2017年4月23日日曜日

イエスは医者です

 マルコの福音書2章で、イエスさまはこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節)。これは、どういう意味でしょうか。
 これは、イエスさまが、アルパヨの子レビの家で食卓に着かれたときに語られたことばです。イエスさまの食卓にはパリサイ人や律法学者、彼らエリートのほかに、罪人や取税人も身を寄せていました。それをとがめたところ、イエスさまは前述のように語られたのです。
 顧みると、私にも医者が必要な年月がありました。病人というものは、社会のしわ寄せをもろに受ける、弱い立場にあります。一体、弱い私では受け入れてもらえないのでしょうか。病気になったのは、私のせいでしょうか。病苦もさることながら、闘病中の心の苦しみはそれ以上でした。さげすむ目、好奇の目にさらされることもしばしばで、医者であっても心無い言葉を語ることがあり、救いがありませんでした。
 箴言1814節には「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」という一節があります。誰にも理解されないこのひしがれた心の苦しみを、イエスさまは知ってくださっています。
 またイエスさまは、マタイの福音書1220節でご自身のことを「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と語られました。
 世では、病人や弱い者を見下すことが往々にしてあります。しかし、イエスさまは、あなたと同じ目線であなたに語り、ありのままのあなたを愛してくださり、また、あなたを守り、あなたの力となってくださいます。イエスさまは本当のお医者さまです。あなたの救い主です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月23日号(第933号)より転載—

2017年4月17日月曜日

信 仰
 私は信仰に入って34年になります。しかし、信仰に関してはまだまだ幼子です。
 信仰を用いましょうという場面に出くわすと、信仰はどうやったら持てるのだろうと、まず苦手意識が頭をもたげてきます。感謝したり、飛び上がってみたり、まるでオリーブの実を搾油するように、全身から搾り出すような、そんなお粗末なあんばいです。
 これに関しては、サタンが関与していると私は思います。神さまに頼まなくても普通に進んで行けるのならそれで良いじゃないですか。そのような思いが入ってくるのです。一見もっともと思える世の言葉ですが、私たちを信仰から、また生ける神から遠ざけていきます。
 多くの人が信仰は難しいものだと思っています。けれども、実は非常に簡単なものなのです。幼子でもできます。ポイントは「行い」にあります。ヤコブ書には、「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです」(2章17節)と書いてあります。信仰は行いから入ると生きたものになります。信仰と行動には密接な関わりがあるのです。
 以前、教会にMさんという人がいました。Mさんは電話を持っていませんでした。仕事上不便なので、これが与えられるようMさんは祈り始めました。そして信仰を使いました。不要になった電話機をもらって、コンセントを入れ、「Mです。はいそうです」と語り掛けたのです。もちろん回線はつながっていません。にもかかわらず、つながっているかのよう振る舞ったのです。この信仰は実を結び、速やかに回線をつなげる必要が満たされました。
 現代においても信仰は生きて働きます。信仰の踏み出しは、神のご栄光の現れとなります。私たちは信じて祈り、信仰を持って進みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月16日号(第932号)より転載—

2017年4月12日水曜日

リバイバルソング
 顧みると、私の人生を変える素晴らしい場面にはいつも賛美がありました。賛美には特別な力があり
ます。
 18歳の時、私は、M教会の祈祷(きとう)室で救いを受けました。事の始まりは、牧師さんが、今ここ
に、聖霊さまが満ちているので、祈ると神さまのご自由なみわざが現れますよ、と祈りを勧めてくださったこ
とによります。初めて聞く話にちゅうちょしましたが、何が起こるか知りたいという気持ちが勝って、祈ってい
ただくことにしました。
 祈りの中では「平安」という言葉が繰り返し語られました。すると、からだが右へ右へと押されるのです。
ついに畳の上に身を投げ出してしまいました。恥ずかしくて、今もう身を起こそうとしたところ、不意に賛
美の歌に打たれました。昔、日曜学校で習った「いつくしみ深き」です。「などかはおろさぬ負える重荷を
」の一節が私の霊に触れ、私は主の元に帰りました。
 こうして、賛美のうちに私は救いにあずかりました。ちょうどその頃、アメリカでヒットした『リバイバルソング
』が、海を越えて日本でも歌われるようになっていました。特に「シング・ハレルヤ・トゥ・ザ・ロード」という
歌は、単純でありながらも、きよさに満ち、歌うと鳥肌が立つほど深いご臨在がありました。こうして賛美
の中で、私の霊性は豊かに育まれていきました。
 あれから30年。今では、私たちの教会にも多くのオリジナルゴスペルが与えられ、多くの恵みとともに、
主はさらに近いお方になりました。
 詩篇22篇3節には、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と
書かれています。賛美の中に主はおられます。私たちは賛美を通して主と交わることができます。リバイ
バルの歌を歌いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月9日号(第931号)より転載—

2017年4月2日日曜日

試練と忍耐
 ヤコブの手紙1章には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)とも、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(12節)とも書かれています。
 試練は、できれば避けたいものです。しかし、耐え抜くことを通していのちの冠を受ける、というのです。確かに私たちの霊的成長は試練を通して全うされます。しかし、ここには落とし穴もありました。
 というのは、20年ほど前の事になりますが、ある男性が興味深いことを証ししておられたのです。それは、試練のことです。その人は家族を巻き込んだ大きな試練に入りました。困難の中で妻や子どもは必死になって解決を祈っていましたが、その人は冷めた傍観者的な態度を取り、心ひそかにこの問題から退いていたといいます。
 やがて、時が満ち、試練が喜びに変わる日がやってきました。神さまによる問題解決が現され、試練を最後まで受け切った妻子は、神さまとそのみことばの真実さを体験し、確信を持って次の段階へ進みました。しかし、試練から逃げた自分は、その信仰の確信にはあずかれなかった、というのです。受けるべき訓練を受けそびれたのです
 もし皆さんが今試練にあるなら、真正面からそれに向かい合い、主が良しと認めるところまで耐え抜いてください。試練は信仰の確信を与えてくれます。その確信は偉大なものであり、いのちの冠さえも与えられるものなのです。
 さまざまな試練が許されるのは、神さまや信仰に対しての確信を受けるためです。試練を通して現される、神さまの祝福の計画があります。誘惑に立ち向かい、忍耐を働かせ、召しを全うしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月2日号(第930号)より転載—