ただ、残念なことに彼は、ツァラアトに冒されていました。当時の人々にとって、ツァラアトを病む者は汚れたものと見なされ、治癒が望めない重い病でした。

 しかし、転機が訪れました。ナアマンの妻に、イスラエルから捕えられて来た若い娘が仕えていたのです。この娘は女主人に「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに」と語ったのです。それで、ナアマンは主君のもとに行き、許しを得てエリシャの所に向かうことにしました。アラムの王は金銀晴れ着に、手紙を添えてナアマンを送り出しました。手紙には、ナアマンのツァラアトを直してくださいますように、と書かれていました。

 ところが、これを読んだイスラエルの王は、自分の服を引き裂いて嘆きました。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。これは言いがかりをつけようとしているのだ」と悲嘆に暮れました。それを聞いたエリシャは人をやって、王にナアマンを自分の所によこすよう進言しました。「そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」。そうエリシャは語りました。

 こうして、ナアマンは馬と戦車を持ってきてエリシャの家の入口に立ちました。エリシャは、使いをやって、彼に言いました。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります

 しかし、それを聞いたナアマンは激怒し、言いました。「何ということだ。私は彼がきっと出てきて、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」

 この怒りや憤り、分からない訳ではありません。ナアマンは、いやされる時はこうであるに違いないというものを堅く握っていたのです。それに対して、エリシャのなしたことは想定外で、顔を合わすことさえない、門前払いに等しい扱いに大いに憤りました。

 注意深く読んで下さい。ナアマンはアマナやパルパルを持ち出してきていますが、エリシャは、川で洗えばきよくなりますと語ったわけではないのです。ヨルダン川へ行って七たび身を洗いなさいと言っただけなのです。ポイントは、ヨルダン川であり七たび身を洗う、ただそれだけです。これに一つでも違うものが入ればいやしはなされません。しかし、一言一句過不足なく神のことばを行う時、その時私たちはことばの成就を見るのです。

 ナアマンには優秀な部下がいました。「わが父よ。難しいことを求められたら、きっとあなたはそれをなさったのではありませんか。預言者は、ただヨルダン川で七たび身を洗ってきよくなりなさいと言っただけではありませんか」。そう執り成され、ナアマンは引き返し、神の人が言った通りにヨルダン川に行き、七たび身を洗いました。すると幼子のからだのようにきよくなったのです。

 神のことばに聞き従うことは、奇跡にあずかることでもあります。それゆえ、先入観にとらわれて神のことばを曲げてしまわないように気を付けましょう。与えられた神のことばに従う時、私たちは例外なく神の奇跡を見るのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年6月15日木曜日

アブラハムの信仰

 アブラハムは、信仰の父と呼ばれるほどの信仰者です。創世記22章で、神はアブラハムを試練に会わせられました。神は「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」とお告げになったのです。

 アブラハムは、躊躇(ちゅうちょ)することなくそれに従い、翌朝早く旅立ち、3日目にその場所がはるかかなたに見えました。アブラハムは若い者たちにここに残るよう指示し、イサクに全焼のいけにえのためのたきぎを背負わせ、自分は火と刀を手に取り、ふたりで進んで行きました。

 場所に着くと、アブラハムは祭壇を築きました。たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、たきぎの上に置きました。そして、手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。と、その時、主の使いが天から彼を呼びました。「アブラハム。アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた

 アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいて、それをイサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげました。

 主の使いは言いました。「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである

 この試みは、アブラハムにとって最終試験であったのです。約束の子イサクが亡くなってしまえば、約束は誰に受け継がれるのだろうなどとは、アブラハムはこれっぽっちも考えませんでした。アブラハムの主に対する信仰と信頼はそんなものではありません。へブル人への手紙11章では、「神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」(1819節)と書かれています。アブラハムは、神を恐れる人物であったのです。アブラハムは、神に聞き従いました。そして神もまたその信仰に答えてくださったのです。

 神は、試練という形を通して、私たちの心を探られることがあります。アブラハムは、信仰の父と呼ばれるにふさわしい信仰を私たちに見せてくれました。神を恐れること、神に聞き従うこと、これこそ信仰の土台です。このアブラハムの信仰は実を結び、今や、海の砂、星の数ほどアブラハムの子孫が世に広がっています。

 私たちにとっても、アブラハムは信仰による父です。彼の信仰に倣い、信頼の根を深く深く伸ばして、生ける神に聞き従う人生を全ういたしましょう。神におできにならないことは一つもないのです。私たちもまたアブラハムの信仰を全うできるよう、神は助けてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年6月10日土曜日

『ヨブ記』に思うこと

  旧約聖書『ヨブ記』のヨブを知る人は多いでしょう。彼は、苦難のしもべとして広く世に知られています。ヨブは神を恐れる人物で、非の打ちどころがないと神が称賛するほどの信仰者でした。7人の息子と3人の娘に恵まれ、多くの財産を持ち、社会的な信用もありました。ところがサタンはそこに目を付け、財産を失い子を失うなら、さすがのヨブも神をのろうでしょうと神に進言しました。神はサタンにそれを許され、ヨブは1日にして全てを失います。しかしヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言い、このようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼすこともしませんでした。

 サタンはなおも食い下がり、今度はヨブの命を的にして、ヨブの骨と肉を打ってください、そうすればあなたをのろうに違いありませんと進言します。神はそれを許され、サタンはヨブの足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打ちました。それを見た彼の妻は「なお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と言います。ヨブは「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と言い、ここでも罪を犯すようなことは口にしませんでした。 

 しかし、その苦しみは半端なものではなかったのです。ヨブの3人の友がヨブを慰めようと訪ねてきました。ヨブだと見分けがつかないその姿に、彼らは77夜、一言もヨブに話しかけませんでした。その痛みがあまりにひどいのを見たからです。そしてその後(のち)、ついにヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろいました。ここから長いヨブの試練が始まります。

 ヨブの友人は、それぞれ、エリファズ、ビルダテ、ツォファルと言います。それぞれ3度(ツォファルは3度目はキャンセル)ヨブと議論をしました。端的に言えば、彼ら3人は、ヨブがこのような苦しみにあるのはヨブに非があるのだ、という立場を取っています。ヨブがいくら自分の正当性を主張しても、彼らは聞く耳を持ちません。彼らは、神は正しい方であるので、理由もなく人が苦しみに遭うことを許されないという立場に立っているので、きっとヨブは苦難に値するような悪いことをしたに違いない、という結論を初めから持っているのです。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ162節)とヨブが嘆いたのも無理のないことでしょう。彼らがしたことは、信仰の名を用いた暴力だと私は思います。

 信仰には段階があります。大別すると三つに分けられます。最初の段階とは、試練前にヨブが持っていた信仰で、主との蜜月関係にあり、呼べば応えられ、疑いを抱くことさえなく、すくすく育って行きます。この時期は、まだ信仰による苦難はなく、神の恵みの下にあり、真綿にくるまれるように養われています。

 次の段階は、一歩進んで、信仰の試練が許されるという段階に入ります。蜜月時代とは打って変わって、神がすっかり顔を隠されたように思える時が来ます。しかし、それによって信仰が鍛え上げられます。見ずに信じるという信仰が求められ、悪いと思えることにあっても、その中に神を認めていくことができるよう訓練がなされます。

 そして最後の3番目は、まさにヨブが体験して得た神との関係です。ヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(425節)と言いました。ヨブにこのように言わしめた信仰は、信仰におけるある不動の境地を示しています。そして、これこそヨブ記が書かれた理由です。

 信仰の段階が違うと、時に信仰が他人の信仰を傷つけるようなことが起こります。ヨブの友人たちの信仰では、試練にあるヨブの苦難は理解できません。事実彼らは、ヨブの困難はヨブが罪を犯した結果起こったものだと捉えてヨブを苦しめています。しかしヨブはあくまで無実を主張し、神は、ついにご自身をヨブの前に現されます(40章)。ヨブにとって、友人たちの信仰はいわれない非難でした。信仰の暴力だと言っても過言ではないでしょう。

 ヨブが病にあるのは、ヨブが苦難に値する悪いことをしたからに違いない、これが3人の友人たちの信仰の限界でした。3人にはそうとしか考えられませんでした。しかし、実際はヨブは、いわば無罪であり、その試練は神の特別な手でした。ですから、ヨブに非があるとした彼ら3名は、後に神によってさばかれ、ヨブにとりなしてもらうようになりました。興味深いことに、この試練以降、神はヨブを「わたしのしもべヨブ」と語るようになりました。そればかりか4212節では、「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」と書かれています。ヨブは失ったものの2倍を受けました。

 全てにおいて神は、正しいのです。ヨブは試練を受けることによってこのことを知りました。そして、今まで以上に神の前にへりくだったのです。私たちもまた、ヨブの信仰と謙遜を学びましょう。神を恐れ、神を義とする信仰は、さらに優れた神の栄光を現すものとなるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年6月3日土曜日

宣教のことばの愚かさを通して

  イエスさまを信じて40年になります。この間、いろいろな人にイエスさまを信じてみないかと勧めました。福音は、長くも短くも語ることができます。個人的な経験では、長い話になると時間を取るので双方緊張が続かず、核心に触れずに終わることもあり、最近では「イエスさまを信じてみない?」と短くストレートに聞くようにしています。神学や理論はそれからでも遅くはありません。後でゆっくり説明すると既に信じているので聖霊の助けがあります。

 そうすると、「うん。信じる」とふたつ返事で応えてくれる人が増えました。ただ、日本人の性質の一つに「曖昧さ」というものがあり、語る者も聞く者もその場において求められるのはア・ウンの呼吸です。何を信じているのかということを理詰めにすることはされにくいように思います。

 以前、T君という青年が、興味深いことを語っていました。彼は青年会の中心人物で教会生活を楽しんでいました。ところがある時、彼は社会人のクリスチャンに問いかけられました。「T君はイエスさまを信じているって言うけれど、イエスさまの何を信じているの?」

 彼は、ちょっと考えて「存在」と口にしました。すると「それじゃあ、天国に行けないよ。イエスさまがT君の罪のために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、3日目に復活し、御子イエスを信じるものはみな永遠のいのちが与えられている、このことを信じるのが信仰なんだよ」。これを聞いてT君は、すっきりした、またはっきりした、と言います。存在を信じるのではなく、救いを信じるのだということが、彼の腑(ふ)に落ちました。主イエスを信じるということは、イエスさまが成し遂げられた「救い」を信じるということなのです。

 この救いに関して、コリント人への手紙第一1章では、次のように書かれています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(18節)。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(21節)。

 すべての人が平等に救いにあずかるにはどうしたらよいか、この問いに神は「宣教のことばの愚かさを通して」それを成そうとされたのです。頭の良い人、お金持ち、など社会的成功者に良い物はすべて移っていくのがこの世の習いです。もし、救いがお金で買うものなら貧乏人は買えません。知恵によるものなら愚かな者たちを取りこぼしてしまいます。すべての人を等しく救いにあずからせるために、神は宣教のことばの愚かさを通して救いを明らかにされたのです。これが、時至ってなされた神の証しです。ですから、パウロは能力も経済力も並外れたものを得ているエリートでしたが、それらをちりあくたと言い、それを捨て、われわれと同様信仰のレースを走りました。

 十字架の救い、十字架のことばは、世には愚かに見えるようです。ある人は私に、処女が身ごもるというだけでもう私は聖書は読めないわ、と笑いながら言ってきました。処女降誕は教理においても非常に重要なことなのに、それを信じられない人が今日(こんにち)でも大勢いるのです。確かに十字架のことばは滅びに至る人々にとっては愚かな言葉です。しかし、救いを受ける私たちにとって、それは神の力です。求められるのは信仰ただそれだけであると知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2023年6月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/