2022年12月29日木曜日

恐れる必要はありません。 

 イスラエルの神・主は、ご自身の民であるイスラエルを深く愛しておられました。申命記1章によると、不信仰によって神に聞き従わなかったイスラエルはさばかれ、40年間、彼らは荒野への道を行くことになりました。しかし、その荒野にあっても主は「全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれた」と書かれているように(31節)、民を抱きかかえるようにして守られました。また84節には「四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」と書かれており、さばきとはいえ、そのお取り扱いは神のご愛と守りのうちにあったことが記されています。

 私たちは、ここから何を学ぶべきでしょうか。それは、神の愛です。主は愛の神です。そのあわれみは深く大きく、さばきにあっても私たちに対するあわれみで胸を熱くしておられます。神は、私たちを助けてくださいます。確かに、義なるお方なので私たちの罪はさばかずにはおられませんが、同時にそのご愛によって、助けの御手を差し伸べずにはいられないのです。

 ヨハネの福音書ではこのように書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(316節)

 父なる神さまは、世にある私たちを愛しているが故に、ご自身のひとり子イエスさまを下さいました。イエスさまは、肉において私たちの罪を負われ、十字架の死、そしてそれに続く復活によって、尊い血潮を流し、贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。これによって御子を信じる者は義とされ、私たちは一度も罪を犯したことのない者の祝福を受けるようになりました。ここに神は私たちへの愛を示しておられます。

 日々の生活の中で、私たちには内にも外にも恐れがあります。人生には予期せぬ悩みや困難がつきものです。しかしその中にあっても、私たちは、神にあって圧倒的な勝利者となります。なぜなら、私たちの信仰生活は、私たちの力によって成り立っているのではなく、神によって支えられているものであるからです。

 ローマ人への手紙8章には、このような一文があります。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(中略)私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(略)私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(3139節抜粋)

 何があろうとも、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことができるものは一つとしてないのです。ですから、私たちはもはや襲い来る患難や問題を恐れる必要はありません。神の愛は問題よりも強いのです。そして、主のくびきは負いやすいのです。あなたではなく、神があなたを支えています。それ故、どのような問題においても、私たちは勝利しています。何があろうと恐れる必要はありません。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月24日土曜日

神は光 

 神さまってどんなお方か、というとヨハネの手紙第一ではこう書かれています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(15節)。これを語ったのはヨハネです。ヨハネは、イエス・キリストの12弟子のひとりで、主がことに愛された最年少のしもべです。彼は、神を語るときしばしば光というふうに言い表しています。

 例えば、よく知られているのは、ヨハネの福音書15節や9節で、それぞれ「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(9節)と書かれていて、光は神と置き換えることができます。光は神の属性で、改めて顧みるとそこには強力な力が発揮されています。

 神は光であり、光は闇に対して圧倒的な勝利を持っています。私は、暗所が苦手です。真っ暗で何が置かれているか分からないので、動けばあちこちに体をぶっつけてしまうのが嫌で、闇の中は怖くてとても動けません。しかし、そこに一筋でも光がともるとどうでしょう。たちまちすべてがあらわになります。瞬く間に闇は退き、その様は光の闇に対する勝利です。どんなに深い闇であっても、闇は光に打ち勝つものではないのです。そしてこのような圧倒的な力こそ、まさに光が持つものなのです。

 それ故、私たちの心が暗闇の中にひしがれているとき、こころに光をお迎えしましょう。光とは、御子イエス・キリストです。イエスさまは神のひとり子で、私たちを救うために世に来られた救い主です。イエスさまを信じる者は、死からいのちへと移っており、たましいの救いさえも受けています。

 こころの暗闇をこのキリストの光で照らす時に、私たちは自分を知り、また罪を知り、変えられていきます。ですから、こころに光を置きましょう。すると、闇は消え去ります。そして見えるようになったら、こころのお掃除ができるのです。私たちの一つ一つの罪もまた赦され、解放されてゆきます。

 大切なことは、イエスさまをこころにお迎えすることです。あなたのこころは今、何でいっぱいになっていますか。古いものは捨て、新しくキリスト・イエスをこころにお受けください。神のご愛はあなたを捉え、あなたが新しい人として生きてゆくよう導いてくださいます。時は満ちて来ています。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月17日土曜日

クリスマスの主役 

 年の暮れが近づくと、あちこちでクリスマスツリーを目にします。クリスマスを祝うムードでいっぱいです。チキンを食べたり、ケーキを食べたり、プレゼントを贈りあったり楽しいことでいっぱいです。年に一度、その日一日だけクリスチャンに戻る人も多くいて、教会も一年に一度の大賑わいです。

 私も、クリスマスの時期になるとクリスマスの聖歌を歌いたくてわくわくします。歌わないでは、それこそ年を越せません。特に「もろびとこぞりて」や「荒野の果てに」は愛唱歌で、声を張り上げて朗々と歌うことがなんともうれしいのです。もはやクリスマスは一つの文化です。深く世に浸透しています。

 とはいえこのクリスマス、実は「冬至の祭り」をベースにしている異教の祭りであることをご存じでしょうか。エジプトに起源をもつ五穀豊穣の母子像が、マリヤとイエスに置き換えられたのがカトリックでの聖母子の由来となっているのです。

 また、クリスマスの時期は、ちょうど「冬至」に当たります。これは、太陽の死と復活を意味するものであって、クリスマスは、その日を境に日が伸びてくることを祝う「冬至のお祭り」なのです。国境を越え、広くキリスト教が受け入れられるよう、現地の土着の宗教をリメイクしたのがクリスマスの姿なのです。キリスト教が異なる文化に食い込むほどまで躍進したのは、地球上にあるさまざまな地の母子像とその土着の宗教を、母マリヤと幼子イエスに読みかえ、重ね合わせて併合したことによると私は思います。

 ところで、クリスマスの主役はいったい誰だと思いますか。イエス・キリストというのが周知の事実です。でも、赤ちゃんということで無力さばかりが強調され、救い主という面が取り上げられていません。そこで考えた私の結論は、現代のクリスマスの主役はイエスさまでなくサンタクロースになってしまっているのでは、ということです。プレゼントをくれるのはサンタですし、多くの歌のもとになっているのはサンタです。赤と白の服を着て、メリークリスマスと語り、楽しませてくれるのはサンタなのです。

 それに引き換え、幼子イエスは飼い葉桶で眠っておられるだけです。しかし、覚えてください。父なる神が下さった本当のクリスマスの贈り物は、この神のひとり子であるイエス・キリストご自身であるのです。イエスさまは30歳から公生涯に立たれ、3年半宣教に携われました。最期は十字架で、私たちの罪を担い、私たちをその流された血潮によって贖(あがな)い、死なれました。そして、3日目によみがえられたのです。御子を信じるものは、すべての罪を赦され、永遠のいのちを受けます。

 ですから、このクリスマスの時、どうかイエス・キリストその人に、その生涯に、目を留め、神からの救いをお受けください。

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカの福音書211節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月10日土曜日

 

 愛は、一輪のバラの花のようです。かぐわしく、高貴で、たおやかで、しかもその茎にはとげを備えていて。派手なようでもどこか孤独で繊細で、私たちを魅了してやみません。

 私にとって愛はそういうイメージです。日本語では愛が意味するところは広いのです。比較すればギリシャ語では一口に愛といっても、少なくとも3つの言葉に分かれます。一つは神の愛を指し示す「アガペー」、次いで友愛を表す「フィレオー」、男女間の愛である「エロス」です。言葉が違うということは、その内容に区別があるということです。

 私の夫の母は、愛の奇才でした。夫は病弱で、長くは生きられないと医師から言われており、大切に育てられていました。でも小学校に入るようになると次第に勉強のことが言われるようになります。そんなある時、義母は単身小学校に乗り込み、先生を相手にたんかを切りました。「この息子は生きてさえいればそれでいいんだ。だからな、勉強しろなんて絶対言うんじゃないぞ」こんな大きな愛に夫は支えられていたのです。

 この義母を見て私は、親の愛というものは、どんな時でも無条件で自分の味方をしてくれるものなのだということを知りました。もちろん罪を犯した時、その罪は正しく裁かれます。しかし、だからといってその者を愛することをやめたりなどするでしょうか。しないです。豊かに赦し、むしろ立ち直ることができるよう、ねんごろに悔い改めへと導いてくださいます。だからこそ、この掛け値なしの無条件の愛は貴いのです。

 私たちは、例外なく罪の中に生まれ、やがては死んでゆく存在です。それをご存じな神さまは私たちを愛してくださり、罪過の中に死んでいる私たちをあわれんでくださいました。父なる神は私たちを救うために、ひとり子イエスさまを下さったのです。神さまにとってそれは大きな犠牲でした。しかし私たちへの愛ゆえに、神は私たちのすべての罪をイエスさまの上に置かれたのです。イエスさまは、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、神の大能の御力によって三日目によみがえられました。

 事実イエスさまは、約2千年前に初臨を果たされています。私たちを救うために肉を受け、世に来られたのです。そして3年半の公生涯の中で、ご自身が約束のメシアであることを世に示し、罪過に死んでいる私たちの身代わりとなって罪を担い、十字架での死によって私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。

 この主イエスの十字架を信じることによって、私たちは神と和解し、永遠のいのちを頂きます。そして後には、もはや死ぬことのない復活のからださえも受けるようになるのです。神は愛です。私たちはこのご愛のうちを歩みましょう。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書316節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月3日土曜日

感謝を学ぼう 

 コロナウイルスとの戦いも3年を数えるようになりました。ロシアによるウクライナとの戦争も、収まるどころかその影響を受けて、地球規模で戦争の火種が動き始めています。また、家計を預かる主婦として、食物を初めとして、公共料金やさまざまなものが一斉に値上げを始めていて、生活の厳しさを肌身で感じています。インフレです。これからお金の価値も変わるでしょうし、既に電子マネーが力を持ち始めています。21世紀は、20世紀とはまた別な時代として日々歩みを進めています。AIITを用いた世界のこれからは、黙示録を解き明かすものとなるでしょう。

 私たちが向かおうとしているこれからの社会は、最終的には一握りの支配者と多くの奴隷(被搾取層)というような構図になると言われています。そうなれば、今までにはなかったような厳しい時代になるでしょう。そして、それらはキリストの再臨が近いということのしるしです。

 マタイの福音書6章でイエスさまは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)と語ってくださいました。本当にその通りです。私たちは日付けを越えてまで心配を引きずる必要はありません。また、パウロはピリピ人への手紙4章で「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(67節)と書きました。

 知っていただく、というのがイエスさまの恵みを表しています。神さまは、私たちを愛しておられるので、私たちに常に深い関心を寄せてくださっています。神は、思い煩う私たちの成り立ちをご存じであるので、そうではなくて感謝をささげなさい、祈りなさい、痛んだ心を差し出しなさいとねんごろに語ってくださっているのです。そしてそうすることによって確かに神は、私たちの心と思いを守ってくださいます。神の慰めは実に深いのです。

 終わりの時代になると、戦争や飢饉(ききん)など、さまざまな患難困難が勃発します。それ故その時代に生きる私たちは、感謝することを学んでいきましょう。どれ程悪いことがあっても、神は全てを働かせ、それを益と変えてくださいます。私たちは、神に愛されているのです。

 テサロニケ人への手紙第一5章に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1618節)という一文があります。私たちはここから、感謝を学びましょう。「すべての事について」と書かれているので、感謝できないような悪いことも感謝の対象です。そして今がその時です。どのような患難が来ようと、主は私たちの避け所となってくださいます。神はご自身に身を避ける私たちを、感謝の人として勝利のうちに立て上げてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/