2019年7月31日水曜日

忠実さ

 神の働きのために私たちに求められるのは忠実さです。ルカによる福音書16章には次のように書かれています。
 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(10節)
 以前、ある祈りの器がこの箇所から説教しました。日々の小さな祈りの積み上げがないなら、いざ大きな事が起こった時、それを祈りにもってゆくことは難しい。小さな事を祈れないで、突然大きなことを祈ることは困難だというのです。
 また聖書はこう続きます。「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」(11節)
 私たちは、後に相続するようになる神の国のものに忠実であるかどうかを、この世にあってさまざまな事で試されているようです。
 さらに、マタイの福音書25章にも興味深い記述があります。ある人が、旅に出るのでしもべたちを呼び、おのおのの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを渡しました。やがて主人が帰って来た時、5タラント預かった者は、商売をして5タラントをもうけ、2タラントの者も2タラントをもうけました。主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と祝福されました。
 しかし、1タラントを預かった者は「私はこわくなりあなたの1タラントを地の中に隠しておきました」と語り、主人の怒りを買いました。ここでも、小さな事に忠実であることの教えが書かれています。
 与えられた小さなものに忠実であるところ、神の称賛と栄誉が与えられます。ただ、忠実であるよう、祈り求めて歩みましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月4日号(第1053号)より転載—

2019年7月24日水曜日

金持ちは幸せか?

 聖書の福音書に、富める若人として知られる1人の役人が登場します。
 この人はイエスさまに「何をしたら永遠のいのちを受けることができますか」と問うた人です。
 イエスさまが律法を守ることを語ると、彼は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。イエスさまは彼を見つめ、いつくしんで言いました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」
 これを聞いて、彼は、悲しみながら立ち去りました。大変な金持ちだったからである、と聖書は記しています(ルカの福音書182123節)。
 私の知り合いにもお金持ちがいます。その人はお金があるのに貧しい生活を好み、極端にまでお金を使うことを嫌います。お金は一見、万能のように見え、お金を持つことが人生の勝利だと信じているのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。イエスさまは、その後、エリコに住むザアカイの家に行きました。彼もまた大変な金持ちです。取税人の頭で皆の嫌われものでしたが意に介することなく、お金を追求する人生を送っていました。
 しかし、イエスさまが彼の所に来られたことによって彼は一変します。宴たけなわになった時、彼は、イエスさまに「主よ。財産の半分を貧しい人たちに施します。だましとった物は四倍にして返します」と宣言しました(同19章1~10節)。
 もしお金が本当に彼の心を満たしていたなら、このような変化は起こらないでしょう。イエスさまと出会ったことによってザアカイの心のよりどころは、お金からイエスへ移りました。
 彼は、本当に心を満たすキリストの愛に出会ったのです。お金では得られないもの、それはキリストイエスの愛ではないでしょうか。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月28日号(第1052号)より転載—

2019年7月17日水曜日

 

 聖書は、世界中で最も多く読まれている書物で、永遠のベストセラーといわれています。座右の書に聖書を挙げる人は少なくありません。
 聖書を理解するには聖書から入るのが最善で、テモテの手紙第二3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」と書かれています。
 まず知っていただきたいのは、聖書はすべて神の霊感によるものだということです。聖書は霊的な書物です。正しく聖書を読むには聖霊の助けが必要になります。クリスチャンになる以前の私も聖書を読んでいましたが、その解釈は極端で一人よがりなものでした。まさに矯正が必要で、自分の考えに合わせた私的解釈、つまりは都合のいい読み方をしていたのです。神のことばに聞く、というへりくだった心の姿勢があって初めて、神のことばは正しく聞けるのです。
 どういうふうに聞けるのかというと、皆さんが詩を読む時のことを思い起こしてください。ある一節が心に響く、そういった事があるでしょう。こういった事が聖書を読むことによっても起こります。それが語りかけというものです。
 救われた時、これからは毎日聖書を読み、毎日祈りなさいと勧められました。聖書を読むことはご飯を食べるようなもの、祈ることは息を吸うことだと言います。確かにこの二つによって私たちの霊のいのちが養われていきます。
 こうした霊性を土台にして、次第に私たちのうちに「聞く耳」が作られていきます。神のことばに親しい「耳」です。これを持つことは何よりも大きな祝福です。これこそ聖書の与える力であり、教えと戒めと矯正と義の訓練に欠けることのない有益なものをあなたにもたらせます。
 聖書を読みましょう。また、祈りましょう。
(イスラエル北野)


み声新聞2019年7月21日号(第1051号)より転載—

2019年7月10日水曜日

唯一の救い

 あなたにとって、イエスさまはどういうお方でしょうか。救われる前、私はイエスさまのことは、よくできたお話だと思っていました。
 ところがイエス・キリストの御名(みな)は世界中に知れ渡っており、この信仰は現在も多くの実を結び続けています。死人がよみがえり、病がいやされ、サタンの縛りからの解放がイエスさまのお名前によって今なおなされています。
 イエス・キリストは、神のひとり子です。神さまは私たちを愛するが故に罪や死から私たちを贖(あがな)い出そうと救いの計画をお持ちでした。そこで、今から約2000年前にイエスさまがこの世にお生まれになったのです。イエスさまはおよそ30歳で公生涯に立たれ、多くの病人をいやし、悪霊に制せられている者を解放し、神の国の到来を告げ知らされました。
 そして3年半の後、イエス・キリストは十字架にかけられ死なれました。イエスに期待した者たちは望みがついえ、悲しみます。
 しかしその死が何よりも大きな勝利であったのです。イエス・キリストの死は、私たちの罪が贖われるための代価であり、私たちはこれによって救いを受けたのです。
 さらに、イエスさまは3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めるなら、もはや罪に定められることはありません。私たちは永遠のいのちを持つようになったのです。
 コリント人への手紙第一1555節には「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と書かれています。主は死に打ち勝たれました。イエスさまを信じるなら、もはや死を恐れることはありません。十字架という代価を払って主は私たちをご自身の元へ買い戻してくださいました。イエスさまこそ唯一の救いです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月14日号(第1050号)より転載—

2019年7月3日水曜日

 

 イエスさまは、公生涯においてさまざまな奇跡を行われました。その中で、5000人の給食として有名な奇跡が各福音書に記されています。ヨハネの福音書6章をご覧ください。
 大勢の人の群れがご自分の方に来るのを見て、イエスさまはまず弟子のピリポを試して言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5節)。頭の良いピリポは、概算して言います。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリ(労働者の200日分の給与)では足りません」(7節)。これは、ピリポにとって思い付く最高の金額でした。しかし、それでも足りないと分かっています。計算不能。これがピリポの答えでした。
 次いでアンデレがイエスさまの所にやってきて言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9節)。彼もまた足りないことを承知の上で、パンと魚を差し出してイエスさまを待ちました。
 そこでイエスさまは、群衆をすわらせ、パンを取り感謝をささげてそれを分け、魚も同じように欲しいだけ人々に分けられました。その上で、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。アンデレが「それが何になりましょう」と語った五つのパンと二匹の魚から、万という数の人々が食べ、また養われました。これは、奇跡です。
 こういう訳で、私たちもまた、神さまに信頼して信仰を働かせていきましょう。たとえ、あなたの持っているものがわずかなものであっても、またあなたに力や能力が無くても、持てる全てのものをキリストにささげ、より頼むなら、必ずイエスさまは全能の御腕(みうで)をもってあなたを受け取り、栄光を現してくださいます。信仰のあるところに奇跡があります。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月7日号(第1049号)より転載—