2012年12月19日水曜日

神を恐れる


 申命記6章16節には「主を試みてはならない」と書かれています。私が主イエ
ス・キリストを信じ、最初に学んだことは、まさにこのことでした。 神を恐れ
るということです。
 友人に誘われて行った教会は、本当に神さまがいるようでした。アーメンとい
う信仰者の声が漏れ、私の心に触れました。神さまを信じたい。生きて 働く神
さまがいるなら、全てをささげてもそれを知りたい、そんな思いを抱きました。
 折から教会では、神は祈りに答えられると語られていましたので、私も神さま
に「教会に行くための自転車を下さい」と条件を掲げて祈り始めまし た。
 並行して私は、自転車をくれそうな友人にも声を掛けました。条件通りの自転
車ではないものの、タダで下さるという方が現れました。喜んで頂こう とした
のですが、それは私の元へ来る前日に、何と盗まれてしまいました。
 ごめんね、と友人は言ってくれたのですが、悪かったのは私です。私は主を試
みたのです。強い恐れが生じ、二心を悔い改めたところ、その直後に、 祈った
全ての条件を満たした、奇跡の自転車がやって来ました。私は驚き、生まれて初
めて神を恐れるということを学んだのです。
 若き神学生であったころ、毎週水曜日に祈祷会の奉仕が回ってきました。神奈
川から埼玉まで、交通費も出ないのですが、自腹を切って赴きました。 そんな
中で、ある神学生は、こんな事やっていられるか、とつい言ってしまったそうで
す。誰もそのことを知らないはずですが、翌週から彼に奉仕が来 なくなりまし
た。神さまは、彼の言葉を聞いておられたのです。
 神を恐れることを学びましょう。これこそ全てです。 (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年12月23日号(第707号)より転載—

2012年12月14日金曜日

クリスマス

 長い年月を経て、この方は世にやって来られました。何千年も待たれた約束の
成就のために、時満ちてこの世に来られたのです。
 この方に、使命がありました。この方は、肉によって成り、やがてはちりに
帰ってしまう私たちに救いと永遠のいのちを与えるために、神によって遣 わさ
れたのです。彼は神の御子でした。
 私たちはきらびやかな王の誕生を夢見ましましたが、その王の揺りかごは、馬
の飼い葉おけでした。貧しく、また虐げられ、その誕生や人生は、万事 につけ
へりくだっていました。全ての人を救うため、全ての面で底辺を通られたので
す。私たちのためにです。
 預言者イザヤは「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を
知っていた」(53章3節)と語りました。彼とは、イエスさまのこと です。
 ピリピ人への手紙2章には、次のように書かれています。
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考え
ず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられま し
た。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架
の死にまでも従われました」(2章6―8節)というものです。
 神は、罪を持ち死に至る私たちを救うために、神のあり方を捨て、世に来られ
たのです。すなわち、イエスさまは、私たちに永遠のいのちを与えるた めに、
私たちの身代わりとなって十字架で死に、尊い血潮を流し、贖いを成し遂げてく
ださいました。
 クリスマスの本当の祝福は、神の下さった御子イエスを信じることにありま
す。私たちの身代わりとなって死んでくださったイエスさまを、あなたの 心に
お迎えください。(イスラエル北野)

み声新聞2012年12月16日号(第706号)より転載—

2012年12月4日火曜日

山をも動かす


 信仰は山をも動かすと言いますが、本当にその通りです。
 かつての友人Mさんは、信仰によって素晴らしい神さまの栄光を見ました。実
は、Mさんの家には電話がありませんでした。連絡を取るのに不便なの で、電
話が与えられるように、神さまに祈りました。程なくして、神さまは彼にみこと
ばを下さいました。「祈って求めるものは何でも、すでに受けた と信じなさ
い。そうすれば、そのとおりになります」(マルコの福音書1124節)というみ
ことばです。
 彼はそのことばを握りました。信仰のレースの開始です。Mさんは、まず牧師
宅で不用となっている電話機をもらって、自宅に置きました。そして、 受話機
を取っては、まだつながっていない回線に向かって言うのです。「もしもし。M
です。今日はどうもうんぬん」。あたかも回線があるかのよう に語り続けて
いったのです。
 おかしな事をするものだと思われるでしょうが、信仰を用いるというのはこの
ようなものです。行いを伴うのです。彼の信仰は立派です。神さまもそ う思わ
れたのでしょう。Mさんに、電話を引くにあたっての必要な費用が速やかに与え
られました。
 また、ある人の証しですが、お母さんのアパートの前に大きな建物が建ち、太
陽の光が入らなくなりました。そのことに心痛めたその人は、繰り返し 何度
も、イエスの名によってそれが立ち去るよう祈り続けたところ、建物は撤去され
ました。
 祈りは決して一方的なものではありません。また、神さまの前に聞かれていな
い祈りもないのです。それ故、私たちもまた信仰を用いて祈りましょ う。主は
ご栄光を現してくださいます。
(イスラエル北野)


 
み声新聞2012年12月9日号(第705号)より転載—

2012年11月27日火曜日

脱出の道


 数年前に大ヒットしたあるTVドラマを見ました。がんの病にある女性と、恋
人で彼女の執刀医である男性とが、ドラマの節々でこう言います。
 「大丈夫。神は、耐えることのできないような試練は与えない」
 これは二人にとっての合言葉となりました。問題が起きるたびに、二人はこう
語って乗り越えていくのです。
 実はこれ、元々は聖書のことばです。コリント人への手紙第一1013節にその
全文があります。
 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神
は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に 会わせ
るようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練ととも
に、脱出の道も備えてくださいます」
 試練はつらいものですが、しかし、神とともに歩む人生は、あたかも解答を見
ながら試験を受けるようなものです。もう答えは分かっています。必ず 解決が
来るのです。皆さんの試練や問題がどんなにひどいものであっても、それは人の
知らないものではなく、神さまは私たちに、脱出の道までも備え てくださって
いるのです。神は愛です。
 ヤコブの手紙の12節には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、
それをこの上ない喜びと思いなさい」と書かれています。良いことな ら喜べま
すが、試練を喜ぶなんて普通は考えられません。しかし、聖書は喜びとするよう
語っています。なぜなら、試練は奇跡を生むからです。
 皆さんもまた、臆することなく、信仰に堅く立ちましょう。神さまは、耐える
ことのできないような試練を与えません。むしろ脱出の道へ、あなたを 連れて
行ってくださいます。イエスさまを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2012年12月2日号(第704号)より転載—

2012年11月22日木曜日

本当にそうですか


 神さまは、ご自分のかたちに似るようにと、人間をお造りになり、アダムとい
う名を与えられました。また、助け手として、アダムの肋骨から女を造 り上げ
ました。エバです。
 彼らは、エデンの園に置かれ、幸福に過ごしていましたが、神さまは一つだ
け、禁忌を言い渡していました。「あなたは園のどの木からでも思いのま ま食
べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べるその時、あなたは必ず死
ぬ」(創世記2章17節)
 しかし、狡猾な蛇であるサタンは、エバに近づき、こう言いました。「あなた
がたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言 われた
のですか」(3章1節)
 エバは、禁断の実を食べたら必ず死ぬと聞いていたのですが、「本当に?」と
いうサタンのうたぐりに聞いてしまい、「死ぬといけないからだ」と答 えまし
た。「死ぬ」と神さまは語りましたが、エバの頭の中では、この神のことばは、
「死ぬといけないからだ」に変わりました。「あなたがたは決し て死にませ
ん」。サタンの駄目押しの一言に、エバは禁断の木の実を取って食べ、夫にも食
べさせてしまいました。こうして人類に死が入ったのです。
 神さまのことば通りになりました。 神さまのことばは真実ですから、必ず実
現します。最初に語られたことばをしっかりと握っているのなら、時が 来た
時、必ずその実現を見ます。それ故、サタンはそのことばを手放さそうと、あら
ゆる惑わしを語ってくるのです。このような時、私たちは、最初に 語られた神
さまのことばに、何度でも戻る必要があります。
 初めに聞いた神さまからの約束のことばを最後まで握り、共にその実現を見て
いきましょう。 (イスラエル北野)



み声新聞2012年11月25日号(第703号)より転載—


2012年11月16日金曜日

罪 人


 先日、興味深い学びをしました。「罪人」という漢字をあなたらどう読みます
か、と問うもので、クリスチャンの多くは「つみびと」と読み、一般の 人の多
くは「ざいにん」と読むそうです。
 両者には、罪に対する意識が異なるのです。「つみびと」という言葉には、認
罪が含まれている言葉のように聞こえますが、「ざいにん」は世に言う 犯罪者
のことを指す言葉とされているようです。
 しかしながら、犯罪ではないにしろ、すべての人は罪のうちに閉じ込められて
いることを、聖書は語っています。人には「原罪」があるのです。たと え世に
言う犯罪を犯さなくても、心を探れば、人をさばいたり、ねたんだり、人をあや
めることさえ脳裏に浮かぶことがあるでしょう。こういった罪の 根っこは誰で
もあるのです。これが原罪です。そして、これがある故に、神と私たちとの関係
は断裂しているのです。
 しかし愛なる神さまは、私たちを救うご計画をお持ちでした。神さまは、御子
イエスさまを下さったのです。イエスさまは、私たちの罪の身代わりと なって
十字架で死なれました。このイエスさまが流された血潮によって、私たちは、罪
赦され、生かされ、父なる神さまとの関係が修復されたのです。
 皆さんが、イエスさまの十字架を信じ、イエスさまを主として受け入れるな
ら、救われます。私たちが罪人であることには変わりありませんが、私た ちは
イエスの十字架の故に、赦された罪人(つみびと)なのです。あたかも罪の無い
者かのように神さまは、祝福してくださいます。そして、神さまが 私たちの力
となってくださるので、全ての困難に勝利します。イエスを主と呼び、新しい人
生を踏み出しましょう。
(イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月18日号(第702号)より転載—
 
 

2012年11月9日金曜日

私の結婚


 離婚話が絶えない家庭に育ったせいか、私は、自分は一生結婚しない、と思っ
ていました。結婚どころか、人生がつくづく嫌になっており、いつ死の うか、
とそればかりを考えていました。
 ところが、20歳の時に、預言者がやって来て、突然、私が結婚式を挙げている
姿が見える、と語り始めたのです。驚きました。このことばは、死ぬ ことばか
りを考えていた私に、手のひらほどの、小さな生きる希望になりました。
 この日から、結婚のために祈るようになったのですが、その中で特に23歳まで
に結婚することができるようにと祈りました。依然、人生に絶望にし ていた私
は、待てる時間は3年しかありませんと、正直なところを主に申し上げたのです。
 22歳が終わった次の日、それは、約束の23歳ですが、神さまは、「もし遅く
なってもそれを待て、それは必ず来る。遅れることはない」(ハバク ク書2章
3節)と語ってこられました。すぐに分かりました。はやる私に、23歳の最後の
1日まで待ち続けなさいということです。
 興味深いことに、同じその日に、私の夫となるある兄弟が、主に呼ばれ東京か
ら長崎に祈りに行きました。彼はそこで、主から結婚の導きを受けまし た。こ
うして私は、願い通り23歳半ばの秋に結婚しました。
 この結婚は、私にとっては、神さまのことばの成就であり、神さまのことばは
真実であることの証しです。
 結婚だけに限らず、もし、皆さんに神さまからの約束のことばがあるなら、ど
んなに不可能に見えても、その約束のことばを固く握りましょう。神さ まはあ
なたのために最善のものを拒まれず、与えられている約束は必ず実現するからで
す。 (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月11日号(第701号)より転載—
 

2012年11月2日金曜日

小黙示録


 家計を預かる主婦の感じるところですが、ここ数年で急激に時代が悪くなって
きたように思います。友人の話ですが、北海道のお米は安全とされてい るそう
で、そのためか、内地の都市部からの買い占めがあり、確かに、地元北海道では
例年より10キログラムで約1000円値上がってしまいまし た。
 また、リストラをはじめ、これから時代を担う若者たちの雇用先も十分に確保
されていません。人件費削減のため、近隣の外国人を雇用し、こちらに 回るべ
き仕事が回ってこないのです。
 さらに、周辺国での反日感情の高まりは、世の終わりの前兆を表しているかの
ようです。
 マタイの福音書の24章は、小黙示録と呼ばれ、終わりの時代に起こる事が、イ
エスさまの口から語られています。
 「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ」(5節)、「民族は民族に、国は国に
敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります」(7節)、 「不法が
はびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(12節)というのが主なと
ころですが、時代は、今まさに産みの苦しみの初めに入って います。これか
ら、終末に向かって、さらに私たちが考えもしないような患難、困難が起こって
くるでしょう。
 しかし、キリストとともに歩む人生は、慰めに満ち、イエスさまご自身が皆さ
ん方の力となってくださいます。担い切れない重荷を主の前に下ろし、 安きを
得ましょう。そしてイエスさまを主とお呼びし、救いを頂きましょう。
 イエスさまも言っておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人
は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま
す」(マタイの福音書1128節)
         (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月4日号(第700号)より転載—

2012年10月25日木曜日

信頼の的

 ルカの福音書12章にあるお話です。
 金持ちの畑が豊作を迎え、彼は、作物を蓄えておく新しい大きな倉を建てまし
た。そして、自ら祝福して言いました。「たましいよ。これから先何年 分も
いっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」
 ところが神さまは、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去ら
れる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになる のか」
と語られました。
 皆さんは、ご自分の人生において何をよりどころとして生きておられますか?
 家族ですか。ペットや仕事、と言う人々もいるでしょう。けれども圧 倒的に
大多数の人は、「お金」と答えるのではないかと思います。
 確かにお金は万能のように見え、お金さえあれば何でも手に入るということは
偽らざるところでしょう。先ほどの金持ちもまた「お金」を信頼の的と したの
で倉を建てたのです。
 先日、ジョージ・ミュラーの伝記を読みました。孤児院に多額の献金を申し出
たある婦人に、ジョージは、後悔しないようによく考えてからささげな さいと
促しましたが、彼女はこう語りました。「自分の信頼の対象をお金から神に替え
たことについて、私は決して後悔などはしておりません」
 素晴らしい信仰です。献金をささげたことを言っているのではありません。も
ちろんそれもあります。しかし、ご婦人に起こった事はもっと大きな事 でし
た。お金をはじめとして、自分の持てるものに信頼する人生から、神を信頼の的
とする人生へと新しくされたのです。神を信頼の的とした生き方に は、自由が
あり、喜びがあります。神に対する信頼は、決して失望に終わることがありませ
ん。 (イスラエル北野)

み声新聞2012年10月28日号(第699号)より転載—

 


2012年10月18日木曜日

パリサイ人と取税人

 信仰生活の中で、しばしば陥りやすい過ちの一つに「自己義認」が挙げられます。自己義認は恵みから目を離させ、私たちを高ぶりのわなへと誘います。
 ルカの福音書18章に、ある例話です。二人の人が祈るために宮に上りました。
一人は当時のエリートであるパリサイ人、もう一人は人々が嫌う取税 人です。
 パリサイ人は心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のよう ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。自分は落ち度なく律法を守ってい る、自分自身を正しい、と誇りたいのでしょう。
 それに引き換え、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。イエスさまは、神の前に義(正しい)と認められたのは、パリサイ人でなくこの取税人だと言いました。
 信仰生活の中で、私たちはしばしば「何をやったか」ということばかりを追求しがちです。それは間違いではありませんが、神さまは、私たちの心が 神の前に「どうあるか」ということに、より関心をお持ちです。自己義認は、神さまの恵みを必要としません。何でも自分の力でできる、と思っている からです。しかし、取税人は、神さまの恵みにより頼む、たましいの打ち砕かれた人物でし
た。この取税人が神さまの目にかなったのです。
 恵みの神を知らずに、どうして神を語れましょう。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月21日号(第698号)より転載—



2012年10月10日水曜日

コンプレックス

今は天にいる私の父は、自分と気性が似ている私に、幼少のころから一種の帝王学を教えました。どこに行っても通用する強さを持ち、また何があっても物おじしない娘へと育てようとしました。最低でも平均点、というのが父の教えでした。しかし、出来の悪い私はこの高いハードルに苦しみました。
 成人に達するころには、ついに無理が来て挫折しました。時流に乗って、うまく立ち回っている友人の姿を見ると、それができない自分を情けなく思 い、コンプレックスを覚えました。私は大学を休学し、医者を必要とする状態になってしまい、弱いことは私のコンプレックスとなりました。
 人生に絶望している時ほど、聖書が親しく語りかけてくることはありません。
神さまは聖書のことばを下さいました。このように書かれています。
 「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエ ルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう』」(エ レミヤ書31章3、4節)というものです。
 そのご約束通り、父なる神さまは、私を病から立て直し、愛を示し、私を再び教会へ戻してくださいました。
 父や私が嫌った弱さですが、神さまは「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント人への手紙第二12章9節)とも語ってこられました。神さまのことばは真実です。弱さを感謝し、神さまの恵みの中に住まいましょ う。
 弱いことは、今や私にとっては尊いこととなりました。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月14日号(第697号)より転載—

2012年10月4日木曜日

危険な遊び

 小学生のころ、「こっくりさん」という遊びがはやっていました。文字盤を作り、十円玉を置き、動くままにその上を移動させ、結婚相手は誰だろう かなどといろんなことを聞き出すのです。半分本気、半分遊びで、大人たちにはおおむね他愛のない遊びと知られていましたが、これはもう立派な魔術 です。あずかりしれぬ闇に、足を踏み入れてしまうことを知ってください。
 以前にもお話ししましたが、悪霊と関わることは、後の人生に大きな障害となって出てきます。
 それ故、何でも信じやすく、好奇心の強い子どもの時代に、敵は、ターゲットを絞って、このような遊びに姿を変えて悪魔に反応しやすい種を植え 付けるのです。
 こっくりさんだけではなく、タロットや手相など、気を付けなければならない悪い遊びを、それと知らずに手を染めてしまいやすいのです。
 私もまた、幼少期に、悪魔的な遊びに大いに関係を持っていました。私は、この悪しき霊にとらわれてしまい、このままだと自分が滅んでしまうことが、よく分かっていました。
 ただただ、イエスさまのあわれみによって私は救われました。私は、次のようなことばを頂きました。「あなたがたの死との契約は解消され、よみと の同盟は成り立たない」(イザヤ書28章18節)というものです。イエスさまの十字架での死を代価として私はサタンとの死の契約から自由にされま した。想像を超えた大きな愛です。
 イエスさまの十字架によって私の、死との契約は解消されました。イエスさまの名を呼び自分の罪を悔い改めるなら私たちは救われます。主の恵みは 死の力よりもはるかに強いのです。十字架を仰ぎ見、救いを受けましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月7日号(第696号)より転載—



2012年9月26日水曜日

恐 れ

幼いころ、6時を知らせるサイレンが鳴ると、皆、遊びをやめて一斉に家路に向かいました。後ろから追っ掛けてくる夕闇が怖くて、一人が走りだすともう後はばらばら、競うようにして逃げ帰っていきました。
恐れというものは、往々にして実体がなく、しかも恐れれば恐れているほど、恐れは増し加わります。
かつて、教会にO牧師という器(奉仕者)がいました。彼もまた、恐れを持ちやすい人でした。ある時、O牧師の友人であるA牧師は、O牧師から 「鳥が自分を襲いに来る」と言って相談を受けましたが、そんな馬鹿げたことはない、と一笑に付したそうです。ところがある時、現場を見たのです。 そこには小鳥が、羽ばたきながらO牧師を威嚇しているのです。手で払えば逃げそうな小鳥でしたが、O牧師の恐れを見て取った小鳥はいよいよ大胆に 威嚇し続けました。
こんな光景、見たことがない、とA牧師は驚いたそうです。
ヤコブの手紙4章7節には、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」と書いてあり ます。
悪魔の攻撃に対しては、立ち向かうことを聖書は語っているのです。
恐れもまたこれと同様です。立ち向かっていかなければなりません。先ほどの小鳥は、A牧師が懲らしめようと向かってくるのを見て取ると、さっさ と逃げていきました。立ち向かう時に、恐れは消え去ります。
神さまの祝福にあずからせないために、サタンはしばしば恐れを入れてきます。しかし、神への全き信頼を持って恐れに立ち向かい、勝利しましょ う。
神さまは、私たちが祝福で満たされることをみこころとしておられます。
(イスラエル北野)
み声新聞2012年9月30日号(第695号)より転載—

2012年9月20日木曜日

医者を必要とする人々

 三十路を越えたころ、私は事故で子どもを失い、うつ病になってしまいました。私は生きることを投げ出し、最もひどい時のことは記憶に残っていま せんが、衰弱し、階段を上り下りすることも一人ではできませんでした。
 そのような状況でしたが、その時、聖書を開いてみると、ルカの福音書の「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(5章31節)とい う一節がしきりと心に触れてきたことを覚えています。これはいったいどういう意味なのか分かりませんでしたが、今なら分かります。その時の私は病 人で、医者を必要としていたということです。
 神さまは瞬時に病をいやすことがおできになりますが、その時の私には、最善の医者を備えるという方法でいやしを与えてくださいました。魂の癒え ぬ傷に叫ぶ私に「必ずよくなるから」と真顔で答えてくれる新進気鋭の医師が備えられていました。こうして、長い間一人で抱えていた病の日々に、よ うやく治療の手が入りました。それは神の時であったと思います。
 マタイの福音書11章28節には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま す」と書かれています。私たちは疲れた人、重荷を負っている者です。担い切れない労苦をイエスさまはご存じで、私の元へ来なさい、私があなたを休 ませてあげますと語ってくださったのです。
 イエスさまは人生の医師です。失ったものを、再び立て直し、全てを益としてくださいます。私たちは皆、イエスさまを必要としています。イエスさ まの前に病はいやされます。主の前に重荷を下ろして安きを得ましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月23日号(第694号)より転載—



2012年9月13日木曜日

言ってはならない言葉

 列王記第二6、7章に書かれている事ですが、サマリヤにひどい飢饉があり、王は預言者エリシャに怒りを発し、首をはねようと人をやりました。
 エリシャは「主のことばを聞きなさい」と言い、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで 売られるようになる」と預言しました。
 しかし、その時、王の侍従は、エリシャに「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言ってしまいました。エリシャ は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と語りました。
 そのころ町の入り口にいた4人のツァラアトを病んだ者たちが、ここにいても飢えで死ぬばかりだから、思い切ってアラムの陣営に行ってみようと相 談し、出掛けていきました。
 すると、アラムは何もかも陣営に残して逃げ去っていたのです。そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪い、預言者エリシャのことば通り に、上等の穀物がただ同然で売られるようになりました。しかし、侍従は門の所で民に踏みつけられて死にました。
 神さまは、全能者であり、恐るべきお方です。神さまにおできにならないことなど一つもないのです。侍従は、全能の神の前に言ってはならないこと を言ってしまったのです。その言葉は神に対する挑戦であり、神の神聖に踏み込んでしまったのです。
 侍従もこの言葉を言わなかったら、神さまの祝福にあずかることができたでしょう。侍従の言った言葉は、神さまのみわざを目の前にしながら、自ら それを失う言葉でした。
 神を恐れ、信仰の言葉を語りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月16日号(第693号)より転載—



2012年9月6日木曜日

みこころがなりますように

エルサレムの黄金門の正面に、ゲツセマネという園があります。イエスさまはたびたびそこで祈られ、十字架につけられる前夜もまた、イエスさまは、 そこで祈られました。
 イエスさまは、ご自分がまもなく全人類の罪の贖いのために死なれることを知っておられました。とはいえ、生身の体です。受ける苦しみや、愛する 弟子たちとの別離の悲しみなどによってもだえ始められ、こう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、な さってください」(マタイの福音書26章39節)
 何という祈りでしょう。この杯というのは、十字架で死なれることを言っています。しかし、それにもかかわらず、主はこうも祈られています。わた しの願うようにではなく、みこころのようになさってください、というものです。こう祈ったイエスさまは、自分に死んでおられました。父なる神さま にまったき信頼を置いておられたのです。
 ルカの福音書1章にもまた、まったき信頼を持って御使いを迎えた、マリヤのことが書かれています。マリヤは、受胎告知の際にこう言いました。 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)
 イエスさまをマリヤと同列に置いてはいけないのですが、共通するのは、無私の姿勢を取り、自分の心によらず、神のみこころを求めたところです。 そし
て、その結果までも神に信頼して受け取られました。何であれ、神のみこころこそ最善であることを、私たちは知っています。私たちは、神さまの みこころがなることを切に求めましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月9日号(第692号)より転載—



2012年8月29日水曜日

「感謝」は奇跡の導火線

もう20年近く前になりますが、一人の奥さんが、問題の解決を求めて教会に来られました。ご主人のお仕事が何をやっても長続きしない、ということ を心配しておられました。
 ご主人にも聞いてみましたが、ただ働くのではなく、一生の仕事として、人に感謝されるような仕事に就きたい、という強い願いがあったことが分か りました。
 彼はイエスさまを信じ、その仕事が何であるのか、神さまに導きを求めたところ、塾の教師になることだ、ということが見え始めてきました。
 早速、最大手であるA予備校に応募してみたところ、1次審査に合格しました。2次審査は形式的なもので、もう大丈夫と喜んでいましたが、何とま さかの不採用になりました。
 しかし、聖書のテサロニケ人への手紙第一5章18節「すべての事について、感謝しなさい」という勧めのことばがあります。それ故、不採用になっ たことを感謝しました。ともかく感謝したのです。
 それから数日後、彼は偶然1枚のチラシを目にしました。何と、塾の教師の募集と書かれています。導きを感じそこを訪ねたところ、即採用となりました。
 そして、さらに驚いたことには、不採用になったA予備校が経営悪化で倒産してしまったのです。もし、彼がA校に行っていたら、路頭に迷うところ でした。神さまはその事をご存じで、彼に別の塾の職場を備えてくださっていたのです。
 祈ること、また聖書のみことばに立って感謝をささげるなら、目には見えない神さまの手が動きます。多くの所で、感謝したときに奇跡が起こるのを 私は見てきました。感謝は奇跡の導火線です。これは力ある約束であり、あなたも主イエスを信じるなら、この祝福にあずかることができるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月2日号(第691号)より転載—



2012年8月21日火曜日

死は死ではない

 人が、死ぬことを恐ろしく思うのは、その先を知らないからです。ですから、聖書、特にコリント人への手紙第一15章にある希望をお分かちしま しょう。私たちは主イエス・キリストによって、死んでもよみがえりを果たすのです。
 ある時、ある人が見た夢での話です。あくまでも「夢」なのですが、大変興味深かったので、真実かどうかは別にして、少しお話ししたいと思いま す。
 ある夜、その人は夢を見ました。そこは黄泉のような所で、彼女は、鍾乳洞のような岩陰に伏せっていました。そこから立ち上がろうとしましたが、 たちまちからだ全体が、砂のようにさーっと流れ落ち、瞬く間に地のちりに帰ってしまったそうです。主の前に行こうとしましたが、からだがないので 立てません。からだを下さいと懇願したところで、目が覚めたそうです。
 聖書では、人はちりから出てちりに帰ることを語っています。肉のからだが朽ち、無くなっても、私たちは無ではありません。
 私たちは、地上のからだだけではなく、神が下さる御霊のからだがあるというのが聖書の記すところです。このように書かれています。「死者の復活 もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ」(42節)、
「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらさ れるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(44節)
 私たちは血肉のもので、血肉の死を迎えますが、イエス・キリストを主と迎えるなら、血肉のからだは朽ちない永遠に向かってまかれ、イエスさまが下さる御霊のからだを受けます。
 イエスを信じ、復活の希望にあずかってください。これは真実な話です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月26日号(第690号)より転載—



2012年8月15日水曜日

屈 折

 ヨハネの福音書5章に、38年もの間、病気でいた人の話が出てきます。当時、エルサレムには、べテスダという池があり、大勢の病人が伏せってい ました。彼もまたその中の一人でした。
 イエスさまは、彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言いました。「よくなりたいか」
 それに対して、彼はこのように述べました。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう ほかの人が先に降りて行くのです」
 これは、弁解のような答えです。良くなりたいに決まっています。でも彼は、イエスさまに「はい。なりたいです」とは言えませんでした。どうして でしょうか。この弁解のような答えにこそ、彼の苦しみの年月を読み取ることができます。
 38年という年月は、人が希望を失うに十分な時間でした。病人には、病人の心の屈折があるのです。時に諦めがあり、憤りもあり、また失望し、孤 独に追いやられます。望みのない病に、もうどうでもいい、どうせ俺なんか、とやけっぱちな思いにもなったでしょう。
 それらを知ってイエスさまは、「よくなりたいか」と聞いてくださったのです。そして、良くなれるのかという希望が頭をもたげたところに、イエス さまの次なるおことばが届きました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」。彼はすぐに直って歩き出しました。
 イエスさまは、昔も今も変わることがありません。イエスさまは私たちを救いたいという一心で、十字架で死んでくださいました。イエスさまの十字 架の打ち傷に代えて、私たちはいやされるのです。今、心を開いてこのお方を信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月19日号(第689号)より転載—




2012年8月7日火曜日

不公平な神さま

 長年の求道者である友人が、神さまは結局、不公平だと思う、と言いました。
そんな事ないよ、と言ってあげたかったですが、まだ神さまを信じてい ない人の目には、神さまが不公平だと映ることも仕方がないのかもしれません。
 マタイの福音書20章の話です。神さまを意味するぶどう園の主人は、早朝、1日1デナリの約束で労務者を雇い、ぶどう園にやりました。その後、 9時に
も、12時、3時、ついに5時になっても、職にあぶれた者がいたので、彼らもまたぶどう園に遣わされました。
 精算をする時、最後に来た者から順に1デナリをもらいました。早朝から来た人は相応の上乗せがあるだろうと期待しましたが、彼らも頂いたのは1 デナリでした。不公平だと彼らが訴えるのも無理ならぬことでしょう。
 しかし、これに対して主人はこう言います。「自分の分を取って帰りなさい。
ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいので す」(14節)、「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」(15節)
 神さまというお方は、私たちが思うよりはるかにあわれみ深く、愛なるお方です。不公平と言っても約束とたがうことは決してなさりません。その上 で神さまは、お心のままに、「恵もうと思う者を恵ま」れるのです。そのはからいが人知を越えているがゆえに、時に人は、ねたましく思うのです。
 皆さんは、人の成功を喜べますか。その祝福を共に喜べるでしょうか。神の愛は、あまりにも大きいので、人には「不公平」という形で表出すること があります。しかし、あの人を恵んでくださる神は、あなたをも恵んでくださる神なのです。その事を忘れずにいきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月12日号(第688号)より転載—



2012年7月31日火曜日

新しくされる

 ヨハネの福音書3章で、イエスさまは、ニコデモというユダヤ人の指導者に、興味深いことを語られました。「人は、新しく生まれなければ、神の国 を見ることはできません」(3節)というものです。新しく生まれなければならないとはどういうことでしょう。
私はこのみことばには、深い思い入れがあります。18歳のころ、私は上京し、友人に誘われて高円寺の教会へ行きました。そして、そこで、このこ とば通りのことを受けました。A牧師に祈っていただいたのですが、とても神を近く感じました。そして聖霊によって倒され、頭のてっぺんから足先に 至るまで、清い水で洗い流されるかのようなご臨在にあずかりました。
全ては一変し、目に映るもの全てが生き生きとし、私は、自分が新しい人になったことを知りました。救いの門が開かれており、私はそこを入って神 の子とされました。そして約束通りに聖霊さまによって神の国を見ることができるようになったのです。何という恵みでしょう。
コリント人への手紙第二5章17節には次のように書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いも のは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
イエスさまは私たちを新しくしてくださいます。私たちは自分で自分を変えようとしても挫折や不足を感じるばかりでしょう。しかし、イエスさま を、あなたの主とするなら、主は全能の御手をもって私たちを新しく造り上げ、神さまの望むかたちに造り上げてくださるのです。
イエス・キリストを信じましょう。古いあなたは過ぎ去り、あなたは新しくされます。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年8月5日号(第687号)より転載—




大 志

 「少年よ。大志を抱け」。これは有名なクラーク博士の言葉ですが、もともとはその下に、「イン・クライスト」という一言が付いていました。「イ エス・キリストにあって大志を抱け」とクラーク博士はおっしゃったのです。
 大志とは何か。それは、キリストが下さる大きな志のことで、ビジョン(幻)とも言い換えることができるでしょう。イエスさまが与えてくださる目 的や目標です。
 ビジョンを大きく持つことが、いかに大切なのかは、高校野球に例えると分かりやすいかもしれません。甲子園に行き、そこで優勝することを目指し て訓練してきたチームと、出場することに焦点を合わせてきたチームとでは、練習の内容も訓練も大きく異なったでしょう。それ故、幻は大きく掲げる のがよいのです。大志があればこそ、その厳しい訓練にも耐え、結果、働きの実を豊かに結ばせるからです。
 私たち一人一人にも、神さまが用意してくださっている使命があります。イエス・キリストによってそれを知るなら、その幻は皆さんを育て上げるこ とができます。困難、苦難に耐えるのです。大志は、あなたを育み、忍耐を働かせ、やがてそれは成就します。
 人というのは怠惰な者で、大志がなければ、努力することも自制することも強いられなければできません。箴言の29章には、「幻がなければ、民は ほしいままにふるまう」(18節)と書かれていますが、本当にその通りなのです。
 しかし、大志を持っている人はその成就まで耐え抜きます。
 まもなくリバイバルは起こります。いえ、すでに起こってきています。キリストにあって高い幻を持って歩んでください。主はあなたの人生を輝かせ てくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年7月29日号(第686号)より転載—



2012年7月17日火曜日

福音の力

 私の夫は牧師という本業の傍らに、アルバイトをしています。そこに、Aさんという同僚がいますが、Aさんは夫が牧師だと知ると、「キリスト教っ てどんな教えだ?」とそっと聞いてきました。夫は、イエス・キリストの十字架の贖いを語り、イエス・キリストを信じるなら救われる、と福音を語り ました。そして、人は必ず死ぬこと、その死に対して備える必要があること、その備えはイエス・キリストの福音を信じる他ないことを伝えました。
 するとAさんは「俺は信じるぞ。あんたの話は気に入った。うん、俺は信じる」と語りました。仕事場だったので、それ以上突っ込んだ話はできませ んでしたが、Aさんは「俺は信じる」としきりに口にしていました。
 その後、Aさんに病気が発見されました。てんかんです。治療に専念するため、職場にはあまり来なくなりましたが、先日、夫の上司を通して、その 後の消息を聞きました。実はAさんはてんかんの他に、脳の血管に大きなこぶのようなものがあったのですが、そのこぶが何の治療もしていないのに完全に消えていたそうです。脳の写真には確かにこぶが存在していた痕跡があったので、医者は不思議だ、奇跡だと言っていたそうです。
 夫の上司は「あいつにはそんな信仰心などないはず。現代の奇跡か」と驚いており、夫は、福音を語っておいてよかったと言っていました。
 あの時、Aさんがどんな思いで「信じる」と言ったかは分かりませんが、イエスさまはご存じで、最善を与えてくださいました。私たちが福音を語る 時、それを聞いて信じるのなら、その人の内に神さまのわざが起こるのです。福音を宣べ伝えていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年7月22日号(第685号)より転載—



2012年7月9日月曜日

救 い

 キリスト教には「救い」があります。宗教は多くあっても、「救い」を語る宗教はキリスト教以外にはありません。
 救いとは、永遠のいのちです。人は死んで終わりではなく、死んだ後、天国か地獄かのどちらかに行きます。救いとは、天国へ行くことをいうので す。
 イエスさまの十字架の贖いを信じるなら、皆、「救われ」ます。これが神の約束です。悟りや苦行は賢いもののように見えますが、「救われ」ませ ん。全ての人が平等に救われるため、神は、ただ信じることそれだけで「救われ」るようにしてくださいました。他の重荷は一切ありません。
 イエスさまは、前もって弟子たちに告げていた通り、十字架につけられ、死なれました。しかし、3日目によみがえられました。この「復活」こそ が、キリスト教にしか救いがないことを証明しています。
 というのは、他宗教の教祖たちは誰一人として自分を死からよみがえらせることはできなかったからです。
 神さまは、私たちを愛してくださった故に、イエスさまを下さいました。イエスさまは、私たちを罪や死から買い戻すために、十字架で死なれ、三日 目によみがえりを果たされました。これこそが、「救い」であり、そして、信じる者はみな救われるという福音の証しとなりました。
 私たちは皆、死の下に置かれています。確かに私たちは生きているのですが、その命は永遠に存続するものではありません。必ず死がやって来るので す。
 どうか、この素晴らしい「救い」を受けてください。ありのままのあなたでよいのです。神はあなたの父となり、あなたのために備えられた人生へと あなたを導き、天の御国をあなたに与えてくださいます 。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年7月15日号(第684号)より転載—



2012年7月2日月曜日

高ぶりの誘惑

 私の住む北海道は、道を挙げて日本ハム・ファイターズを応援しています。コンビニに旗がはためいていて、中田選手の姿がプリントされています。
 野球に関してはまったくの門外漢である私は、この人は誰?から始まって、中田選手のたどった道を聞きました。高校時代から天才バッターとして注 目され、ドラフト1位で入団したこと。若さ故に有頂天になりましたが、思うように成績が伸びず、2、3年間、2軍に落とされ、そして再び1軍に 戻ってきたこと。
 興味深いのは、中田選手の語る言葉が変わったことです。自分の栄光を語らず、チームやお客さんへの感謝を口にし、謙虚になったといいます。
 中田選手といわず、私たちはみな、褒めはやされることに弱いものです。褒められると、つい自分を誇ってしまい、結果、自分が神にでもなったかの ような
思いすら持ってしまいます。
 聖書の使徒の働き12章に、ヘロデという王様の話が出てきます。定められた日に、ヘロデは王服を着て、王座に着き、演説を始めたところ、民衆 は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けました。「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからであ る。彼は虫にかまれて息が絶えた」。こう書かれています。(21—23節)
 ヘロデは自らを神とする高ぶりに乗っかってしまったのです。これはあってはならないことでした。しかし、そこでは、そうさせてしまう民衆の叫び がありました。
 全ての働きは神さまの恵みと祝福によるものです。主を恐れましょう。そして神に栄光をお返ししましょう。そうすれば、神さまはもっと祝福してく ださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年7月8日号(第683号)より転載—



2012年6月26日火曜日

忠実さ

マタイの福音書25章のお話です。
ある主人が旅に出掛けることになったので、おのおのその能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントをしもべに渡しました。5タラント預 かったしもべは、すぐに行って商売をし、さらに5タラントをもうけました。2タラント預かったしもべも、同様に2タラントをもうけました。
ところが1タラントを預かったしもべは、地を掘って、その金を隠しました。
やがて主人が帰ってき、それぞれもうけたお金を報告すると、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあ なたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」ということばを下さいました。しかし、1タラントを地に隠しおいたしもべは、「あ なたは、蒔かない所から刈り取るひどい方だと分かっていました」と語り、地の中に隠していた1タラントを見せました。これに対して主人は「悪いな まけ者のしもべだ。
私は蒔かない所から刈り取るというのか。ならば、銀行に預けておくべきだった。そうすれば利息がついて返してもらえたのだ」と 語り、彼の1タラントを10タラント持つ人に与えてしまわれました。
この箇所を読む時、5、2、1という数字が長年私を惑わし、働きで、5タラントの人は用いられるが1タラントでは及びもつかないだろう、そんな 読み方をしていました。ところが、ある時、主は教えてくださいました。
タラントが幾つであろうが、与えられている物にいかに忠実であるか、ただそれが問われるのです。
神はタラントの大きい人を用いられるのではなく、自分に与えられた物(タラント)に忠実な者を用いてくださるので す。 (イスラエル北野)
み声新聞2012年7月1日号(第682号)より転載—

2012年6月18日月曜日

貧しい者は幸いです

 神は、ヨシュア記の中で、イスラエルが受け継ぐ領土として、「あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全 土および日の入るほうの大海に至るまでである」(1章4節)と語られました。それは硬貨にも刻まれており、私たちはそれを大イスラエルと呼んでい ます。
 ダビデやソロモンの時代、イスラエルは最も栄えましたが、それでも統治した領土は、この大イスラエルには至りませんでした。
 ヨシュアが死ぬと、イスラエルの民は、神さまが言われた領土を獲得しようとはせず、むしろ、占領するより、異邦の民と共存共栄の道を探りまし た。
 イスラエルの民が、神さまの命令に従わず、このような道に進んだ原因の一つに、私は「豊かさ」があったのではないかと思っています。
 イスラエルは、長く放浪の民として荒野で生活していましたが、カナンの地に入り、そこでの豊かな産物によって生活は一変していきます。
 「もうこれで十分豊かだ、だからこれ以上苦労したくないし、する必要もない」。このような思いが民の中に生じたのではないかと思うのです。
 マタイの福音書5章でイエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(3節)と語られました。心が満ち足りて豊か になると、人はそれ以上、神を求めることをしなくなります。
 そういった意味で、心の貧しい人は幸いなのです。その人は常に神を尋ね求め、神さまの助けと栄光を見ることができるからです。
 豊かさは恵みです。しかし、神さまを尋ね求め、その御声に聞き従う道にこそ、本当の豊かさがあるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月24日号(第681号)より転載—



2012年6月9日土曜日

遅くなってもそれを待て

 私の通っていた大学の話ですが、よく教授が定刻より遅れて教室に来ました。
それが大学の先生方のスタイルなのでしょうが、神さまもまた、これに近いことをなされることがあります。約束より遅れ気味にやって来ることがあるのです。
 私たちの教会では、初期のころ、よくアメリカに行って、A教会のプレイヤーチャペルで祈り込む時を持ちました。とはいえ何日も同じように祈るうちに、せっかくアメリカに来たのだから、別の教会、B教会にも行きたい、と無言の圧力がかかりました。
 チームリーダーも、まあいいだろう、ということで、その日の午後、チームはB教会に向けて出発しました。ところが、しばらく走った所で、神さま が、はっきりと、「戻りなさい。行き先はA教会です」とリーダーに語られたのです。
 出掛ける前に言ってくださったのなら何も問題もないのに、すでに出発しています。いまさら帰るとは言いにくいです。しかし、その葛藤の中でリー ダーは、神のみこころを貫き通しました。皆でA教会に戻ると、まさにその日のメッセージから、リバイバルの約束のことばを受けたのです。このこと ばを受けるためにこそ、まさにチームはやって来たのです。
 それは、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)という約束です。このことばが、私たち をリバイバルに向けて養い続けました。
 大きな祝福の前には、よく試しが許されます。主を待てるかどうかです。主を待つ中で、私たちは、探られ、練られ、試されます。しかし、忍耐を全うし、主の時を待ち望むなら、思いを超えた神の栄光を見ることができるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月17日号(第680号)より転載—



2012年6月4日月曜日

告発者

 サタンは空想上のものではありません。聖書でははっきりとその存在を語っています。
 そして、サタンには多くの呼び名があって、日夜、その名の実質を示すところを行っています。その実質の一つに「告発者」という性質があることを 覚えていただきたいと思います。ヨハネの黙示録12章10節には次のように書かれています。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている 者が投げ落とされたからである」
 ここに書かれているように、サタンは告発者なのです。サタンは、日夜私たちの罪を神の前に激しく糾弾しています。サタンは律法の測りを持ち出 し、あれができていないから駄目だ、これがあるから駄目だと、私たちの罪や不足を神さまに訴えています。
 しかし、一体、完全な人間、サタンが訴える口実を見つけられないような人間など存在するでしょうか。あり得ません。それでもあえて言うなら一人 だけ。
受肉されたイエスさま、イエスさまだけは何の罪もありませんでした。そのイエスさまが、何をなしてくださったかというと、それは、罪の赦しです。
 イエスさまは何の罪もないお方ですから、ご自分を罪のためのいけにえとしてささげることができました。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死 に、復活を果たされました。こういうわけで、サタンがいくら告発しようと、この十字架を信じるなら、全ての罪は赦されているのです。
 イエスさまを信じるなら、神さまは私たちを、十字架を通して見てくださいます。もはや、あなたを責めるものは何もありません。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月10日号(第679号)より転載—



2012年5月27日日曜日

豊かに赦してくださる

 ある宣教師が証しされていた事なのですが、彼女は若いころ、他人に迷惑を掛けさえしなければ、何をやっても構わないという信条で生きていたそうです。
好き勝手に生きるというのは若者の特権なのでしょうか。
 彼女とよく似た道をたどった者に、ルカの福音書15章に出てくる、放蕩息子と語られる一人の人物がいます。彼は父に、兄との間に財産を分けてく れと願
い、それを持って遠い国へ旅立ち、放蕩三昧に明け暮れました。
 財産はあっという間に無くなり、そこに飢饉が起こりました。食うにも事欠くようになった彼はある人の元に身を寄せ、人の嫌がる豚の世話をし、し かも豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほど飢えていましたが、誰一人として与えてはくれませんでした。
 彼の人生は破綻しました。悩みに練られた放蕩息子はへりくだり、父の元に帰ろう、そして、父の家の雇い人の一人としてもらおうと心に決めて帰る ことにしました。
 ところが、まだ家まで遠かったにもかかわらず、父は彼に走り寄って彼を迎え、子とし、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかっ たのだから」と言って、祝宴まで開いてくださったのです。
 父とは、神さまのことを言っています。神さまは、私たちを愛してくださっています。今か今かと、私たちが、ご自身に立ち返ってくるのを日々待っ ておられます。たとえどんなに罪に汚れていようが、神に帰るなら、神はありのままの私たちを愛してくださり、あらゆる問題から、救い出してくださ います。神にあって赦されない罪はありません。ですから、どうか神に帰る勇気を持ちましょう。神は豊かに赦してくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月3日号(第678号)より転載—



2012年5月22日火曜日

 先週、母の日に子どもたちから予期せぬプレゼントをもらいました。うれしかったです。というのも、前々日にちょっとした言い合いがあって、子育 てに足りない自分を責めていた矢先のことだったので、目に見える形であらためて愛を示してくれた娘たちに感謝し、また、愛を学びました。
 愛とは奥深いもので、私のペンではとてもそれを語ることができません。それで、聖書のヨハネの手紙第一4章をお読みになることをお勧めします。
 そこには、このように書かれています。「愛のない者に、神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方に よって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(8―10節)
 キリストを知る以前、私は愛も神も語るに苦手でした。愛といっても、それが分からなかったのです。しかし、分からない私を神さまは忍耐をもって 接し、愛で囲み、福音によって救ってくださいました。
 前述の「ひとり子」とはイエスさまのことです。神さまは御子イエスさまが、十字架で死なれることを良しとされました。それは、私たちがもはや罪 にとらわれることなく、神の前に永遠に生きるためでした。
 神さまは、全ての人を愛しておられます。イエスさまの十字架の死は自分のためであったと受け入れ、信じる時、この神さまの愛が分かり始めます。
 あなたもイエスさまを信じ、この素晴らしい愛の中に身を置いてください。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月27日号(第677号)より転載—



2012年5月14日月曜日

暮らし向きの自慢

 娘が幼かったころ、よく同級生のお母さん方と茶話会をしました。わが子の自慢や、夫のキャリア、購入したマンションに、名家の血統、これらの自 慢に話の花を咲かせます。住む世界が違いました。
 ヨハネの手紙第一2章には、このように書いてあります。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(中略)すべての世にあるもの、すな わち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、 神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(15—17節)
 ある知人ですが、彼女の願いは、マイホームを持つことでした。この目的に向けて、彼女はまっしぐらに生きてきました。そして、ついに念願のマイ ホームを手に入れたのです。ところが、奇妙な事が起こってきました。燃え尽き症候群というのでしょうか、やっと手にしたマイホームですが、喜びも 束の間で、彼女は鬱状態になりました。次なる目標が無くなってしまったからです。本当に彼女が必要とし、また求めたのは、何だったのでしょうか。
 悩みの中で彼女は、解決を教会に、イエス・キリストに求めました。それは正解でした。イエスさまこそが彼女の心の求めるところであったからで す。
 彼女は、今、牧師をしています。誰よりも生きる喜びを輝かせながら、本当の幸いを内側に頂いています。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神の みこころを行う者はいつまでも永らえます。こういうわけですから、私たちもまた神さまの元に帰りましょう。
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節)
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月20日号(第676号)より転載—




2012年5月7日月曜日

赦されます

 私の祖母は、神さまが嫌われるようなことを何十年にわたって行っていました。霊媒、口寄せに聞き、四国八十八カ所巡礼を何度も繰り返し、自分の 死に装束に八十八の朱印を押したものを用意して、弘法大師に帰依していました。
 渦中にある本人には分からないことでしょうが、これは神の前に大きな罪です。神は、わたしのほかに、ほかの神々があってはならないとも、自分の ために偶像を造ってはならない、それを拝んではならないとも、十戒の中で語っておられるからです。
 幾重もの偶像礼拝の中で生きてきた祖母に、果たして福音は届くだろうかと私は悩みましたが、何回目かの福音を聞いた日、神はわざをなされまし た。祖母は「自分は今までいろいろな事(偶像礼拝等)をやってきたから…」という、認罪の言葉を、初めて、口にしたのです。自分のしてきた偶像礼 拝ですが、祖母はそれが罪であることを知り、それ故、自分は救いにあずかれないような罪人である、ということが分かったのです。祖母は衣装を着替 えて、その日、バプテスマを受けました。
 ヨハネの手紙第一1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを きよめてくださいます」と書かれています。
 神のことばは真実です。どんなに大きい罪であろうとまたささいな罪であろうとも、それは人の感じ方であって、神の前には罪は大小みな等しく罪で あることに変わりはないのです。聖書では、十字架の贖いによって、全ての罪は赦されると書いてあります。どんな罪人でも、罪を告白して捨てるな ら、あわれみを受けるのです。十字架の救いを信じてください。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月13日号(第675号)より転載—



2012年4月28日土曜日

圧倒的な勝利者

 私は、以前病院で見掛けた2人の少年が忘れられません。彼らは、足に問題がありましたが、器用に2本のつえを使って、エレベーターに乗り、淡々 と歩いて行かれました。
 私は、その明るく前向きに生きているという姿に感動しました。人の目には不自由に映っても、彼らはそうは思っていないでしょう。世ではハンディキャップといいますが、彼らの心は自由そのもののように感じました。
 聖書の使徒の働き16章に、パウロとシラスが獄中で神に祈りつつ、賛美を歌っていたという様子が書かれています。彼らは足かせにつながれ、この 先どうなるかも分からない不安と不自由な環境の中にいました。しかし、彼らは自由でした。神の下さる平安と喜びがそこにあったからです。彼らは世 の現実、また不幸に打ち勝っていました。
 世では、よく「幸いも不幸も心の持ち方一つ」だと言いますが、神さまの与えてくださる自由は、世の自由とは大きく異なります。世から来る自由や 平安は、その現状を満足し受け入れることにありますが、神さまから来る自由や平安は、不可能の現実を打ち砕き、圧倒的な勝利と祝福をもたらしま す。
 前述のパウロとシラスですが、この後、神さまは大きな地震を起こし、2人の足かせを解き、牢の扉を開けてしまわれました。
 どんな状況でも、イエスさまの愛は変わりません。牢獄もまた、パウロとシラスの賛美の前に、御国の臨在があふれ、神さまの勝利を現す所となりました。
同様に、私たちもまた問題の中にあって、感謝と賛美の声を上げる時、主の力強い解決の手が動きます。圧倒的な勝利とは、この方と共に居ると いうことです。そして、イエス・キリストこそ、その方です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月6日号(第674号)より転載—



2012年4月22日日曜日

罪を赦す権威

 聖書のマタイの福音書9章に、罪に関する興味深い記述があります。
 人々が中風の人を床に寝かせて、イエスさまの下に運んできたところ、イエスさまは彼らの信仰を見て、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦 された」と言われました。ところが、これを聞いた律法学者たちは「この人は神をけがしている」と心の中で言いました。
 イエスさまはその様子を見て取って、こう言われました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』というのと、どちらがやさしい か。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」。こう言って、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に 帰りなさい」と言われました。病人は起き、群衆はこのような権威を人にお与えになった神をあがめました。
 神によらないで、一体誰が、人の罪を赦すことができるでしょう。罪の下にある私たち人間にはそのような権威はありません。しかし、御子イエスさまは、ご自分で語られたように、罪を赦す権威を持っておられるのです。
 イエスさまは罪のないお方でしたが、私たちの全ての罪を身に負い、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、また復活を遂げられました。イエス さまは、ご自分の死という代価を払い、私たちを死から、また、罪から買い戻してくださったのです。
 それ故、今や私たちは、キリスト・イエスによって全ての罪が赦されています。確かに私たちは罪人ですが、私たちは赦された罪人なのです。十字架の贖いを信じるなら、私たちはあたかも罪がないかのように見なされ、全ての罪は赦されます。その権威をイエスさまは持っておられます。キリストの 救いを頂きましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月29日号(第673号)より転載—



2012年4月15日日曜日

これから起こること

 16歳の時に、国交正常化して間もない中国に、修学旅行で行きました。
 人民服を着た大勢の人たち、おびただしい数の自転車、初めて知る海外が、共産国であったものですから、その体制や文化の違いを前に、異文化とい うものを強烈に意識しました。
 数年後、再び中国に行きました。今度は車が主流になっていて、大きな建物の建設ラッシュでした。人民服を着ていた人もジーンズにはき替え、ハン バーガーを食べ、一見すると、欧米と紛うような姿がそこにはありました。
 世界はどこに行こうとしているか。結論から言えば、世界は単一の国家を目指し、あらゆる面でグローバル化が進んでいきます。以前なら、海や山が 仕切りとなって、民族性もまた守られていましたが、今はインフラの発達により、文化は単一のものへと移行してきているように思えます。そして、そ れは反キリストという世界的リーダーを迎える素地ともなっているのです。
 反キリストに関し、新約聖書テサロニケ人への手紙第二2章に「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く 上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」と書かれています。今は、引き止めるものがあって止められていますが、やがて世界を 掌握する強力なリーダーとして、必ず彼は出てきます。そして、全人類を巻き込んだ大きな戦争が起こります。
 しかし、案ずるには及びません。その時には神さまは、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれるからです。今まさに時代 は変わろうとしています。しかし、変わらないのは神さまの救いの約束です。イエスさまを信じ、目を覚ましていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月22日号(第672号)より転載—



2012年4月10日火曜日

それでも神は正しい

ノンクリスチャンである友人のMさんは、ヨブ記のことをよく話題にします。正しいヨブがなぜ試練を受けたのか、疑問だとMさんは言います。
神さまがいるならなぜこんなことが…という思いや出来事は、ほとんどの人が共通して持っているものと思います。クリスチャン歴30年の私ですが、いまだに、神さま、なぜ?と思ってしまうことは、多々あります。
 信仰の父、アブラハムの出会った試練も、また厳しいものでした。彼は、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように神さまに語られました。彼は聞き従い、イサクを縛り、ほふろうとしました。その時、神さまは「あなたの手をその子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよくわかった」と語ってこられ、彼に対する祝福の約束を確かなものとされました。
 ヨブの試練においても、アブラハムやイサクの試練でも、それを許された神さまは正しいお方です。事実、約束通り、アブラハムから空の星、海辺の砂のように多くの子孫が出てきました。ヨブに関しては、試練の後の半生を以前にも増して祝され、聖書には、ヨブの所有物を全て2倍に増された、と書かれています。
 試練や不幸を許す神さまを理解できないという人の心も分からないわけではありません。しかし、それでも神さまを「正しい」とする時、大きな祝福の入口が見えてきます。理解できなくても、信じ信頼することはできます。試練の後には、必ず神さまの用意しておられる祝福の計画があります。
 それ故、理解できなくても、神は正しいお方として、感謝しましょう。そうすれば、神さまの祝福に漏れることは決してありません。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月15日号(第671号)より転載—



2012年3月31日土曜日

神の戦い

 サムエル記第一17章にダビデとゴリヤテの戦いの様子が書かれています。紅顔の美少年であるダビデは、百戦錬磨の大男、ペリシテ人戦士ゴリヤテ を恐れずに立ち向かっていきます。ダビデはこう言いました。「この戦いは主の戦いだ」(47節)。そして、その告白通りにダビデはゴリヤテと一対一の戦いをしますが、たった一つの石でダビデはゴリヤテに打ち勝ちました。
 また、預言者エリヤは、バアルの預言者450人に、たった一人で主の預言者として立ち向かいました。2頭の雄牛が用意され、天からの火をもって応える神がまことの神であるとしたところ、主の火が天から降ってきて、エリヤの祭壇の全てをなめ尽くしてしまいました。主こそ神です、と民は口々 に語り、バアルの預言者は殺されました。
 さらに、ギデオンは、ミデヤン人との戦いにおいて、たった300人で13万2000人に立ち向かい、勝利しました。人知を超えています。こんな 事が起こるでしょうか。
 これら戦いに共通することは、圧倒的な人数に(敵に)対して、たった一人で、あるいはまったくの少数で神の陣営に立ち、勝利したということで す。これが神の戦いというものなのです。
 昔、教会学校で、「一人の小さな手、何にもできないけれど…」という歌をよく歌いましたが、神が共におられるなら、1人の小さな手でも、その信 仰によって山をも動かすのです。主が共におられる戦いなら、必ず勝つのです。
 神の戦いは勝利が決まっている戦いです。ダビデや、エリヤ、ギデオンのように、たった一人であっても、主の心をわが心とし主の陣営に堅く立つなら、圧倒的な勝利が現され、私たちは神さまのご栄光を見ることでしょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月8日号(第670号)より転載—




2012年3月25日日曜日

信仰義認

 新約聖書の中の代表的な人物というと、ペテロとパウロが挙げられます。ペテロが無学な漁師であったのに比べて、パウロは、誰もが認めるエリート中のエリートでした。
 彼自身こう言っています。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法について はパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ人への手紙3章5、6節)
 これらは、当時のユダヤの人々から見れば、羨望を覚えるものです。しかし、パウロは、それを捨て、ちりあくた同然のものだと言いました。なぜで しょう?
 先ほど、引用文の中で、「律法による義」という表現がありましたが、ここに鍵があります。パウロは「信仰による義」と出合ったからです。
 律法によって義と認められることはありません。誰も律法を完全に守ることはできないからです。律法は私たちが罪人であることを教え、それ故、イエスさまの十字架を信じる、「信仰による義」へと導くのです。
 イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであり、この十字架によって、私たちの罪は完全に贖われたのです。この十字架を信じるなら、神さま は私たちを義としてくださるのです。
 キリストを信じる信仰による義、これこそがパウロが推奨するものです。何かをなしたことなどではなく、ただキリスト・イエスを信じるなら、皆、救われるのです。これを、信仰義認といいます。ですから、どうぞイエス・キリストの福音を信じてください。ただ信じるだけで、私たちは救われ、永遠のいのちが与えられるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月1日号(第669号)より転載—



2012年3月18日日曜日

離陸

 初めにあったのは、神のことばでした。
 1984年4月1日に、東京都国分寺市に一つの教会が産声を上げました。終末の大リバイバルと、再臨に至るまでの終わりの時代の主の働きを担うという二つの使命によって立てられました。
 ことばは人を呼び、神の使命に心動かされた人々が、あらゆる所から集まってきました。こうして、私たちはリバイバルを待ち続けて、今月いっぱい で28年になります。
 リバイバルを全世界に流すために、教会は今や9つの部門を持つようになりました。出版社、新聞社、ミュージック会社、祈りのミッション、海外宣教、孤児院、神学校、映画ミッション、IT会社です。これらの働きもまたリバイバルのために用意されたものです。リバイバルに向かっての私たちの 歩みはいよいよ本番を迎えようとしています。
 それはさながら、飛行機の滑走のようです。私たちは皆、神のことばというゲートをくぐり抜けました。そして今はもう飛行機に搭乗しています。飛 行機は、静かに滑走路に向かい、次の指示を待っています。これから私たちは空を飛ぼうとしているのです。いよいよ離陸です。
 V1。私たちは全速力で駆け抜けました。VR。もはや誰もこの前進を止める
ことはできません。そして、ついに、V2。浮力を捉え、私たちは離陸 を果た
したのです。
 私たちの信仰もまた離陸しました。不可能を可能にする神の力に覆われ、リバイバルの約束は、もう始まっています。マルコの福音書でイエスさまは こう語られました。
 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)
 イエスさまを信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年3月25日号(第668号)より転載—