2015年3月28日土曜日

信仰が直したのです
 聖書には、イエス・キリストによる病のいやしの記述がたくさん出てきます。興味深いのは、いやしが与えられる時、多くの場合にイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語られたことです。
 信仰といやしは密接な関係にあります。信仰はいやしの土台となるものです。マルコの福音書5章に、12年の間長血をわずらっている女のいやしが書かれています。彼女は、多くの医者からひどいめに会わされてお金も底をつき、しかも、病状は悪くなる一方でした。彼女に残された道は、イエスさまに頼る以外にありませんでした。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」―彼女はそう信じ、群衆に紛れて後ろからイエスさまにさわりました。するとたちまち血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。イエスさまもそれを知り、状況を聞くと彼女に言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(34節)
 これらの事は皆、私たちのために書かれています。長血の女に働いたその同じ信仰は今日も生きています。それがからし種ほどの小さな信仰であっても、神は力を現してくださいます。ですから、問題を前にしてのっけからあきらめてしまうことが一番良くないことです。神さまは必ず問題の背後にご栄光を現す良きご計画をお持ちだからです。しかし、信仰なんて面倒だ、という人々も少なからずいます。これは大きな損失です。イエスさまにはおできにならないことは一つも無いからです。
 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。主に信頼する者は、決して失望させられることがありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年3月29日号(第825号)より転載—

2015年3月21日土曜日

心を尽くして
 今どき、問題の無い人などいないのではないかと思います。わが家もまた例外
ではなく、先日、娘がやっとなじんできた職場で仕事を減らされ、娘以 上に私
が落ち込んでしまいました。どんどん否定的な思いになり、あたかも神さまがい
ないかのように、世を恐れ、世に縛られました。「全ての事を感 謝する」とい
う教えを知らなければ多分、心労でつぶれていたと思います。
 しかし、神さまは、このような困難の中にいる私に、ソロモンの箴言を示して
くださいました。そこにはこう書かれていました。「心を尽くして主に 拠り頼
め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そう
すれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(3章5節)
 私たちは、何とか自分の力で問題に当たろうとします。しかし、問題というの
は手には負えないから問題なのです。自分の悟りなんて何の解決にもな りませ
ん。では、どうすればよいのでしょうか。心を尽くして主に頼るのです。祈りで
す。神さまの前に心を注ぎ出すのです。神が助けてくださらない と、どうして
知るでしょうか。
 神さまはすべてをご存じです。たとい罪の中にあっても、行く道に迷っていて
も、あらゆる所において神さまを認めるなら、主はそこから私たちの道 をまっ
すぐにしてくださいます。これが、愛にして義なる方、神さまというお方なのです。
 そうこうするうちに昨日、急に娘の仕事が増えることになりました。神さまの
逆転勝利が動き始めました。それまでの恐れに代えて、今は平安と安ら ぎを
頂いています。神こそ我が盾、また力。主に拠り頼むことができるなんて、何
という喜びでしょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月22日号(第824号)より転載—

2015年3月14日土曜日


 神はあなたを愛しておられます。神の愛はアガペーの愛と呼ばれ、最高の愛を
指します。その愛は私たちにイエス・キリストをくださった愛です。
 イエスさまは、神のひとりごですが、私たちのすべての罪を赦しあがない、永
遠の命を与えるために、定められた時にこの世に来られ、十字架で死 に、よみ
がえりを果たされました。この十字架のうちに神の愛は完全な形で現されまし
た。ですから、聖書はこう言います。「私たちすべてのために、 ご自分の御子
をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのもの
を、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
 私の母ですが、先日神さまに大いに憐れんでいただきました。ぼうこうに影が
あると医師に告げられ、がんが疑われました。母はアレルギー体質で薬 を使う
ことができません。点滴の生理食塩水でも反応するので、病気といえば神に癒や
していただくしかないのです。ひたすら主を求めいやしを求め、 多くの方に
祈っていただいた結果、ぼうこうの影は消えました。
 神はあらゆる問題において助けを備え、愛を現してくださいます。私たちは決
して見捨てられることがありません。ローマ人への手紙にはこう書かれ ています。
 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。(中略)死も、いのち
も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者 も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにあ
る神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 神はあなたを愛しておられます。この愛にすべてを委ね、憩いましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月15日号(第823号)より転載—

2015年3月7日土曜日

十字架
もう20年以上昔のことですが、私たちの教会に原寸大の十字架を負って世界をま
わっている兄弟がやってきました。ちょうど、夫婦で熊本教会に遣わ される直
前であったので、彼の許しを得て、私も十字架を担わせていただきました。
 案の定、ずしりと来ました。やはり重いです。しかし、十字架の下の部分には
タイヤが付けられていて、それが回るにつれ、何とか前に進むことがで きまし
た。まっすぐに進むなら、この十字架は、担えないものではありません。ところ
が、向きを変えてみようとすると、取り回しが大きくて回転する ことができま
せんでした。十字架の正しい担い方は、ただひたすらまっすぐに前進することに
あるのだと知りました。
 マルコの福音書でイエスは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せてこう言わ
れました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の
十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8章34節)
 これは十字架を担いなさい、という勧めですが、弟子たちだけでなく、全ての
人に向かって語られている言葉です。私たちにはそれぞれ負うべき自分 の十字
架があるのです。
 しかし、重さや苦しさの故に、担い始めた十字架を下ろすということもまたあ
ります。ある牧師が証ししていましたが彼は、訓練に耐えかね十字架か ら下り
たそうです。しかし、奥さんは祈り続け、ついに祈り切りました。教会が新しく
なった時、彼は自分が訓練を受け損ねたことに気づきました。
 十字架を下ろしてはなりません。それには報いがあるからです。後の日に、私
たちは十字架を担うことの栄光を見ます。十字架を愛しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月8日号(第822号)より転載—