2012年1月29日日曜日

多く愛する人、少し愛する人

ルカの福音書7章に、1人の罪深い女の話が取り上げられています。彼女は、イエスさまがパリサイ人の家にいると知って、香油の入った石こうのつぼを持ってやって来ました。そして、泣きながら、御足のそばに立ち、涙で御足を濡らし始め、髪の毛で拭い、御足に口づけして、香油を塗りました。
それを見ていたパリサイ人は、心ひそかにさげすんで、こう思いました。「イエスが預言者ならこの女がどんな女であるか知っておられるはずだ」
もちろん、イエスさまはご存じでした。それで、シモンという弟子に向けてこういう話をしました。「金貸しに、500デナリ、50デナリの借りのある者がいたが、返せなくなったので金貸しは赦してやった。2人のうちどちらが余計に金貸しを愛するようになると思うか」
シモンは「余計に赦してもらったほうだと思います」と答えました。イエスさまは、「あなたの判断は当たっています」と語られました。
そして、こう言われたのです。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは、彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」。イエスさまは、女に「あなたの罪は赦されています」と語ってくださいました。全て、多く赦される者は、より多く神を愛するようになります。多く赦される者とは、より多く自分の罪を知っている人です。だからすべての人は、神のみ前では「多く赦された者」であることを知るべきなのです。
イエス・キリストは、私たちを赦すために来られたお方です。自分の罪をより知るなら、より神を愛する者となるのです。より多く神を愛し、より多く神の恵みを受けていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月5日号(第661号)より転載—

2012年1月21日土曜日

エバの娘

私たちが原罪を持ち、生まれながらの罪人であることは、あらゆる面で明らかです。
人類最初のレディーであるエバは、エデンの園において、かねてから夫に言われていた禁断の木の実に手を伸ばし、自らそれを食べ、夫にもそれを取り、食べさせてしまいました。ここに、罪が生じ、人類に「死」が入りました。彼らの背きによる代償は、子孫である私たちに重くのしかかっています。
私事で恐縮ですが、ある時、私は、ある人へは電話してはならない、と言い渡されていました。駄目だ、と言われると余計に電話をしたくなり、禁じられれば禁じられるほど、その思いは強くなりました。禁を破ろうとする誘惑は甘い蜜のようで、あらがうことができなくなるのです。
心理学の見地からも、人間は、やりたいと思うことは必ずやってしまう性分だといわれています。止められれば止められるほど、頑なになり、私たちの肉なる性質は、神さまに反抗してしまうのです。
使徒パウロもまた体験者であり、この事を嘆きました。ローマ人の手紙にはこう書いています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(7章15節)
ありのままの私たちは罪の奴隷で、神さまに背いてしまいます。しかし、イエス・キリストの救いが今やこれに打ち勝つものとして現されました。イエス・キリストを信じることは、あらがうことのできない罪から私たちを救い出してくれます。内住される聖霊さまに従うことによって、私たちは罪に勝利します。イエス・キリストを信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年1月29日号(第660号)より転載—