2013年8月31日土曜日


豊かさの貧困
神はモーセを立て、荒野で40年間民を養いました。民は、天から降ってくる「マ
ナ」というパンを食べ、日々を過ごしました。
 モーセが死に、ヨシュアの時代となると、民は荒野から約束のカナンの地に入
りました。
 「マナ」を食べ、日ごとの必要を日々求めた荒野での生活とは一変して、カナ
ンでの生活は豊かになりました。しかし、それが致命傷になったので す。カナ
ンの「全土」を占領するのが神さまの使命でしたが、今のままでいい満足してい
る、それ以上求めない、それが民の大半の思うところだったの です。
 今は天にいますが、私の父は、キリスト教の信仰に激しい迫害を加えました。
それが厳しければ厳しいほど、私はますます信仰を固くし、信仰にこ れっぽっ
ちも迷いはありませんでした。
 しかし、私は思います。もし私が何でも許され禁止されなかったら、わたしは
果たして、この信仰・真理に到達できたでしょうか。そう考えると、迫 害・試
練がいかに恵みであるかが知れます。迫害・試練があるからこそ、主イエスを追
求し、土中深くに信仰の根っこを張ることができたのです。
 マタイの福音書5章でイエスさまは、「心の貧しい者は幸いです」(3節)と
語られました。心豊かであることは決して悪いことではありません。し かし、
その人生には、イエスさまが入るだけの隙間もないのです。反対に、心の貧しい
者は神さまのものを豊かに受ける土台ができているのです。それ ゆえ、イエス
さまは幸いだと言われたのです。
 豊かになると見えないものがあります。失ってしまうものがあります。民はつ
いにカナンの地全てを占領することがありませんでした。この事実に聞 きま
しょう。   (イスラエル北野)

  み声新聞2013年9月1日号(第743号)より転載—

2013年8月22日木曜日


罪の赦し
 マタイの福音書18章のことです。ペテロがイエスのみもとに来て、「主よ。兄
弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度 までで
しょうか」と聞きました。7度とは相当の忍耐を表す数でしたが、イエスさまは
こう言われました。「七度まで、などとはわたしは言いません。 七度を七十倍
するまでと言います」(22節)
 これは、490回までは赦しなさい、と言っているのではなく、何度でも赦し
なさい、と言っているのです。
 イエスさまには罪を赦す権威が与えられています。そして、赦された者は永遠
のいのちが与えられます。罪を赦す、それは人間にできるものではあり ませ
ん。しかし、イエスさまは神の御子であり、それがお出来になるのです。どんな
に重い罪であっても、悔い改めるなら、その度ごとに何度でも赦し てくださ
る、それが神さまの約束です。
 50年近く生きていると、人は誰でもひとつやふたつ、赦されにくいと思える程
の過ちや罪を持ってしまうものです。私とて例外ではありません。も し十字架
の贖いがなければ、とても神さまの前に立つことができない、そんな黒点が心に
あります。しかし、神さまはそれを赦してくださるのです。御 子イエスを信じ
る私を、神さまはあたかも罪がないかのように愛してくださいます。何という恵
みでしょうか。
 そして、そればかりではなく神さまは全てのことを祝福に変えてくださいま
す。ローマ人の手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神の ご計画
に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださ
る」と書かれています。罪は転じて益となる、そこまで神さまの 愛はあなたの
上に大きいのです。
  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年8月25日号(第742号)より転載—

2013年8月16日金曜日


ぬかよろこび
 先日、引っ越しの準備をしていた処、50万円の通帳を見つけました。わが家に
もこんなものがあったのかと、訝しく思いましたが、引っ越しに当て るお金が
必要でしたので、喜びました。
 ところが2日後、もう一度貯金通帳を開けたところ、何とこのお金を担保にし
て借り入れがなされており、実質的にはそれは0円であると分かりまし た。私
の喜びは、一瞬にしてぬかよろこびに変わりました。
 これを許されたのは神さまです。神さまは私の心を探られました。私が一体何
を頼りにして生きているのかを問われたのです。私は現実の目に見える お金が
あった時はハッピーでしたが、それが夢と消えてしまえば、再びもとの不幸に逆
戻りしました。これがありのままの、肉なる性質というもので す。不信仰で、
神の言葉に信頼するより、状況に左右されるのです。
 話は変わりますが、ルカの福音書14章には、「あなたがたはだれでも、自分の
財産全部を捨てないでは、私の弟子になることができません」(33 節)と書か
れています。キリストの弟子になろうとするなら財産全部を捨てる時がやってき
ます。神さまが土台となられるためです。
 しかし、その道は人間的には何の当てもない道です。私たちはただ神の言葉を
頼りとして歩んでゆきました。請求書が山になったこともありますが、 本当に
必要な時には、必ず助けられました。人生において確かなものはお金ではなく、
約束の言葉であると知るまで、この訓練は許されます。そして、 神の言葉は文
字通り成就すること、見えるところによらず、見えない言葉こそ真に信頼に足る
ものであると学んでいくのです。神さまを信頼して歩みま しょう。   (イス
ラエル北野)

 み声新聞2013年8月18日号(第741号)より転載—

2013年8月7日水曜日


栄光の現れ
 引っ越しを終え、新しい家に住みましたが、ちょっとした問題がありました。
床に敷き詰められているカーペットが古いせいか、私の足に、歩くたび に繊維
が刺さって痛い思いをしています。小さなささくれですが、痛みは一人前で、思
わず聖書のあの箇所を思い出しました。
 コリント人への手紙第一12章です。「あなたがたはキリストのからだであっ
て、ひとりひとりは各器官なのです。(中略)もし一つの部分が苦しめ ば、す
べての部分がともに苦しみ、もし、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がと
もに喜ぶのです」とあります。
 私の足の傷は、小さな一器官ですが、私全体に及ぶほど痛いのです。これはあ
る真理を突いています。一部が傷めば全体が痛いのです。それは個人に おいて
だけでなく、社会や教会の中での私たちにも同様です。自分は全体の中で、どこ
に属するかということ知っていることは一致と調和、さらに祝福 において重要
です。
 先日、白馬キャンプにてゴスペルグループコンテストが行われました。そのヤ
ング部門で優勝したEちゃんは自閉症でした。特に多動症の症状が強 かったそ
うで、幼少のころは、少しも目をはなすことができなかったそうです。しかし、
神はその彼女の上に、ゴスペルシンガーとして非凡な突出した 才を注がれまし
た。並行して病も癒やされ、今や、彼女は私たちの驚嘆の的、神の栄光の現れと
なっています。
 教会はキリストのみ体です。教会に属する時、キリストの恵み、キリストの祝
福が注がれていきます。
 私たちはみな、互いに各器官です。必要とされてない人は一人もいません。あ
なたもまた、なくてはならない人なので す。  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年8月11日号(第740号)より転載—