2016年12月28日水曜日

足を洗われたイエスさま
 過越の祭りを前にして、イエスさまはご自分が世を去って父なる神のみもとに行くことを知られ、世にいるご自分の者たちに、その愛を残るところなく示されました。
 イエスさまは、夕食の席から立ち上がると、上着を脱ぎ手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭き始められました。
 シモン・ペテロの順番になると、彼は「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」と言いました。イエスさまは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。
 するとペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」と言いました。イエスさまが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語ると、今度は「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」とイエスさまはお答えになりました。(ヨハネの福音書13章参照)
 イエスさまは神です。しかし、神の在り方を捨て、仕える者の姿勢を取り、私たちに愛を示されました。足を洗ってくださったことは、人が日々犯してしまう日常のどのような罪をも赦してくださる、ということなのでしょう。
 イエスさまは、世ではご自分を喜ばせることなく、私たち罪人を愛し、最後には救いのためにご自分の命さえ捨ててくださいました。足を洗うイエスさまの謙遜は、私たちへの愛の現れです。イエスさまは私たちの罪を贖(あがな)うために低くなってくださいました。今度は私たちが低くなって、その愛を伝えるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月25日号(第916号)より転載—

2016年12月19日月曜日

恵みと律法
 クリスチャンであるAさんは、時に、同じクリスチャンである奥さんのことを、律法学者M子・パリサイ人M子と呼ぶと言います。どうやら妻という存在は、夫に近すぎて、自分ができないことを棚に上げて、無理に夫に理想を押し付けてしまうところがあるようです。また、良かれと思って夫に進言することにおいても、それが度を越すと、あれをやっていない、これもできていない、といつのまにか夫を責めるようになります。こうして、まんまとサタンのわなに掛かってしまいます。
 しかもそれがサタンの仕業だと気づくのは、大概全てをやり終わってしまった後です。夫はスーパーマンではなく痛みも弱さもある生身の人間であり、その中でも精いっぱい頑張っていてくれるのだということが、妻には見えなくなっているのです。サタンに惑わされ、しなくてもいい戦いを、幾度重ねたことでしょうか。
 イエスさまは、マタイの福音書で「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない、とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(9章13節)とおっしゃいました。あわれみは恵みであり、いけにえは律法です。恵みは律法に打ち勝ちます。イエスさまが私たちに図ってくださるのはあわれみです。
 さらに同12章にはイエスさまについてこう書かれています。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(20節)いたんだ葦、くすぶる燈心は、私たちの弱さのことを言っています。もう駄目だ、という状態であっても、イエスさまのあわれみは尽きません。イエスさまは最善をなしてくださいます。律法には救いがありません。神の恵みこそ、私たちが立つべき土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年12月18日号(第915号)より転載—

2016年12月11日日曜日

雪よりも白く

 今年の旭川は例年より雪の訪れが早くなりました。11月というのに、気温は氷点下10度を記録し、あっという間に根雪になりました。東京でも11月としては54年ぶりの降雪を記録したそうです。
 あれは、32年前のことです。その日の東京も珍しく大雪でした。私は、友人に連れられて初めてM教会に行きました。そして、祈りの部屋で救いを受けました。きよい水が頭のてっぺんから足のつま先に向かって流れてゆくような聖霊の注ぎかけを受け、うまく表現できませんが、その日私は、確かにそこで新しく生まれました。
 教会からの帰り道、大雪に足をとられて何度も転びました。それでもうれしくてうれしくてなりません。雪の白さが、私の罪を赦してくださった神さまの贖いを思わせ、非常な喜びが心に注がれていました。
 後にそのことを書いてある聖書の言葉を見いだしました。イザヤ書1章18節にはこのような一文があります。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」というものです。
 雪が天から降り注ぎ、全てをすっぽり包み込むように、私の罪もまたイエスさまの流された血潮によって覆われました。そして、父なる神は、私たちを見るにあたってイエスさまの血潮を通してご覧になるのです。私たちは贖われたのです。イエスさまの十字架によって今や、父なる神は、あたかも一つも罪を犯していない人が受けるかのような最善最高の恵みを、私たち一人一人に与えてくださるのです。
 神さまは、私たちを愛してくださっています。神さまは助けてくださいます。主の名を呼んで今、み父のみもとへ帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月11日号(第914号)より転載—
富について
 私の伯母は印刷会社を経営しています。山の中腹に家を建て、手入れの行き届いた庭を造り、茶の湯の備えがあります。高価な人形作りを趣味とし、また切り子細工を集めました。なかなかの手腕の持ち主で、裕福です。
 しかし、聖書には何と書かれているでしょうか。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(中略)すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものでなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(ヨハネの手紙第一2章1517節)とあります。
 また箴言に美しい祈りが掲載されています。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。(中略)貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30章7~9節)というものです。
 実に清らかで美しい祈りです。私もまた繰り返しこの箇所を開いて祈ります。私たちは持たなくていい重荷をどれだけ負っていることでしょう。
 世の「欲」がキーワードでしょう。テモテの手紙第一6章では、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(6節)と書かれています。
 イエス・キリストを信じ、救いを得ましょう。どのような富も必ず廃れ、永遠のものではないからです。
 しかし、イエスさまに従うなら、いつまでも続く、永遠のいのちと報いを与えてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月4日号(第913号)より転載—