2013年12月24日火曜日


低くされた人
 ヨセフはヤコブの年寄子で、兄たち以上に愛されていました。
 ある時、ヨセフは夢を見ました。畑の束のうち、自分の束がまっすぐに立ち、
兄弟の束が自分におじぎするという夢です。続けて、彼は太陽と月と十 一の星
が自分に伏し拝んでいる夢をも見、その夢を兄弟たちに話しました。兄たちは怒
り、ヨセフを奴隷として売ってしまいました。
 ヨセフはエジプトの王であるパロの廷臣ポテファルの奴隷となりますが、その
中においても主の祝福があり、ポテファルは自分の全財産をヨセフに任 せまし
た。ところが、彼の妻がたくらみをもって「私と寝ておくれ」と迫りました。ヨ
セフは上着を残して、外に逃げましたがポテファルの妻は、その 上着を見せ、
夫にヨセフが自分を辱めたと語ったので、彼は激怒し、ヨセフを監獄に入れまし
た。
 監獄でもヨセフは祝福され、監獄の長から全ての囚人をお世話するよう任され
ました。そして、ヨセフに転機がやってきました。王の献酌官と調理官 の見た
夢を解き明かしたのです。パロの前に出たら、どうか無実な私のことを語って解
放してほしいと願いました。ところが、これが忘れられたので す。この後パロ
が胸騒ぎする夢の解き明かしを求めるまでの2年間、ヨセフはどんな思いで過ご
したでしょう。
 詩篇105篇19節に「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼
をためした」とあります。
 このためしの中でヨセフは低くされ、主の器として整えられます。ついにヨセ
フはパロに次ぐ大臣になり、幼少に見た夢は実現します。神の器に求め られる
のは「低い心」です。私たちもまた低くされますが、それを喜びとしていきま
しょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月29日号(第760号)より転載—

2013年12月19日木曜日


復活の望み
 他の宗教にはなく、キリスト教にあるのは何でしょう。それは、「復活」で
す。イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架で死なれ、そして3 日目
によみがえりを果たされました。
 それゆえ、この良きおとずれを信じる者は、誰でも皆、救われます。全ての罪
を赦され、死に打ち勝った「復活」を受けることができるのです。
 私の友人Pは、救いの体験に関して次のように語ってくれました。彼は、教会
に行ってすんなりイエスさまを信じたそうです。しかし、ある時ある人 から
「信じるっていうけれど、何を信じているの」と聞かれた時、彼は漠然と「存
在」かなと答えるほかなかったそうです。
 イエスさまの「存在」を信じるだけなら、悪魔でも信じて震えてるよ、と言わ
れて、信じるとは、キリスト・イエスの十字架の贖いを信じることだ と、初め
て気付いたそうです。目が開かれた彼は、確信を持ってバプテスマを受けました。
 「復活」は、全ての罪が赦され、永遠に生きる者となるしるしです。
 コリント人への手紙第一152021節にはこのように書かれています。「今や
キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられま した。という
のは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来
たからです」
 このひとりの人とは、イエス・キリストです。イエスさまは復活されました。
それゆえ、私たちもまたイエスさまの十字架の贖いと、その復活を信じ るな
ら、よみがりを果たすのです。キリストは死に勝利しています。この福音を信じ
るのなら、私たちも復活し、永遠のいのちを受けることをどうか覚 えてくださ
い。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月22日号(第759号)より転載—

2013年12月11日水曜日


おもてなし
 聖書を読んでいると、自分に似ていると思う人がいるものです。私にとって
は、ルカの福音書に出てくるベタニヤのマルタという長姉がその人です。
 マルタは人一倍「おもてなし好き」な女性で、イエスさまが村に入ると、喜ん
で家にお迎えしました。その途端から彼女の頭には、イエスさまに、し て差し
上げたい計画が一気にUP!され、彼女は猛進しました。
 彼女には妹がいました。マリヤといいます。姉とはまったく対照的な妹で、た
だじっとイエスさまのそばに座って、イエスさまの語る話に聞き入って います。
 イエスさまをお喜ばせしたい一心のマルタには、そんな妹の姿はこころよく映
りませんでした。おもてなしのために手伝ってもらいたいことが山ほど あった
からです。
 思い余ってマルタはイエスさまに抗議しました。「主よ。妹が私だけにおもて
なしさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝 いをす
るように、妹におっしゃってください」 (ルカの福音書1040節)
 イエスさまは答えて言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろな
ことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは わずか
です。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそ
れを取り上げてはいけません」 (ルカの福音書1041節)
 おもてなしがマルタにとって最高の愛の表現であることは、主もご存じでし
た。しかし、必要なことはただ一つだけだと言われたのです。それは主の 声に
聞くということです。
 神さまのことばを聞き、神さまの御心を知ることが、神さまへの最高の「おも
てなし」です。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月15日号(第758号)より転載—

2013年12月2日月曜日


エバに泣く?
エバは人類最初の女性です。私たちの究極のご先祖さんです。天に帰ったら、私
は「おばあちゃん、どうして禁断の実なんか食べたの」と聞きたいで す。とい
うのも人類に死が入ったのは、彼女の背きの罪によるところが大きいからです。
 そもそも罪はどこから来たのでしょうか。それは私たちの最も古い祖先である
アダムとエバがエデンの園に置かれていた頃にさかのぼります。神さま は、園
の中央に、いのちの木、善悪の知識の木を生えさせました。そして「あなたがた
は、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の 知識の木から
は取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死
ぬ」(創世記2章1617節)と語られました。
 ずる賢いヘビは、夫アダムを倒すため、まず妻であるエバを惑わし「本当に神
さまはそう言ったのですか。死にやしませんよ」と偽りを語ります。禁 断の木
の実は、エバの目に慕わしく彼女はついにそれを食べ、アダムにも食べさせまし
た。その結果、罪が生じ、死がきました。この上さらに「いのち の木を食べ、
罪を持ったまま永遠に生きないように」と神さまは彼らを園から追放されました。
 それが始まりです。エバが神の言葉を守り、善悪の知識の木を食べなかった
ら、私たちは今もなおエデンの園で祝福されていたことでしょう。
 しかし神さまに感謝します。神さまはイエスさまを遣わし、その十字架によっ
て私たちを贖い出してくださいました。この十字架の罪の赦しにより、 私たち
は、エデンの園よりもさらに素晴らしい、天の御国で永遠に生きる者となりまし
た。神さまの愛は、かくも大きいのです。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月8日号(第757号)より転載—

2013年11月25日月曜日


感謝の力
 今月11日、すべてのことを感謝することを私たちに教えてくださった、マーリ
ン・キャロザーズ氏が天に帰られました。マーリン氏との交わりを与 えてくだ
さった神さまに感謝したいと思います。
 感謝の教えは、初めは右から入って左に抜けるような、軽い教えに聞こえまし
たが、後に、すべてのことを次々と逆転させる、神さまの大きな力であ ると知
りました。テサロニケ人の手紙第一5章1618節にも「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と 書かれています。
 20年ほど前のことです。牧師である夫が、ある方に招かれました。その方は事
情があって自己破産をされましたが、法的には決着しているにもかか わらず、
なお、取り立て屋がやって来て困っておられました。
 どうしようかと祈ったところ、神さまはか細い声で「すべてのことを感謝しな
さい」と語られました。そこで皆で賛美を歌い、心を主に向けて、この 状況が
許されたことを感謝しました。これは神の最善以外の何ものでもないと告白し、
喜び、徹底的に感謝しました。そして帰路に着いたのです。
 奇跡は起こりました。夫がまだ家に着かないうちから、一本の電話を受けまし
た。その方でした。何と夫が帰った後、取り立て屋がやって来ましたが 「もう
あきらめた。もう来ない」と語って帰っていったそうです。そして二度と来るこ
とはありませんでした。
 感謝することによって、私たちはしばしば奇跡のみわざを見ます。神の手が動
くのです。それが感謝の力です。すべてが最善へ変わります。あなた も、感謝
を学び、神の栄光の現れを見ていきましょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月1日号(第756号)より転載—

2013年11月21日木曜日


自分の敵を愛しなさい
 私が幼少の頃、よく皆でキリスト教をからかいました。「アーメン、ソーメ
ン、冷やソーメン!」
 ところが少し大きくなってから、かつてのガキ大将が教理に関係するようなこ
とを言いはじめました。「右の頬を打つような者には左の頬も差し出せ という
が、おまえ、出来るんか」私は、まだ子どもでしたが、そう言われて心を探られ
ました。キリストの教えは私たちのスケールを超えて、大きいの です。
 例えば、マタイによる福音書5章ではこう書かれています。「わたしはあなた
がたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。そ れでこ
そ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(中略)自分を愛し
てくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょ う。取税人で
も、同じことをしているではありませんか」
 初めてこれを読んだ時、私は目からうろこが落ちました。自分を愛してくれる
人を愛することは確かにたやすいことです。愛してくれる人を愛したか らと
いっても、それは、なんら誇れるものではありません。
 それに引き換え、主が推奨してくださる愛は、「汝の敵を愛せよ」これに尽き
るといっても過言ではありません。自分の敵を愛し、のろいに代えて祝 福を与
える、これが神さまの愛です。そのご愛は、善人にも罪人にも等しく注がれてい
ます。ですからあなたも神の愛を学びましょう。その愛は、自分 の敵をも愛
し、相手を祝福するものです。神さまはその力も与えてくださいます。
 あなたの敵をあなた自身のように愛しましょう。そうすることによって人は神
の愛を知るのです。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月24日号(第755号)より転載—

2013年11月16日土曜日



 かつて、病院に入院していた時の話ですが、一人の看護師さんが、なかば泣き
ながら私の手を取り、「ごめんね。北野さんは心がきれいなのに私は… ごめん
ね」と絶句しました。何があったか知りませんが、私も、心は決してきれいでは
ありません。ねたみや高ぶり、不信仰、また人を裁く思いを抱き やすい一人の
罪人です。そして、そこから聖められることを熱心に求めている身です。
 心は何よりも大切なもので人の価値を決めるものだと思います。神さまは私た
ちの心の値打ちをはかられるお方です。第一サムエル記16章におい て、神さま
はサムエルに、サウルに代わる王をエッサイの子に見いだしたから油を注ぎに行
きなさいと語られました。長男エリアブを見た時、確かに王 たるにふさわしい
とサムエルは思いましたが、主は「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わた
しは彼を退けている。(中略)人はうわべを見るが、 主は心を見る」と語られ
ました。神の心にかなう王は、兄たちではなく、末っ子のダビデであったのです。
 第二歴代誌16章にはこのように書かれています。「主はその御目をもって、あ
まねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に 御力をあ
らわしてくださるのです」(8節)というものです。
 主の目にかなう器を主は探しておられます。神の心をわが心とし、神の思いを
わが思いとするもの者を神は選ばれます。
 主の心と一つとなる時、神さまは大いなる奇跡、栄光を現されます。それは私
たちにとって最高の喜びです。それゆえ聖霊さまに助けられ神の心をわ が心と
し、神の思いをわが思いとし、熱心に主を求めて参りましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月17日号(第754号)より転載—

2013年11月5日火曜日


いやされた男
 聖書には、多くのいやしの記述がありますが、使徒の働き2章の「美しの門」
にいた、足のきかない男のいやしは、特に感動的です。
 男はペテロとヨハネが近づくのを見て、施しを求めました。ペテロは男を見つ
め「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイ エスキ
リストの名によって、歩きなさい」こう語って男の右手を取って立たせたとこ
ろ、たちまち、男の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっ すぐに立
ち、神さまを賛美しつつ宮に入っていきました。
 人々はこれに驚き、一斉に彼らのところにやって来ました。そこでペテロは神
さまに栄光を帰し、これはイエス・キリストの御名によって現された神 の御業
であると語りました。
 先日、ある方のお見舞いに行きました。体の自由がきかず、見るからにつらそ
うでした。マルコの福音書1518節に「病人に手を置けば病人はい やされま
す」という神さまの約束があるので、私たちはその言葉通りに手を置いて祈りま
した。主は力強く臨んでくださいました。
 祈り終えたところ、その方が不思議そうに右手を握ったり放したりしておられ
ました。なんとマヒしていた右手に力が入るようになったというので す。お顔
の表情も打って変わってなんだか生き生きしてきました。
 主が働いてくださったのです。主は生ける神です。聖書のことばを信じ行うな
ら、今でもいやしや奇跡は起こります。キリストは信じる者を通して今 でもご
栄光をあらわしてくださいます。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつ
までも、同じです。イエス・キリストを信じましょう。
   (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月10日号(第753号)より転載—

2013年11月2日土曜日


あきらめてはいけない
私の住んでる北海道は、「試される大地」というスローガンを掲げています。
「試される」というのは本当だなと思います。
 ヤコブの手紙一章に、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを
この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるという こと
を、あなた方は知っているからです」(2節)と書かれています。
 信仰は必ず試されます。そういったものなのです。私は、召しを持った多くの
器が試され、時を待てずに去ってゆくのを見てきました。イスラエルの 宣教師
として召された姉妹がおられましたが、待ちきれずに教会を出て行きました。賛
美の賜物を与えられていた兄弟は、あと少し忍耐して待っていた なら賛美隊と
しての召しを見ることができたはずです。
 あと少し、というところで私たちは試されます。過ぎ去ってみればあと少しで
しょうが、当の本人にとってみれば、先は見えず、どこまで待たされる のか、
また本当に自分は召されているのだろうか、と信仰と疑いが絶えず戦っていま
す。これが信仰の試しなのです。もしあなたが、私の忍耐ももうこ こまで、と
いう事態に陥っているなら、その時こそ、出口は目の前かもしれません。
 ヘブル人への手紙には「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりませ
ん。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこ ころを
行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(1035節)と書
かれています。
 あきらめてはなりません。時が来、試しを抜けたら、私たちの信仰は確かな実
を結びます。忍耐を働かせ、試練をこの上ない喜びとしていきましょ う。
  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月3日号(第752号)より転載—

2013年10月22日火曜日


名 前
 ある人の話です。飛行機の機内食を配りにキャビンアテンダントが回って来ま
した。
 「ビーフ、オワ、チキン?」(牛肉にしますか、鶏肉にしますか)と聞かれて
鶏肉にしようと思いましたが、とっさに「バード」と言ってしまいまし た。
キャビンアテンダントは、ぎょっとした表情を浮かべ、チキンを下さいました。
 これは、鶏肉に限る話ではありません。ビーフが食べたくて「COW」と言っ
たらどうでしょう。豚肉も、ポークではなく「PIG」だったら、かわ いそう
で食べられたものではないでしょう。
 私たちは生きるために、食用として彼らのいのちを奪います。その申し訳ない
気持ちが、名前を変えるという形で現れているのではないかと私は思い ます。
バードでは食べられませんが、チキンだと食べられるのです。
 名前には全て意味があります。名前が変われば実質も変わります。
 聖書の中にも、多くの実例があります。例えば信仰の父アブラハムは長い間、
アブラムという名前でしたが、99歳になったとき神さまが現れ「あな たは多く
の国民の父となる。もうアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハム
になる」(創世記17章5節)と語られました。以来、彼の名 はアブラハムとな
り、「多くの国民の父」という意味の名をいただきました。
 みなさんの名前も、本来の意味があると思いますが、神さまがその名前を呼ば
れる時、本当の名前の実質が現され、神さまの栄光が現されるようにな りま
す。また祝福故に、アブラハムのように、あえて名前を変えられることもありま
す。神さまは皆さんの名前を祝福されています。そして、神さまの 栄光を、そ
の名前を通して現されるのです。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月27日号(第751号)より転載—

2013年10月16日水曜日


和解
 エリは天幕に仕える祭司でした。彼には2人の息子がいましたが、祭司の規定
を守らず、しかも神殿娼婦と寝ている堕落した者でした。
 その行状に対してエリは、「子たちよ。そういうことをしてはいけない。(中
略)人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくだ さる。
だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とう
か」(サムエル記第一2章25節)と言いました。エリの2人の息子 の罪は神に
対するものでした。裁きが下され2人はペリシテ人との戦争の中で死に渡されて
しまいました。
 私たちは、誰一人として例外なく罪を犯すものです。私たちには原罪があり、
生まれながらの罪人です。罪人と罪人が出会うのですから、問題が生じ ます。
しかし、憐れみのゆえに神は双方に働き仲裁をしてくださいます。互いに赦し合
うという教えは、聖書の中で最も重要な教えの一つです。
 祭司エリは、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立
とうか、と言いました。しかしこの言葉は、くしくも約1000年の後 の、イ
エス・キリストによって実現します。
 イエスさまは、定められた時にこの世に来られ、私たち全ての罪を負って十字
架で死んでくださいました。また、復活の力をもって死に打ち勝ち、救 いを確
かなものとされました。罪の中に死に、滅びに至る私たちを神は憐れみ、み子イ
エスさまをくださったのです。
 十字架は和解のしるしです。あなたが神さまのもとに帰ることができるよう神
さまは一切のことをしてくださいました。私たちはただ十字架の救いを 信じる
だけでよいのです。信じるなら、私たちは神の子です。神の和解を受け入れま
しょう。  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月20日号(第750号)より転載—

2013年10月12日土曜日


真の神
世には、神と呼ばれるものは多く存在します。しかし、それらは本当の神ではあ
りません。
 聖書の中にも、アシュラやバアルといった偶像の神と、それらに仕える者たち
がいたことが書かれています。
 第一列王記18章には、主とバアル、どちらが真の神か、ということを巡って、
450名のバアルの「預言者」と生ける真の神、主に仕えるエリヤた だ一人と
の対決の様子が書かれています。
 エリヤの提案で、双方のいけにえをたきぎの上に載せ、天から火を下した神が
真の神だ、ということになりました。まずは、バアルの「預言者」から 始まり
ました。彼らは朝から昼過ぎまでバアルの名を呼びましたが、何の声もなく、彼
らの習わしに従って、剣ややりで血を流すまで自分たちの身を傷 つけました。
しかし、それでもなお何も起こらなかったのです。次にエリヤが立って主に祈る
と、天から火が降ってきてすべてを舐め尽くしてしまいま した。民は「主こそ
神です」と口々に語り主を恐れました。この話で興味深いのは、バアル信者が信
仰するにあたって、自分を刺し、血を流すような自 傷行為が求められていると
いう点です。
 偶像の神に共通することの1つに、大願成就のために犠牲が求められ、そうす
ることで神々の手が動くと信じられていることがあります。お百度やチ ベット
の五体投地などがそれでしょう。
 しかし真の神は、犠牲を求めたりはしません。そんな必要もありません。みな
さんを愛し祝福を与えようと神さまの方で計画をお持ちだからです。イ エスさ
まが真の神です。私たちのために十字架で死んでくださり、三日目によみがえら
れました。このような神がほかにあるでしょうか。キリストを信 じましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月13日号(第749号)より転載—

2013年10月3日木曜日


死を前にして
私の父は、55歳という若さで天に召されました。召される直前、父は渾身の力を
振り絞って絶筆を残しました。文字は乱れ流れていて、何を書いたか 私たちに
は読み取れませんでした。
 ところがある時、同室の方が母に「酒井さんは必ず『有難う』と書いているは
ずだからもう一度見てくれ」とおっしゃったので、見てみると、そこに は大き
な文字で確かに、「有難う」と読めました。
 死を前にすると、人は生きている私たちには分からないような体験をするよう
です。私たちが祈りに行くと、初めはかたくなであっても、いよいよ召 される
という時になると、多くの人がうってかわって福音に心を聞き、イエスさまを受
け入れ、救われていくのを見てきました。
 分かります。これから逝こうとしている所に関して案内人が必要なのです。案
内人はイエスさまです。私たちの身代わりとなって十字架で死に3日目 によみが
えり永遠の命を与えてくださった、このイエスさま以外に救いはありません。長
年、偶像に帰依していたからといってその偶像が死からあなた を救ってくれる
でしょうか。
 誰だって死ぬことは怖いです。しかし詩篇23篇4節でダビデは「たとい、死の
陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが 私ととも
におられますから」と歌いました。ここには神へのまったき信頼が伺い知れ、喜
びすら伝わって来ます。
 死を直前にした時、人は神と出会うように思います。どこかで天を見るので
しょう。父は「有難う」と書いて天に帰りました。天を見た喜びによって 書く
事のできた言葉だと思います。あなたもまた、イエスさまを信じ、救い主として
心にお迎えください。
  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年10月6日号(第748号)より転載—

2013年9月26日木曜日


ガリラヤ湖
 イスラエルのガリラヤで、私たちは毎年1年のはじまりを迎えます。私たちの
泊まるホテルは、ガリラヤ湖の波打ち際に面していて、目を上げるとそ こに
は、かつて2000年前にイエスさまが歩いたという湖が広がっています。
 マタイの福音書14章をみると、イエスさまが、ゲネサレとも呼ばれるこの湖の
上を歩いて渡られている時、それを見たペテロはこう言いました。 「主よ。も
しあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってくだ
さい」
 イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。そこでペテロは舟から出
て、水の上を歩いてイエスの方に行きました。何とペテロも水の上を歩 くこと
ができたのです。
 ところが次の瞬間、ペテロは風を見、恐くなり、沈みかけました。イエスさま
は、すぐに手を伸ばして助けてくださりましたが、信仰の薄い人だな。 なぜ疑
うのか、とおっしゃいました。
 恐れが来た時、ペテロは溺れ始めました。イエスさまと、そのお言葉だけを見
ていた時、ペテロは、湖の上を歩きました。しかし、現実を見るとたち まちそ
の信仰が失速してしまったのです。信仰生活の中でよくあることです。
 恐れは現実を見させ、信仰の火を消してしまいます。ですから、私たちが何を
見ているのか、ということは非常に重要なのです。状況を見るなら恐れ が来る
でしょう。しかしイエスさまのことばに信頼しているなら、人は水の上さえ歩け
るのです。これが信仰です。
 神さまにおできにならないことは一つもありません。信仰は世や恐れに勝利し
ています。それゆえ、私たちもまたペテロのように、イエスさまに言葉 を求
め、そのことばに従っていきましょう。       (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年9月29日号(第747号)より転載—

2013年9月20日金曜日


大逆転
 ローマ人への手紙8章28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従っ
て召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてく ださるこ
とを、私たちは知っています」と書かれています。
 これは非常に力ある言葉です。確かに神はすべての問題をことごとく益にし、
逆転勝利を表してくださいます。
 例えば、イエスさまがお亡くなりになった時、サタンは救い主を殺したと得意
満面であったでしょう。しかし、神はそれを最大限の益へと変えられま した。
イエスさまは死から復活を遂げられました。そしてその死と復活によって、人類
に完全な救いの道を開き、圧倒的な勝利を実現させられました。
 私ごとになりますが、先々月に引っ越しをしました。半年前の私はこんなこと
が起ころうとは夢にも思いませんでした。事の始まりは、大家さんが 「賃貸業
を辞めますので、そこを退出してもらうことになります。」と言われたところか
ら始まりました。降って湧いたような話に私たちは恐れまし た。しかし、この
後ろに神さまの遠大な計画がかくされていたのです。
 その日の夜、聖書から「あなたがたは、この山に長くとどまっていた。向きを
変えて、出発せよ」と語られ、この引っ越しは神から出ていることだと 知らさ
れました。ここに立った時奇跡が起こり、引っ越しに関わるあらゆる問題に解決
を見、なんと私たちは、今までとそう変わらない家賃で、一階を 教会堂とする
二世帯住宅に移り住むようになりました。大逆転が起こったのです。
 サタンは呪いを置きますが、神はそれをことごとく祝福へ変えてくださいま
す。それゆえ、私たちは恐れる必要はありません。あなたも神を信じ神の 解決
を頂きましょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年9月22日号(第746号)より転載—

2013年9月12日木曜日


無名の人

 先週、東京から上司にあたる牧師ご夫妻が北海道に来られました。新年度に出
る、新しい賛美曲の選定をされ、私たちは約一週間ずっと車で賛美の曲 を聴き
続けました。これは私にとってこの上ない祝福でした。賛美の霊の力が、今まで
のどの時より強く注がれているのに驚きました。その中で、私は 賛美によって
素晴らしい体験をしました。
 さながらそれは黙示録4章のようでした。10節にはこう記されています。「二
十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生き ておられ
る方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出し」主を拝したというものです。
 冠は、働きに対して主が授けてくださった特別なもので、天において最も価値
がある尊いものです。それを24人の長老たちは、それを下さった神に 投げ出し
たというのです。栄光の全てを、主にお帰しておられるのです。
 私もまた、賛美の臨在のうちに心が溶かされていきました。賛美が霊に触れ、
賛美を口ずさみ、賛美を歌う喜びが私の心を支配すると、自分は何と幸 せなの
だろうとつくづく思いました。もう、何もいりません、ただあなたがあがめられ
ますように、これが本心でした。人々の中では無名であっても、 神には知られ
ている、その喜びを知らされ、どうかあなたをたたえる者の一人に加えてくださ
い、とそんな祈りをしていました。それは私にとって、本 当に幸せなひと時で
した。
 ダビデは、詩篇でこう語っています。「私は一つのことを主に願った。私はそ
れを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗 しさを
仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」私の心もまた、この歌そのもの
です。 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年9月15日号(第745号)より転載—

2013年9月3日火曜日


獄中の賛美
 私たちを愛する神さまの愛は、誰であろうとそれを取り去ることができませ
ん。イエスさまは昇天される時に、「見よ。わたしは、世の終わりまで、 いつ
も、あなたがたとともにいます」と語ってくださいました。どんな時でもどんな
状況にあっても、イエスさまは常に共にいてくださいます。たとえ それが獄中
であったとしても。
 というのも、使徒の働き16章に、獄中にあったパウロとシラスの記述があるの
です。2人は宣教途中に冤罪で、獄屋に入れられました。足かせをは められ、
一番悪い囚人が使う奥の牢に入れられていました。
 しかし、彼らは、あたかも自由の人と同じように生きていました。真夜中にい
つものように神さまに祈り、賛美の歌を歌い始めました。他の囚人たち もそれ
に聞き入っていました。
 するとどうでしょう。突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちま
ち扉が全部あいて、皆の鎖が解けてしまいました。これが賛美の力で す。神さ
まは賛美のうちに住まわれるので、獄舎もまた天の臨在に覆われました。神が与
える安らぎがあり、喜びが支配したのです。
 以前よくこんな歌を歌いました。「主イエスを喜ぶことはあなたの力です」と
いうものです。本当にその通りです。パウロもシラスもこの世のもので はない
主イエスさまの喜びを体験していたのです。それは困難に打ち勝ち状況を一転さ
せてしまう力です。喜びは場所を選びません。常に神さまとの交 わりに中にい
ることそれが賛美の祝福なのです。
 あなたもイエスさまを信じ、神の下さる喜びを頂いてください。確かにイエス
を喜ぶことは患難を打ち破る力となるからです。  (イスラエル北 野)

 み声新聞2013年9月8日号(第744号)より転載—

2013年8月31日土曜日


豊かさの貧困
神はモーセを立て、荒野で40年間民を養いました。民は、天から降ってくる「マ
ナ」というパンを食べ、日々を過ごしました。
 モーセが死に、ヨシュアの時代となると、民は荒野から約束のカナンの地に入
りました。
 「マナ」を食べ、日ごとの必要を日々求めた荒野での生活とは一変して、カナ
ンでの生活は豊かになりました。しかし、それが致命傷になったので す。カナ
ンの「全土」を占領するのが神さまの使命でしたが、今のままでいい満足してい
る、それ以上求めない、それが民の大半の思うところだったの です。
 今は天にいますが、私の父は、キリスト教の信仰に激しい迫害を加えました。
それが厳しければ厳しいほど、私はますます信仰を固くし、信仰にこ れっぽっ
ちも迷いはありませんでした。
 しかし、私は思います。もし私が何でも許され禁止されなかったら、わたしは
果たして、この信仰・真理に到達できたでしょうか。そう考えると、迫 害・試
練がいかに恵みであるかが知れます。迫害・試練があるからこそ、主イエスを追
求し、土中深くに信仰の根っこを張ることができたのです。
 マタイの福音書5章でイエスさまは、「心の貧しい者は幸いです」(3節)と
語られました。心豊かであることは決して悪いことではありません。し かし、
その人生には、イエスさまが入るだけの隙間もないのです。反対に、心の貧しい
者は神さまのものを豊かに受ける土台ができているのです。それ ゆえ、イエス
さまは幸いだと言われたのです。
 豊かになると見えないものがあります。失ってしまうものがあります。民はつ
いにカナンの地全てを占領することがありませんでした。この事実に聞 きま
しょう。   (イスラエル北野)

  み声新聞2013年9月1日号(第743号)より転載—

2013年8月22日木曜日


罪の赦し
 マタイの福音書18章のことです。ペテロがイエスのみもとに来て、「主よ。兄
弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度 までで
しょうか」と聞きました。7度とは相当の忍耐を表す数でしたが、イエスさまは
こう言われました。「七度まで、などとはわたしは言いません。 七度を七十倍
するまでと言います」(22節)
 これは、490回までは赦しなさい、と言っているのではなく、何度でも赦し
なさい、と言っているのです。
 イエスさまには罪を赦す権威が与えられています。そして、赦された者は永遠
のいのちが与えられます。罪を赦す、それは人間にできるものではあり ませ
ん。しかし、イエスさまは神の御子であり、それがお出来になるのです。どんな
に重い罪であっても、悔い改めるなら、その度ごとに何度でも赦し てくださ
る、それが神さまの約束です。
 50年近く生きていると、人は誰でもひとつやふたつ、赦されにくいと思える程
の過ちや罪を持ってしまうものです。私とて例外ではありません。も し十字架
の贖いがなければ、とても神さまの前に立つことができない、そんな黒点が心に
あります。しかし、神さまはそれを赦してくださるのです。御 子イエスを信じ
る私を、神さまはあたかも罪がないかのように愛してくださいます。何という恵
みでしょうか。
 そして、そればかりではなく神さまは全てのことを祝福に変えてくださいま
す。ローマ人の手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神の ご計画
に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださ
る」と書かれています。罪は転じて益となる、そこまで神さまの 愛はあなたの
上に大きいのです。
  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年8月25日号(第742号)より転載—

2013年8月16日金曜日


ぬかよろこび
 先日、引っ越しの準備をしていた処、50万円の通帳を見つけました。わが家に
もこんなものがあったのかと、訝しく思いましたが、引っ越しに当て るお金が
必要でしたので、喜びました。
 ところが2日後、もう一度貯金通帳を開けたところ、何とこのお金を担保にし
て借り入れがなされており、実質的にはそれは0円であると分かりまし た。私
の喜びは、一瞬にしてぬかよろこびに変わりました。
 これを許されたのは神さまです。神さまは私の心を探られました。私が一体何
を頼りにして生きているのかを問われたのです。私は現実の目に見える お金が
あった時はハッピーでしたが、それが夢と消えてしまえば、再びもとの不幸に逆
戻りしました。これがありのままの、肉なる性質というもので す。不信仰で、
神の言葉に信頼するより、状況に左右されるのです。
 話は変わりますが、ルカの福音書14章には、「あなたがたはだれでも、自分の
財産全部を捨てないでは、私の弟子になることができません」(33 節)と書か
れています。キリストの弟子になろうとするなら財産全部を捨てる時がやってき
ます。神さまが土台となられるためです。
 しかし、その道は人間的には何の当てもない道です。私たちはただ神の言葉を
頼りとして歩んでゆきました。請求書が山になったこともありますが、 本当に
必要な時には、必ず助けられました。人生において確かなものはお金ではなく、
約束の言葉であると知るまで、この訓練は許されます。そして、 神の言葉は文
字通り成就すること、見えるところによらず、見えない言葉こそ真に信頼に足る
ものであると学んでいくのです。神さまを信頼して歩みま しょう。   (イス
ラエル北野)

 み声新聞2013年8月18日号(第741号)より転載—

2013年8月7日水曜日


栄光の現れ
 引っ越しを終え、新しい家に住みましたが、ちょっとした問題がありました。
床に敷き詰められているカーペットが古いせいか、私の足に、歩くたび に繊維
が刺さって痛い思いをしています。小さなささくれですが、痛みは一人前で、思
わず聖書のあの箇所を思い出しました。
 コリント人への手紙第一12章です。「あなたがたはキリストのからだであっ
て、ひとりひとりは各器官なのです。(中略)もし一つの部分が苦しめ ば、す
べての部分がともに苦しみ、もし、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がと
もに喜ぶのです」とあります。
 私の足の傷は、小さな一器官ですが、私全体に及ぶほど痛いのです。これはあ
る真理を突いています。一部が傷めば全体が痛いのです。それは個人に おいて
だけでなく、社会や教会の中での私たちにも同様です。自分は全体の中で、どこ
に属するかということ知っていることは一致と調和、さらに祝福 において重要
です。
 先日、白馬キャンプにてゴスペルグループコンテストが行われました。そのヤ
ング部門で優勝したEちゃんは自閉症でした。特に多動症の症状が強 かったそ
うで、幼少のころは、少しも目をはなすことができなかったそうです。しかし、
神はその彼女の上に、ゴスペルシンガーとして非凡な突出した 才を注がれまし
た。並行して病も癒やされ、今や、彼女は私たちの驚嘆の的、神の栄光の現れと
なっています。
 教会はキリストのみ体です。教会に属する時、キリストの恵み、キリストの祝
福が注がれていきます。
 私たちはみな、互いに各器官です。必要とされてない人は一人もいません。あ
なたもまた、なくてはならない人なので す。  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年8月11日号(第740号)より転載—

2013年7月29日月曜日

モーセの失敗

 「モーセという人は、地上の誰にもまさって非常に謙遜であった」と、民数記
に書かれています。彼は、イスラエルの指導者で、出エジプトの際、紅 海が分
かれて壁となり海の底を渡ったという奇跡を取り次ぎました。
 モーセには、イスラエルをカナンの地に導き入れるという使命がありました。
しかし、その召しを引き継いだのはヨシュアで、モーセは、カナンの地 を見な
がらも、入ることが許されずネボ山で死んだといわれています。
 一体何があったのでしょうか。民数記20章によると、ツィンの荒野に来たと
き、民は水がないと激しくモーセに逆らいました。それを聞いた神は、 「杖を
取れ。(中略)あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と語
りました。
 ところがモーセとアロンは、会衆に向かって、「逆らう者たちよ。さあ、聞
け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないの か」
と言い、モーセはつえで岩を2度打ちました。水は湧き出ましたが、これは神さ
まの語ったやり方ではありませんでした。また水を出すのはモーセ ではなく神
さまです。それをモーセは自分だと錯覚してしまったのです。
 高慢は、このように知らないうちに私たちの心に根を張るのです。そして何か
の時に神さまの栄光を盗んでしまいます。モーセですらこうなら、まし てやわ
たしたちはどうでしょう。
 神さまに栄光を帰すには謙遜が必要です。神さまは、その謙遜のために、さま
ざまな試練を通して、私たちを弱くします。弱さは神の恵みです。コリ ント人
への手紙第二で、パウロは語りました。 「私が弱いときにこそ、私は強いから
です。」
(イスラエル北野)
み声新聞2013年8月4日号(第739号)より転載—

2013年7月22日月曜日


時刻がきています
 黙示録には、全世界の7つの教会に対する神の私信が述べられています。
 その中で、ラオデキヤ教会に対して主は次の様に語られました。「わたしは、
あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わ たしは
むしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」(3章15節)
 これは、神さまのことを実によく表している言葉です。神さまは、私たちが熱
いか冷たいかどちらかであることを好まれるのです。パウロを見てくだ さい。
イエス・キリストに出会う以前の彼は、主の弟子たちを脅かし、殺害の意をもっ
てダマスコに至るまで迫害していた人物です。しかし主はそのサ ウロを180
度変えました。熱心に迫害していた者が、今度は熱心な神の使徒となり、豊かに
神の実を結びました。
 聖書を読む限り、一番いけないのは、熱くも冷たくもない人です。残念です
が、神さまは、その人を用いることはできません。だから、前述の聖書も 「わ
たしの口からあなたを吐き出そう」(16節)と続きます。
 ローマ人への手紙13章には「あなたがたは、今がどのような時か知っているの
ですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき 時刻がも
う来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちに
もっと近づいているからです」(11節)と書かれています。
 私たちは、リバイバルを召しとして歩み始めてから約30年になります。初めて
主にであった、あの聖霊による喜びを覚えていますか。この時代に、 皆さんが
主から受けた約束は成就します。それゆえ、主の恵みによって、熱心を奮い起こ
し、目を覚まして主に従ってゆきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2013年7月28日号(第738号)より転載—

2013年7月20日土曜日


禍から祝福へ
 先日、借家の大家さんが、賃貸業を止めるから三カ月以内に出てください、と
言ってこられました。私たちには何の用意もなく、降って湧いたような 試練に
恐れを抱きました。
 しかし、その日の夜の聖書通読箇所から神は、「あなたがたはこの山に長くと
どまっていた。向きを変えて、出発せよ」(申命記1章6節)と語って くださ
り、この引っ越しは、大家さんを越えて神から来ているものだと確認しました。
 確かに、私たちは14年もとどまっていました。そしてこの時に新しい歩みのた
めに召し出してくださったのです。同2章3節には、「北のほうに向 かって行
け」とありますが私たちの家の真北は永山という町です。そこは、旭川市の中
で、最初に開拓された村だといいますので、みこころを感じまし た。
 事実、永山に適当な物件がありました。しかし保証人の件で借りられませんで
した。もうどこも貸してもらえないだろうと、意気消沈していました。 経済も
物件も私たちには手の届かないもののように見えました。
 こうなれば私たちの行き着く先は、天の御国の父なる神さま以外にはありませ
ん。私たちは、この問題を差し出し、神さまに感謝の声賛美の声を上げ まし
た。切々と訴える祈りの声を神は聞いてくださいました。まず、引っ越しに関わ
る経済が与えられました。そして、物件ですが、以前図面を取り寄 せた不動産
屋からの問い合わせがあり、何と永山の物件を見せてくださいました。そしてそ
こが神が用意されたものだと確信しました。
 本来なら、路頭に迷う展開ですが神はそれを祝福に変えられました。これこそ
神の栄光です。感謝と賛美を主にささげます。   (イスラエル北 野)

 み声新聞2013年7月21日号(第737号)より転載—

2013年7月11日木曜日


虹は語る
虹を見ることは、この上ない喜びです。聖書の中で最初に虹が出てくるのは、創
世記9章13節です。「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それ はわたし
と地との間の契約のしるしとなる」と書かれています。
 ノアの時代、人類の罪が目盛りに達し、神は洪水によって人から獣に至るまで
あらゆる肉なるものを滅ぼそうとされました。神はノアに箱舟を造るよ うに言
い、大洪水を起こし、箱舟の中にいた者たちだけが助かりました。しかしこのこ
とで神は心を痛め、もう水によって滅ぼすことはしまい、と、約 束の虹を与え
てくださったのです。
 それが虹の出自ですが、それを超えて今や虹は祝福のしるしとなっています。
私事ですが、長く病院に入院していた時、恐れと不安がありました。こ れで大
丈夫なのだろうかと悩んでいた時、私の部屋の窓から、あらぬ方向なのに、虹が
出たのです。言葉にできないほどの慰めを受けました。
 虹のどこがいいって、それはタイミングです。主は全てご存じで絶妙のタイミ
ングで虹を見せてくださいます。
 先日、祈祷会で私たちの直面している問題を、感謝と賛美の声をあげつつ力の
限り、主をほめたたえました。すると突然激しい雨が下り、雷の声がと どろき
ました。祈りは聞かれたといわんばかりの天候異変に、立って表に出ました。走
りながら、心の内に虹が出ると強い確信が来るのです。
 果たして、外に出た時、ちょうど神さまが虹を作っておられたところでした。
うすい虹が置かれていて、見る見るうちに虹は鮮やかで、光を放つ二重 の虹と
なりました。私たちは数日後、解決と神のご栄光を見ました。虹は祝福のしるし
です。神さまは私たちを強めてくださいます。(イスラエル北 野)
み声新聞2013年7月14日号(第736号)より転載—