2023年9月27日水曜日

 ザアカイを愛されたイエスさま

 ルカの福音書19章のお話です。イエスさまはその宣教の働きの中で、エリコの町に入られました。そこでは、イエスさまの評判を聞きつけて、大勢の群衆がイエスさまを見ようとして集まっていました。

 この町には、ザアカイという人物がいました。彼は、取税人の、しかもその頭であり、たいそうな金持ちでした。ザアカイは、多くの取税人がそうであるように、不正を行って私腹を肥やしたのです。日本でいうところの守銭奴です。そんなこんなで人々は取税人を嫌い、ザアカイを嫌っていました。

 ザアカイもまた、イエスさまがどんな方か見たいと思い、沿道に駆け付けました。しかし、彼は背が低かったため、群衆のために見ることができませんでした。嫌われ者のザアカイに場所を譲ってくれるような人はいません。それで、ザアカイはイエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登りました。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからです。

 イエスさまは、ちょうどそこに来られて、上を見上げてザアカイに言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。これを見て、皆は「あの方は罪人(つみびと)のところに行って客となられた」と言ってつぶやきました。

 この箇所だけでなく、マタイの福音書9章にも同様の記載があります。イエスさまが大勢の取税人や罪人(つみびと)とともに食事の席についたことをパリサイ人は面白く思わず、弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人(つみびと)といっしょに食事をするのですか」と問いました。

 これを聞いてイエスさまご自身が答えられました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くために来たのです」。

 これが、ザアカイの客となられたイエスさまのお心なのです。そして、これが神の愛です。罪人(つみびと)をあわれみ、行くべき道に導き、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、罪過の中に死んでいる私たちを赦し、いやし、神の子としてくださるのです。

 この神の愛、これがザアカイを変えました。イエスさまが自分の客となってくださったことで、ザアカイは救われました。よほどうれしかったのでしょう。自分の財産の半分を貧しい人たちに施します。だまし取った物は四倍にして返します。そう自らイエスさまに言いました。イエスさまは、これを喜び「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と言い、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と語られました。

 救いは宝石の原石のようなものです。そのままでは、泥にまみれたただの石にしか見えません。けれども、洗い削ってゆくうちに光を放ち、宝石としての実質が現れます。ザアカイは、この原石であったのです。それで、主は彼をアブラハムの子と言われたのです。そして、今なお多くのアブラハムの子たちがいます。彼らは原石で、往々にして罪という泥にまみれています。それで一見すれば悪い者のように見えます。しかし、イエスさまはご自分に属するものをご存じです。イエスさまの宣教は、その原石であるアブラハムの子たちを捜して救うためにあったのです。

 ザアカイの人生は一変しました。お金より尊いイエスさまの愛を知ったからです。イエスさまはあなたのところにも来てくださいます。救い主としてイエスさまを信じ、み神のもとに帰りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2023年9月20日水曜日

信仰のある人生

 神さまは心の広いお方なので、イエス・キリストを信じていなくても、皆さんの人生に折にかなった祝福を与え、泣くことも笑うこともある、ごく普通の人生を用意してくださっています。ですから、私たちは、信仰を持たなくてもそれなりに満足した平凡で幸せな人生を送ることができるでしょう。

 けれども、私たちにはさらに優れた人生があります。それは信仰を用いる人生です。信じなければ何も起こりません。しかし、信仰を働かせるなら驚くほどの奇跡や祝福、神の現実を見るのです。

 マタイの福音書14章で、ペテロは信仰を用いるという行動に出ました。真夜中、イエスさまが湖の上を歩いて来られるのを見て、ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言いました。イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行きました。これは奇跡です。あり得ないことが、信仰によって起こりました。

 もしペテロが、舟にいただけならそのままです。湖を歩くという奇跡を体験するなんてことはなかったでしょう。しかし、イエスのことばを求め、頂き、信仰を働かせ実行したところ、奇跡が起こりました。このように、信仰のある人生とない人生では起こってくる事柄に大きな開きがあるのです。

 教会に海外宣教が開かれた当初、私は、それに加わる経済がありませんでした。そこで、行かせてくださいと主に求めたところ、イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。それで、参加するつもりでパスポートを取りました。さらに求めて祈ると自然な形で必要が満たされ、まさかの宣教に行くことができました。もちろん宣教に行かなくても、神の祝福は変わりません。しかし行くなら、それとは別に用意された神の特別な祝福があるのです。

 信仰を運用するにあたっては、行いが非常に重要なファクター(因子)です。信じていない人は何も行いません。しかし、信仰を持つ人はそれを行いによって表します。ペテロは実際舟から出て水の上に立ったのです。信仰は行いとともに働くものなのです。ヤコブの手紙2章に「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」(17節)とも「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(26節)と書かれている通り、信仰は行いをもって用いる時こそ、その強力な力を発揮します。

 人生に信仰を加えると、思いもよらない奇跡と神の栄光の現れを見るようになります。そして、これこそ神さまが私たちに与えようとしておられるものです。神のみこころであり、また心からそれを願うなら、私たちもペテロと同じように水の上に立つことができるのです。神さまにおできにならないことはありません。むしろ、信仰によって恵みをどんどん引き出していきなさいとおっしゃることでしょう。

 それゆえ、私は皆さんに、信仰のある人生をお勧めいたします。信心をしなくても私は、今、十分祝福されているのだという人もいます。そうでしょう。でも、それでもそれはまだあなたに対する人生の恵みのほんの一部しか味わっていません。命ある限り神を知ってゆく、学んでいく、それが私たちへの神のみこころです。ペテロは水の上を歩きました。このような奇跡があなたの人生にも起こります。波乱万丈な人生でしょう。しかし、これこそ「わが命を生きた」という人生ではないでしょうか。

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2023年9月13日水曜日

天での報い

 日本人は、独特の美意識を持ち、その中の一つに見返りを求めないで事を行うという美徳があります。報いを求めて事を行うなんて下心があるようで尊くない、と思うのでしょう。

 ところが、聖書を読んでみると、はっきりと天での報いということが書かれており、この報いを得るためにあらゆる場面で耐え忍び、この世のものを捨てても天での報いに生きるよう推奨されています。

 例えば、へブル人への手紙11章にはこのように書かれています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(2426節)

 天での報いは求むべきものだと、イエスさまも教えておられます。マタイの福音書104142節にはこう書かれています。「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません

 また、反対に報いを失った人のことも書かれています。マタイの福音書2530節に「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです」と書かれています。受けるはずであった報いを失うことはどれほどの悔やみとなるでしょうか。私たち人間は、終わりの日に神のさばきの座に立つのです。そして、おのおの生前に行ったあらゆることについてさばきを受けます。そこで神の前に、正しい人は報いを受け、そうでない者は、退けられるのです。

 この信仰すなわちキリスト教は、多くの殉教者を出しています。老いも若きも信仰を守り通して殉教しました。なぜ、彼らは命を捨てたのでしょうか。それは、天での報いを見ていたからです。殉教者たちはモーセ同様、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝に勝る大きな富と思ったのです。たといこの世の命を失ったとしても、永遠のいのちが神によって与えられています。彼らは、殉教の報いを天での報いを、信仰によってはっきりと見ていたので揺らぐことはありませんでした。

 そして、神さまもまたこのような信仰に応えてくださいます。キリストにあって私たちはもはやこの世に属するものではありません。神が私たちの父であられ、父は永遠に至るものをもって私たちのために報いを用意しておられます。天での報いをしっかりと見つめ、寄留者としてこの地上での生涯を全うしていきましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年9月6日水曜日

見分け

  幼稚園児の頃、祖父が新聞に載りました。なんでも店の売り上げ金の中から偽札か偽コインを見分けたということらしいのです。よく気が付いたね、と皆でねぎらいました。

 見分けにはコツがあります。銀行に勤める友人が言うには、本物に触れることが一番の対策だそうです。毎日お金を数えていると、ふとしたお金の異常や違和感が鋭敏に養われるそうです。

 反対に、勉強として偽物から本物を見せると、これはひどいことになります。異常ばかり見続けると、本物さえ偽物に見えるそうです。ですから、見分けは本物に触れるところから始めるのが一番なのです。

 これは、お金に限らず、あらゆることに共通することで、本物に触れることが偽物を見分けることの最善の方法となります。聖書では、テモテの手紙3章に次のようなことばがあります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(16節)

 私たちが信仰から迷い出ることのないように、私たちには聖書が規範として与えられています。繰り返し聖書を読んでいる、それだけで教えと戒めと矯正と義の訓練がなされているのです。聖書はこのように正しいものであり、霊的な書物です。世には優れた注解書や手引き書があります。しかし、直に聖書を読む方がはるかに勝っています。

 テサロニケ人への手紙第一521節に「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」という教えが書かれています。見分けることは、これからますます必要になってきます。

 先日、AIを用いたらどうなるのか、ということを検証した動画を見ました。その人の声を学習させ、用意した画像に、こちらで作った○○という文章を語らせると、その人が語っていないのに、その人の顔で、その声で○○という文が語られるのです。これはまいったと思いました。AIは完璧でした。作り物感がまるでなく、どう転んでもその人が語っているとしか思えません。これを見分けよ、といっても無理です。AIはそのレベルまで達しているのです。

 なじんだ顔の某さんが語る内容に第三者が手を加えると、声も顔も某さんだから、私たちは疑うことなく某さんがそう言っていると認識し、語られたことを行うでしょう。これは悪用されることが十分に考えられます。これをどうやって見分けるのでしょうか。今のところ、私は「本人に直接確認をとる」こと以外考えられません。

 これほど世の中は進んでいるのです。反キリスト、偽キリストが起こり、主の来られる時、再臨の日は近いと言われています。すべてのことを正しく見分けることができるよう祈っていきましょう。神の教会につながること、神のことばである聖書に触れ続けること、これが守りでありまた解決となります。

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/