2012年9月26日水曜日

恐 れ

幼いころ、6時を知らせるサイレンが鳴ると、皆、遊びをやめて一斉に家路に向かいました。後ろから追っ掛けてくる夕闇が怖くて、一人が走りだすともう後はばらばら、競うようにして逃げ帰っていきました。
恐れというものは、往々にして実体がなく、しかも恐れれば恐れているほど、恐れは増し加わります。
かつて、教会にO牧師という器(奉仕者)がいました。彼もまた、恐れを持ちやすい人でした。ある時、O牧師の友人であるA牧師は、O牧師から 「鳥が自分を襲いに来る」と言って相談を受けましたが、そんな馬鹿げたことはない、と一笑に付したそうです。ところがある時、現場を見たのです。 そこには小鳥が、羽ばたきながらO牧師を威嚇しているのです。手で払えば逃げそうな小鳥でしたが、O牧師の恐れを見て取った小鳥はいよいよ大胆に 威嚇し続けました。
こんな光景、見たことがない、とA牧師は驚いたそうです。
ヤコブの手紙4章7節には、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」と書いてあり ます。
悪魔の攻撃に対しては、立ち向かうことを聖書は語っているのです。
恐れもまたこれと同様です。立ち向かっていかなければなりません。先ほどの小鳥は、A牧師が懲らしめようと向かってくるのを見て取ると、さっさ と逃げていきました。立ち向かう時に、恐れは消え去ります。
神さまの祝福にあずからせないために、サタンはしばしば恐れを入れてきます。しかし、神への全き信頼を持って恐れに立ち向かい、勝利しましょ う。
神さまは、私たちが祝福で満たされることをみこころとしておられます。
(イスラエル北野)
み声新聞2012年9月30日号(第695号)より転載—

2012年9月20日木曜日

医者を必要とする人々

 三十路を越えたころ、私は事故で子どもを失い、うつ病になってしまいました。私は生きることを投げ出し、最もひどい時のことは記憶に残っていま せんが、衰弱し、階段を上り下りすることも一人ではできませんでした。
 そのような状況でしたが、その時、聖書を開いてみると、ルカの福音書の「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(5章31節)とい う一節がしきりと心に触れてきたことを覚えています。これはいったいどういう意味なのか分かりませんでしたが、今なら分かります。その時の私は病 人で、医者を必要としていたということです。
 神さまは瞬時に病をいやすことがおできになりますが、その時の私には、最善の医者を備えるという方法でいやしを与えてくださいました。魂の癒え ぬ傷に叫ぶ私に「必ずよくなるから」と真顔で答えてくれる新進気鋭の医師が備えられていました。こうして、長い間一人で抱えていた病の日々に、よ うやく治療の手が入りました。それは神の時であったと思います。
 マタイの福音書11章28節には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま す」と書かれています。私たちは疲れた人、重荷を負っている者です。担い切れない労苦をイエスさまはご存じで、私の元へ来なさい、私があなたを休 ませてあげますと語ってくださったのです。
 イエスさまは人生の医師です。失ったものを、再び立て直し、全てを益としてくださいます。私たちは皆、イエスさまを必要としています。イエスさ まの前に病はいやされます。主の前に重荷を下ろして安きを得ましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月23日号(第694号)より転載—



2012年9月13日木曜日

言ってはならない言葉

 列王記第二6、7章に書かれている事ですが、サマリヤにひどい飢饉があり、王は預言者エリシャに怒りを発し、首をはねようと人をやりました。
 エリシャは「主のことばを聞きなさい」と言い、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで 売られるようになる」と預言しました。
 しかし、その時、王の侍従は、エリシャに「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言ってしまいました。エリシャ は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と語りました。
 そのころ町の入り口にいた4人のツァラアトを病んだ者たちが、ここにいても飢えで死ぬばかりだから、思い切ってアラムの陣営に行ってみようと相 談し、出掛けていきました。
 すると、アラムは何もかも陣営に残して逃げ去っていたのです。そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪い、預言者エリシャのことば通り に、上等の穀物がただ同然で売られるようになりました。しかし、侍従は門の所で民に踏みつけられて死にました。
 神さまは、全能者であり、恐るべきお方です。神さまにおできにならないことなど一つもないのです。侍従は、全能の神の前に言ってはならないこと を言ってしまったのです。その言葉は神に対する挑戦であり、神の神聖に踏み込んでしまったのです。
 侍従もこの言葉を言わなかったら、神さまの祝福にあずかることができたでしょう。侍従の言った言葉は、神さまのみわざを目の前にしながら、自ら それを失う言葉でした。
 神を恐れ、信仰の言葉を語りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月16日号(第693号)より転載—



2012年9月6日木曜日

みこころがなりますように

エルサレムの黄金門の正面に、ゲツセマネという園があります。イエスさまはたびたびそこで祈られ、十字架につけられる前夜もまた、イエスさまは、 そこで祈られました。
 イエスさまは、ご自分がまもなく全人類の罪の贖いのために死なれることを知っておられました。とはいえ、生身の体です。受ける苦しみや、愛する 弟子たちとの別離の悲しみなどによってもだえ始められ、こう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、な さってください」(マタイの福音書26章39節)
 何という祈りでしょう。この杯というのは、十字架で死なれることを言っています。しかし、それにもかかわらず、主はこうも祈られています。わた しの願うようにではなく、みこころのようになさってください、というものです。こう祈ったイエスさまは、自分に死んでおられました。父なる神さま にまったき信頼を置いておられたのです。
 ルカの福音書1章にもまた、まったき信頼を持って御使いを迎えた、マリヤのことが書かれています。マリヤは、受胎告知の際にこう言いました。 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)
 イエスさまをマリヤと同列に置いてはいけないのですが、共通するのは、無私の姿勢を取り、自分の心によらず、神のみこころを求めたところです。 そし
て、その結果までも神に信頼して受け取られました。何であれ、神のみこころこそ最善であることを、私たちは知っています。私たちは、神さまの みこころがなることを切に求めましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月9日号(第692号)より転載—