2017年12月29日金曜日

逃げたらあかん

 のどあめのCMで、歌手の天童よしみさんが「なめたらあかん。人生なめずに、これなめて」とにっこり歌っているものがあります。このCMがよっぽど頭に入っているのか、試練の日に、私は「なめたらあかん」という歌詞が、急に「逃げたらあかん」という風にに聞こえてきました。
 今は、リバイバル本戦の直前で、器の建て上げが急がれています。イエスさまはマタイの福音書16章で「だれでもわたしについて来たいなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい」(24節)と語られました。
 このことばに応答すると、主は私たちを建て上げるために、困難や試練、問題を許されます。 それがあまりにも厳しくて、逃げたくなることがあります。そんな時に響いてくるのが、「逃げたらあかん」でした。
 以前にもお分かちした実話ですが、ある牧師夫妻が試練に入りました。それがあまりにも厳しいので、ご主人はイエスさまの十字架を負って進むことを心ひそかに引いていたと言います。
 やがて試練は去り、お二人に新しい段階が始まりました。しかし、その時、牧師であるご主人は、自分は受けるべき訓練から逃げてしまったということを知りました。一方、彼の妻は祈って、祈ってすがりついて、ついに問題を祈り切りました。
 私たちが主に従うと、必ず「十字架から降りろ」という誘惑が来ます。サタンは、お前が引くなら自分も引く、と取引を持ち掛けてくることもあります。しかし、「逃げたらあかん」のです。この時こそ、信仰に立って、一歩踏み込む時なのです。
 もう間もなくすれば、本格的な、主のリバイバルの栄光を見ます。主イエスを見上げ、主が歩まれた十字架の道を、逃げずに進んで行きましょう。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年1月7日号(第970号)より転載—

2017年12月28日木曜日

祈 り

祈りは一見、地味な仕事に見える働きです。しかし、長年にわたって、私の信仰生活を支えてくれたのは、他でもない祈りでした。
 教会の一室で、イエスさまを個人的な救い主として信じ、心にお迎えした時、祈ろうと二つの手を組み合わせると、手にぐっしょりと汗をかいていました。しかしそれは不快なものでなく、指と指がしっくりきて、ああ、これで祈れる手になった、救われたんだ私はと、むしろ、うれしくなりました。
 イエスさまもまた、この世にあっては祈りの人でした。そして、どう祈るか模範を示されました。地上で最も力ある祈りは、ゲツセマネでイエスさまがささげられた祈りだと思います。全ては私たちを救うため、イエスさまはご自身の神としてのあり方を捨て、十字架で死に、私たち人類の贖(あがな)いを成し遂げられました。その使命を全うする前夜、ゲツセマネで祈りの格闘があったのです。
 マタイの福音書26章によれば、ゲツセマネでイエスさまは、お弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38節)と語りました。そして祈られました。「わが父よ。できますなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)
 この祈りが、サタンを砕く勝利となりました。なぜなら、イエスさまが自分の願うようにではなく、神のみこころを全うすることを求めたからです。この従順さによって神のみこころは成就されました。
 祈りとは何でしょう。私が得た答えは、状況のいかんに関わらず「神さまのご介入を求める行い」だと思います。どんな厳しい状況の中にあっても、祈りによって、神さまは私たちの人生のあらゆる場面で介入してくださいます。
 祈りは神の力です。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月31日号(第969号)より転載—

2017年12月21日木曜日

お金の話

 バブル期の頃のお話です。息子を都会の大学に入れた農家の老母がいました。バブルの流れに乗り、息子は株を扱い、富むようになりました。1億円のゴルフの会員権をはじめ、マンション、ロレックスなどの高価な時計、貴金属を持ちました。母さんに楽をさせてあげられるよ、と言ったところ、母は「お前の金はまっとうなものではない。金っていうものは、汗水たらしてコツコツと積み上げて得ていくものだ。そこに価値がある。いつまでもこんな事がまかり通るわけはない」と言ったといいます。
 その言葉通り、間もなくバブルははじけました。あの時代、お金のことを正しく扱えた人はどれぐらいいたのでしょうか。富の追求は、人間の根本にある欲求です。ソロモン王は、イスラエルの王として地上に並ぶものがないくらい栄華を極めました。しかしながら、幸せそうに見えないのです。そればかりか彼はその書巻、伝道者の書に、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい」(5章10節)という一文を残しました。
 また、テモテの手紙第一6章には次のように書かれています。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰の道から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(9、10節)
 お金は大切です。しかし、いつしかそれが目的となってしまうとなると、信仰から迷い出ます。こうなれば、そうやすやすとは元に戻れません。ここに厳しさがあります。
 お金ではなく、イエスさまに望みを置くこと、これが全てです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月24日号(第968号)より転載—

2017年12月14日木曜日

ホロコースト

 私たちの教会は、イスラエル宣教に重荷があります。私たちもまたその中の1人で、1991年、夫と娘計3名、家族でイスラエルに行く恵みにあずかりました。召しに関して個人的な導きを求め祈り込む旅でした。
 イスラエルでは、あちこちを回り、ポイントとなる所は押さえました。しかし、帰国する3日前、イスラエルで行き残した所はないかと祈ったところ、その日の聖書通読の箇所から明確な示しが与えられました。黙示録の4章1節の「ここに上れ」という一文と、「この後、必ず起こることをあなたに示そう」という言葉に、くぎ付けになりました。
 上れ、といってもどこに上るのでしょう。思案にくれていたところ、神は日本人の牧師を備えてくださり、それは丘であること、丘にはヤド・ヴァシェムというホロコースト記念館があると教えてくれました。私たちはみこころを感じ、ともかくそこへ行くことにしました。もう一つのみことば、この後起こること、ってなんだろうと考えながら。
 丘を登ると、記念館がありました。ホロコーストの内容を年代ごとに区分けして写真や資料を展示しています。その第1のコーナーに踏み込むやいなや、私は凍りついてしまいました。ヒトラーの肖像が私を迎えたからです。この後必ず起こること、それはヒトラーの再来であるというのでしょうか。それが私の生きている間に来るというのでしょうか。
 実際のところ、生きているうちにリバイバルが起きることは信じていました。しかし、迫害となるとあまり考えないようにしてきました。まだまだ先であると。しかし、神はそれに目を向けるよう私を導かれました。それから四半世紀が過ぎ、確かに今、示しの成就が近づいています。迫害の時代に備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月17日号(第967号)より転載—

2017年12月7日木曜日

受けたと信じて

 聖書のことばは生きていて、しばしば私たちの信仰に訴え、チャレンジしてきます。マルコの福音書1122節~24節もその中の一つで、次のように書かれています。
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
 このみことばは、聖書の中でもよく引用される一文で、「すでに受けたと信じなさい。そうすれば,そのとおりになります」というのがポイントです。神さまのみこころにかなう祈りであったとしても、すでに受けたと信じる歩みをどう表現したらよいかが思案のしどころでした。その中で私は、受けたと信じて躍り上がって感謝の言葉を語るようにしました。「受けました。ありがとうございました」と躍り上がって告白するのです。結果は、失望に終わったことなど一つもありませんでした。
 教会では患難や困難に出会う時、それをありのまま感謝することを勧めています。聖書にも「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)と書かれており、感謝する事はあらゆることにおいて有効です。感謝は神の御手を動かし、感謝は信仰を引き上げるのです。これが信仰を使うということです。
 受けたと信じ踊るダンスは楽しいものです。私はピョンピョン跳び上がるばかりなので、すぐ息が切れていました。しかし、近頃は新しい振り付けで躍ります。心の底から喜びがふつふつと涌き起こります。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年12月10日号(第966号)より転載—

2017年12月1日金曜日

 

 「千里の馬は常に有れども伯楽(はくらく)は常に有らず」ということわざをご存じでしょうか。韓愈(かんゆ)が記した「雑説」の中に出てくるエピソードから出た故事成語で、いつの時代にも有能な人はいるものだけれど、その才能を見抜き発揮させてくれる人と出会えることはめったにない、というのがその意味です。
 千里の馬とは、千里を走る名馬のことです。この馬は、一見すると大食いでのろまで、とてもその風格はありません。普通の馬と何ら変わらずむしろ劣っているようにさえ思える馬です。これを見分けて、千里を走る馬だと発掘する名人が「伯楽」です。千里の名馬は穀1石を食べ尽くしてしまいます。それで、普通の馬の食べた量ではおなかがすいて力が出ないのでなおさら駄馬に見え、名馬たるきざしを見いだすことはまれです。ここから優れた資質を持った人を見抜く力ある人物を「伯楽」というようになりました。
 イエスさまは、いわば、私たちの人生の伯楽です。私たちは、「家を建てる者たちの見捨てた石」(マタイの福音書2142節ほか)であり、見どころがないと判断された駄馬でした。しかし、この駄馬を神は選ばれ、千里の馬として立て上げてくださいました。
 神を知ることは、自分を知ることにつながります。あなたがあなたを見る見方と神があなたを見ているあなたは異なります。あなたは駄馬ではありません、神があなたを用いてくださる限り駄馬であるはずはないのです。こういうわけで、わたしたちは神のみこころを知ることを熱心に求めましょう。
 神は目的を持ってあなたを造られました。働きは既に用意されています。そして、それを知るようイエスさまは助けてくださいます。イエスさまを信じ、従いましょう。その時、あなたは最善、最高の人生を歩むことでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月3日号(第965号)より転載—