2019年4月24日水曜日

口にする言葉

 舌、つまりは私たちが口にする言葉は、コントロールするに困難なものです。箴言に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(1821節)とあります。語る言葉は命にもなるし、死にもなります。どちらを選ぶのかは人に任されています。悪い言葉は悪い事をもたらし、良い言葉は良い実を結ばせます。
 言った言葉を取り返せないのが失言です。つい先日、某復興大臣が辞任しました。党員の応援演説の席で、口が滑って被災者の方々より選挙の方が大切であるかのように語ってしまいました。言ってしまったら最後、もう取り返しは利きません。結局大臣は辞任しました。
 私も先日、娘を泣かせてしまいました。娘が嫌がることを嫌がるタイミングで、つい口にしてしまったのです。気を付けてはいたのですが油断して無意識のうちに失言しました。娘の涙を見てはっと気付きましたが後の祭りです。大概にして傷つける方は何ともないです。しかし傷つけられた方は、心の痛みに懸命に耐えているのです。
 人の舌は心にある隠された本音を語ってしまうものです。語ってしまったら最後、慌てて取り繕うとしてもぼろが出るばかりです。しかし、神に感謝です。悔い改め、主にすがるなら、主は私たちの全ての罪を赦し、そして全てを益に変えてくださいます。
 私たちが祝福の言葉を語るなら、相手も私たちも祝福されます。しかし、否定的な言葉を語るのなら、失うばかりで、何も良いものを得ることはありません。それ故、語るなら、自分も周りの人たちも祝福され、豊かになる言葉を語りましょう。
 イエスさまを信じて救いを得、神さまに求めましょう。神さまが私たちに下さるのは、愛といのちのことばです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月28日号(第1039号)より転載—

2019年4月17日水曜日

あなたを知っている方

 「自分のことを一番よく知っているのは自分だ」。よくこんなことを言う人がいます。本当にそうでしょうか。私はむしろ人の一生は、自分を知るための旅であるように思います。
 伝道者の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という一文があります。神は創造者です。神が私たちを造りました。ですから、自分が何者であるかということは、神に聞くのが一番です。しかも若い時にと、ここには書かれています。
 具体的に話しましょう。バスケットボールと時計があります。バスケットボールは飛び跳ねる物として神は造られました。バンバン床に弾むことがバスケットボールの栄光です。それを見ていた時計は、自分もまた床にバンバン打ち付けられることが栄光の現れだと思ってしまいました。そこで、床に身を打ち付けると、時計は精密機械だから、ひどく壊れてしまいます。
 人との比較によって自分を知ろうとすると、こうなります。時計の栄光は、正確に時を刻むことにあります。バスケットボールにならって床に打ち付けようものなら、それは時計としての自殺行為です。
 父なる神さまは、私たちを愛された故に、ご計画をもって私たちを造ってくださいました。私が何者であるのか、その答えは創造主である神さまのうちにあります。
 私たちの人生の完成は、神抜きにしてはあり得ません。私たちは皆、意味や使命をもって神によって造られたのです。神に立ち返り、神に聞くなら、神さまはあなたのために立ててくださった計画を教えてくださいます。エレミヤ書33章3節にはこう書かれています。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月21日号(第1038号)より転載—

2019年4月10日水曜日

いやし
 宗教といやしは密接な関わりがあります。小さい頃、月詣で山岳信仰の寺院によく連れていかれました。一角に祠(ほこら)があり、たくさんのギプスやつえが奉献されていました。おそらく、いやされた人の物でしょう。興味深いことに、宗教はどの宗教も病のいやしをうたっています。
 キリスト教においても病のいやしはあります。むしろキリスト教の方が本家です。イエスさまが世に来られ宣教をされた時、多くの病人や悪霊につかれた人がいやされ、解放を受けました。救いの道筋を作るにあたって、いやしの働きは大いにそれを助けました。
 キリスト教のいやしの根拠は、イザヤ書53章のことばにあります。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)このことばが、今なお生きて人をいやすのです。彼というのはイエスさまです。イエスさまは約2000年前にこの世に来られ、神の国の到来を告げ知らせ、多くの人をいやし、死人をよみがえらせました。最期には十字架によって私たちの全ての罪を担い、死んでくださいました。そして、3日目に死者の中からよみがえりを果たされたのです。このイエスさまの、み苦しみを引き換えに、私たちはいやしを受け、また永遠のいのちを受けるのです。
 先日、急に妹がぎっくり腰になりました。仕事があるので休めず、牧師である母に祈ってもらうと、患部が熱くなり痛みが消えたと言います。神さまは今もいやしてくださいます。詩篇103篇3節にも「(主は)あなたのすべての病をいやし」と書かれています。私たちが健やかでいることは神さまのみこころです。
 こういう訳で、イエスさまを信じましょう。そして求めましょう。イエスさまは病をいやし、永遠のいのちを与えてくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月14日号(第1037号)より転載—

2019年4月3日水曜日

「死」と「無」

 死んだらどうなるのだろう、誰もが問いたい疑問です。天国に行く、地獄に行く、「無」になる、いろんな人がいろんな考えを持っています。特に「無」になるという説は、今風で魅力的です。俳優のMさんは、自分の墓石に「無」と刻みました。死んでしまったら、自分は「無」になるのだと信じてのことでした。
 私もまた、死ねば「無」になると思っていた時期がありました。
 10代の頃、自分を否定する思いが高じて、何度か死のうとしました。確かに死ぬと肉体はちりに帰ります。しかし、ものを考え判断するこの私自身は神が造られたものであり、そういう意味では人間は霊的な存在です。死んだとしても、「無」になることはありません。私が自殺をやめた最大の理由は、そこにあります。死んでもその「死」は、地上の命が終わったことを意味するだけで、「無」になるわけではない、と知ったからです。
 「死」や「無」はよく同列に論じられます。しかし「死」は決して終わりではありませんし、あなたという存在は、「無」にはなりません。私たちは神の前に神に対して生きているのです。コリント人への手紙第一15章に「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」(5455節)と書かれています。死のとげはクリスチャンには効き目がありません。それどころかイエス・キリストを信じる者は皆、復活するのです。
 イエス・キリストを信じるなら、パラダイス(天国)です。「無」でもなく、「死」でもありません。私たちは永遠に神とともに生きるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月7日号(第1036号)より転載—