2016年2月22日月曜日

左の頬も向けなさい
 タゴールは、その詩の中で、「人々は残酷だ。人は優しい」という一文を残しました。一人一人は良い人であったとしても、世や会社組織などになると人は違う顔を見せます。人よりも上へ行こうとする戦いが生じるからです。たとえ本人がこの戦いから一歩置きたいと思っていても、その組織にいる以上、この戦いとは無関係ではいられません。
 私もまた、この戦いに勝利するよう育てられました。世間の目を意識し、笑いものになるな、もっと強くあれ、なめられたらあかん、等々で人生の勝ち組になることを強く求められました。しかし、私は途中、挫折を体験しました。期待に応えられなかったという思いには、長く苦しみました。
 しかし、そんな中で「勝つ」ことがそんなに大事か、反対に疑問を抱くようになりました。私は世間に何を見て、一体何に勝とうとしているのでしょう。また、世の競争に勝利したとしても、それは本当に人生の勝利者なのでしょうか。
 有名な、イエスさまの教えに「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)というものがあります。皆さんは頬を打たれたらどうしますか。やり返そうとはしませんか。しかし、イエスさまは逆で、もう片方の頬も差し出しなさいとおっしゃったのです。戦うことなく、抵抗することなく、むしろそうさせてやりなさい、それがイエスさまの教えです。
 人生の勝利は神にあります。そして、それはへりくだった心に宿ります。人間、何が怖いかといえば高慢です。上へ行こうとする戦いで勝っても、紙一重で高ぶってしまうと、人は神さまを見失います。イエスさまの謙遜に学びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年2月21日号(第872号)より転載—

2016年2月14日日曜日

殉教の招き
 長崎を初めて訪れたのは20歳ごろです。知人に勧められて、妹と2人で、長崎で殉教した二十六聖人の足跡をたどる巡礼に行くことにしました。
 二十六聖人とは、日本で最初の殉教者となった、子ども3名と外国人宣教師を含む総勢26名の信仰者のことを言います。聖人という名称はカトリックの呼び名ですが、彼らは私たちと何ら変わりない信仰者たちです。ただ一方的な主のお計らいによって召し出された、日本で最初の殉教者です。
 彼らの殉教地として選ばれた、長崎の西坂の丘は、長崎湾を眺める所にあり、長崎に着いた時と、帰る日と2度、私は西坂に足を運びました。そして帰り道、バスの中から外を見ていると主が静かに語ってこられました。「彼ら同様あなたもまた、私に命をささげますか」
 結論から言うと、私はこの声に応じることができませんでした。はいともいいえとも言えませんでした。そうさせてくださいというのが精いっぱいで、そこから私の戦いは始まりました。「死に至るまで忠実でありなさい」(ヨハネの黙示録2章10節)というみことばを求め続けて、もう30年になります。
 マルコの福音書8章34節に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と書かれています。主というお方は、基本的には無理強いをなさいません。私たちが主の十字架を選ぶ時に、主もまた応答してくださり、私たちを用いてくださるのです。
 主は、二十六聖人をはじめとした日本で流された殉教者たちの血を覚えておられます。リバイバルは始まっています。穂はもう刈り入れるばかりです。これからの導きに期待しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年2月14日号(第871号)より転載—

2016年2月6日土曜日

ふたごころ
 以前、このコーナーでお話したことがありますが、私は、救われて後、自分が教会に行くための自転車を、神さまに求めたことがあります。
 具体的に祈れば良いとアドバイスされて、10項目ほど課題を挙げて祈りました。ブランド物がいい、鍵は2個、マウンテンバイクのような小型の自転車、変速ギア付きのもの、などです。
 ところが、私は二心であって、神さまに祈ったにもかかわらず、人間的な手段を取りました。自転車をくれそうな友人を捜し、もらおうとしたのです。友人のその自転車はママチャリで、祈った物とは違いますが、自転車であることに変わりありません。教会には、祈った通りではないけど自転車が来ました、と報告するつもりでした。
 ところが数日後、その友人から電話が来ました。約束した自転車が盗難にあった、というのです。それを聞いた瞬間、私は、神の御手だ、と思いました。神に寄り頼むと言いながら人の手を用いたことへの神の懲らしめでした。恐れつつ、熱心に二心を悔い改め、もう一度信仰に立ちました。すると、何と「自転車はいらないか」と言ってくださる方が現れました。しかも、その自転車は、祈りのリクエスト全てを満たす奇跡の自転車でした。神をあがめ、また恐れました。
 ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。
 今日生まれた者も長年のクリスチャンも神さまの前では同じです。神さまは、真実をもって御自身により頼み祈る者の信仰に答えてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年2月7日号(第870号)より転載—

2016年2月1日月曜日

求め続ける
 マタイの福音書7、8節で、イエスさまはこう語られました。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」
 これは、約束を伴った素晴らしいみことばです。原語では「…し続けなさい」という継続を表す意味が盛り込まれています。そしてこれは私たちへの信仰のチャレンジでもあります。
 年末年始にかけて、今年は特別なお取り扱いがありました。1月2日に郷里で10年に1度の同窓会があり、どうしても出席したく思いました。ところが、1日は、特別礼拝があり、3日からは通常の主日礼拝が始まります。行くなら、2日当日日帰りするしかありません。しかし、たった1日のために高い航空券を買う財など持ち合わせていません。これだけでも、同窓会出席は主のみこころではないかもしれない、と判断できます。けれども今回に限っては、主のみこころが明確に分かるよう、もう少し粘ってみようと思いました。
 祈っては聖書を開き、みことばに聞き、忌憚なく願いを差し出し、朝昼晩に一心に主を求め続け、たたき続けました。そして、ついに主ははっきりと「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(ヨハネの手紙第一2章15節)と語ってこられました。
 結局、同窓会出席はみこころではないことが分かりましたが、「求め続ける」ということがどんなものなのか、今回も良い学びを体験しました。
 大胆に祈り求めましょう。主は必ず祈りに応え、願いをかなえ、またそうでなくても、御自身のみこころをはっきりと教えてくださるからです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年1月31日号(第869号)より転載—