2017年3月29日水曜日

愚かな娘と賢い娘
 聖書は往々にして、奥義をたとえで語る傾向があります。聞く耳のある者だけが聞きなさいということなのでしょうか、マタイの福音書25章の例話もその一つで、再臨(イエス・キリストが王として再び地上に来られること)に対する備えを語っています。
 天の御国は、それぞれがともしびを持って花婿を迎える10人の娘のようだと言います。10人のうち、5人は愚かで5人は賢い娘でした。愚かな娘はともしびは持っていましたが、油を用意していませんでした。他方、賢い娘はともしびとともに入れ物に油を入れて持っていました。
 花婿はキリストのことであり、花嫁はみからだなる教会を指しています。花婿が来るのが遅れたので、皆うとうととしていたところ、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。娘たちは、皆起きて、自分のともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちのともしびは今にも消えそうでした。そこで、「油を少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです」と賢い娘たちに言ったところ、「いいえ。あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。店に行って、自分のをお買いなさい」と言われました。
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。愚かな娘は、ご主人さま、開けてくださいと願いましたが、心を変えてもらう余地はありませんでした。
 イエス・キリストは、この終わりの時代に再臨されます。まだ来ないからといって世にふけり、あるいは眠っているなら、その日は盗人のようにやってきます。私たちは、信仰のともしびとともに、聖霊に満たされていることが必要です。目を覚まし、忍耐を働かせて再臨に備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月26日号(第929号)より転載—

2017年3月20日月曜日

心の貧しい者は幸いです
 マタイの福音書5章には、「山上の垂訓」と呼ばれるイエスさまの説教が記されています。その中の一つに「心の貧しい者は幸いです。天の御国
はその人たちのものだから」(3節)という一節があります。
 心の貧しい者という表現は、心の豊かさに飢え渇いている者と読み替えることができます。神さまというお方は人の心を読まれ、何でもお見通し
です。そして私たちが、強さにあるより、むしろ弱さにあることを良しとされるお方です。
 なぜ心の貧しいことが心の豊かであることに勝っているのでしょうか。それは、心が豊かであると、満ち満ちていて、もうそれ以上入るべき心の隙
間がないからです。主を心の中心にお迎えしようにも、その余地がないのです。グラスの水を捨てないでは、新しい水を注ぐことはできません。こう
いう訳で、心の貧しいことは、心の豊かさに勝って、神の前に高価で尊いのです。
 また、イエスさまはご自分のことを「罪人の主」であると言われました。その通り、いち早くイエスさまの元にやって来たのは遊女や取税人です。彼
らは、社会的には罪人というレッテルを張られた者たちです。しかし、幸いなことに、彼らは自分たちは罪人であるということを自覚していました。彼
らは心の貧しい者でした。ですからイエスさまがどのようなお方か、誰よりも早く知るに至ったのです。
 イエスさまもまた、天の御国はあなた方のものだ、と語ってくださいました。私たちは皆、罪人です。罪過の中に死んでいる私たちを贖(あがな)う
ためにキリストイエスは世に来られました。さばくためでなく、赦すためにイエスさまは来られました。私たちが弱さを自覚する時、また罪人であること
を自覚する時、イエスさまの愛と赦しが私たちを包みます。このお方に帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月19日号(第928号)より転載—

2017年3月13日月曜日

富める若人
イエスさまの宣教途中、1人の青年がイエスの前に走り寄り、御前(みまえ)にひざまずいて尋ねました。
 「永遠のいのちを頂くにはどうすればよいのですか」。イエスさまは守るべき教えとして律法を挙げましたが、青年は「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。それを聞くとイエスさまは、彼を見つめ、いつくしんでこう言われました。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい」
 するとその青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。「なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」と聖書(マルコの福音書10章)は記しています。
 人は、神さまに従う、といっても、ここまでは従いますが、これ以上は従いません、という弱さを持ちやすいものです。
 青年も、落ち度なく律法を守ってはいました。けれども、全財産を捨てるとなると、話は別でした。富を投げ打ち、身一つでキリストに従っていく道を選択することは、彼にはできないことでした。
 彼は律法を完全に守り行うことはできませんでした。そう、できないのです。お弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言いました。
 イエスさまは「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。
 全財産を捨ててまでして主に従うことは、人にはできないことです。しかし、神さまにより頼むなら神は従わせてくださいます。そして、全てをささげきった人生に、神さまは大いに報いてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月12日号(第927号)より転載—

2017年3月5日日曜日

信仰を学びましょう
 夜中の3時ごろのことです。イエスさまはガリラヤ湖の上を歩いて、先に舟で出発した弟子たちの元に行かれました。弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
 イエスさまは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。すると、ペテロは答えてこう言いました「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
 イエスさまのことばは必ずその通りになることをペテロは知っていました。イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまの方へ行きました。ペテロはガリラヤ湖上を歩きました。奇跡が起こったのです。
 ところが状況は一転します。ペテロは波を見て怖くなり、沈みかけました。「主よ。助けてください」と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばしてつかんでくださり、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」とおっしゃいました。
 これらは皆、マタイの福音書14章からの引用です。この箇所から私たちは、信仰について学ぶことができます。イエスさまを見ている限り、ペテロは湖の上にあっても歩くことができました。イエスさまとは神のことばです。神のことばを見続けるなら、その通りになります。しかし、みことばから目を離してしまうなら、ペテロが溺れたように、私たちも現実に溺れ、何の奇跡も見ないでしょう。
 イエスさまは、「なぜ疑うのか」と言われました。信仰はあるかないかどちらかです。大切なのはこの一言です。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月5日号(第926号)より転載—