2021年1月31日日曜日

The Day(主の日)

新型コロナウイルスによる感染拡大が報じられ始めてから、約1年になります。その勢いは、未だとどまることを知らず、日本では毎日千人単位の方々が新たに感染し、大きな問題となっています。これらは日本だけでなく、世界中の問題で、国境を越えての事件であり、それ故、今後は医療ばかりでなく、政治学的なアプローチが必要とされていくでしょう。

 私たちクリスチャンにとってこれは、主の再臨の兆しとして見ています。イエスさまが来られる時が近いという、時のしるしの一つです。イエスさまは、約2000年前に、私たちを救うため世に来られました。初臨です。そして、世の終わりには再び、今度は主を待ち望んでいる者たちのために、キリストは王として再臨されると約束されています。

 ところで、皆さんは、ノアと箱舟の話をご存知ですか。神さまは、地が堕落しているのを見て、すべての肉なるものの終わりが来ていると語り、ノアに箱舟を造るよう命じられました。そして、あなたと契約を結ぼう、と語られました。神は大水によって地を滅ぼすことを語り、それゆえ、そこから免れるように、箱舟を造りなさいと言われたのです。ノアとその家族、あらゆるつがいの生き物たちは箱舟に入りました。そして、遂に大洪水の大水が地の上に起こりました。

 水は増え続け、4040夜地の上に降り、150日間増え続けました。こうして、すべての生き物は水によって消し去られ、ノアと箱舟にいたものたちだけが残りました。

 なぜこういう事が許されたかというと、これは罪に対しての裁きであるとともに、来るべき主イエス・キリストの救いのひな型であるからです。イエス・キリストを信じる者は救われます。信じない者は既に裁かれています。私たちはキリスト・イエスのほかに救われるべき名を持ちません。

 また、ペテロの手紙第二にはこのような記述があります。「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ」(67節)「主の日は、盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(10節)。

 ノアの時代には、洪水が裁きとして用いられたように、この終わりの時代は、火で森羅万象が焼きつくされるその日が来るのです。戦争や核兵器を思えば、それがもうそこまで来ていることを知ることができます。1日は千年のようであり、千年は1日のようです。神を恐れようではありませんか。

 MIKOE NEWSから転載」 2021年1月31日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年1月13日水曜日

十字架

 今年もまた、25日が巡ってきます。25日は、日本二十六聖人殉教記念日です。1597年のこの日、長崎の西坂にて、幼子3名、外国人宣教師6名を含む26人の者が、キリスト・イエスに対する信仰を全うし、磔刑に処せられ死なれました。彼らは、日本で最初の殉教者となりました。

 西坂は、今は公園として整備されています。そして、そこには十字架のレリーフがあり、その土台には次のような聖書のことばが刻まれています。(新改訳聖書3版より引用)

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書824節)という一文です。イエスさまは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、このことばをお語りになられました。

 そして、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(35節)と続けて語られました。これもまた、殉教を念頭においた一言です。

 殉教は、キリスト教の根幹をなす働きです。殉教の死は単なる死ではありません。神さまは、殉教者の血の報いをなされる方であり、殉教者の血は、リバイバルの種だと言われています。その一粒の死は、多くの人々の救いをもたらすものとなるのです。

 さて、イエスさまは、ご自身に聞き従っていく人生について、実にシンプルに私たちに語られました。それは、前述のマルコの福音書の「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということです。私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負いなさい、とただそれだけなのです。あくまでそれは自主性に任されています。

 とはいえ、自分を捨てるなどということは、あだやおろそかにできるものではありません。この場合は自分を捨てるということは、「自分以上に主を愛する」ということです。ですからみな喜んで死を選び、主に従うことができたのです。

 世には多くの宗教があります。けれども、こんな信仰は聞いたことがありません。根っこから違うのです。罪と欲にまみれた拝金主義はもうこれ以上先には行けません。救いも御国に与ることも彼らは何一つできないのです。

 そして最後に、十字架を負うことには報いがあるのだということも知っていただきたいと思います。主にあって死んだ者たち、殉教者たちは、天で永遠の報いと各々の行いに応じた冠を授けられます。二十六聖人は、はるかに天を仰ぎ見て、永遠に至る人生を見ていました。それ故、かりそめの命を捨てたとしても、真の命、永遠の命を得ることを知っていたので喜んで忍ぶことができたのです。

 あなたもまた、イエス・キリストをあなたの救い主として心にお迎えしましょう

  MIKOE NEWSから転載」 2021年1月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年1月6日水曜日

唯一の救い

  世にはさまざまな宗教があります。私見を述べると、多くの宗教は偶像をあがめていますが本質においては人間中心で、こぞって人の喜ぶものを追求し、ご利益をうたい約束し、多くの信者を獲得しています。それに対して同じ宗教のカテゴリーの中にあっても、キリスト教が約束するのは世のものでなく神のものであり「救い」です。「救い」は世のご利益信仰とは次元の違うものです。一方的な恵みによって神が私たちの父となり、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 新約聖書の使徒の働きではこのように書かれています。「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(412節)。

 その名とはイエス・キリストです。イエス・キリストは、十字架によって人類のすべての罪を負い、死なれました。そして、3日目に死からの復活を果たされました。主の十字架は私たちの贖いの代価なのです。イエスを信じる者とは、十字架の贖いを信じる者です。そして、その人は死から命へと移っています。私たちは罪が赦されるだけでなく、永遠のいのちが与えられているのです。

 ルカの福音書23章では、イエスさまが、犯罪人二人の真ん中で十字架にかけられた時の様子が書かれています。群衆とともに、十字架にかけられた二人の罪人もイエスを罵り、罵声を浴びせかけました。ところが、ひとしきり悪口を言い終わると2人の罪人の中の1人に変化が起こります。

 彼は言いました。「おまえは神をも恐れないのか。(中略)われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。

 これに対してイエスさまは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言ってくださいました。死を目前にした時、見えるものがあるのでしょう。主イエスは彼を受け入れてくださり、罪人は救われました。

 神は愛です。誰であれ、罪を告白し悔い改めて捨てるなら、罪は赦され、あたかも何の罪を犯さなかった者と同様の祝福で満たしてくださいます。また、十字架の前に赦されない罪は1つもありません。悔い改めて立ち返るなら、どんな罪であっても赦され、たとえ死の中にあっても避け所があります。私たちは神の子とされ、罪に換えて永遠のいのちを与えられます。これこそ私たちの信仰の確信です。イエスを信じるとは、イエスさまの十字架による罪の贖いを信じ、イエスの死と復活を信じ、自分の個人的な救い主として心にお迎えすることです。

 人は自分の罪を知った時、初めてイエスの十字架の元へたどり着きます。イエスさまは救い主です。他の救いはありません。

  MIKOE NEWSから転載」 2021年1月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/