2022年11月26日土曜日

いざ死を前にした時~父のラブレター 

 私の両親は、大恋愛の末、結婚しました。母の里は、父を婿養子に迎えたいと言ったそうです。しかし、嫁にもらいたいと、あくまで父は信念を通し二人は結婚しました。

 そんな二人であっても、子が生まれ、結婚生活も落ち着くと、父は他に女性をつくりました。母の苦しみはここから始まり、家庭には離婚の2文字が絶えず重くのしかかっていました。ところが、いよいよ別居しようという時、主の手が動きました。父が肝臓がんであることが分かったのです。

 非常事態で、別居は棚上げ。母は、残り少ない人生、一緒に居たい人といるのが良いと考え、そのことを父に伝えました。父はここで初めて自分の齢(よわい)を見、今大きな岐路に立たされていることに気付いたのです。父が出した選択は、母でした。そして家庭です。本当にイエスさまは父母をあわれんでくださいました。二人は生まれ変わって2度目の新婚夫婦となり、ともに一つとなって闘病に向かいました。

 病気は進み、召される前に私が差し出した紙に、父は渾身の力を振り絞って何かを書きつけました。ひときわ大きな字で「有難う」と、小さな字で「ごめん」、そして「陽子へ」と読めました。それは、ラブレターでした。母に向けられた、母にしか読み込めない二つの言葉です。

 いざ死を前にした時、人は何を思うものなのでしょうか。殉教者ステパノは、石打ちにあいましたが、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と語ると、ひざまずいて、大声で叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(使徒の働き75960節)

 イエスさまも、十字架にかけられた時こう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカの福音書2334節)。二人とも、自分を殺そうとする相手とその罪を赦し、とりなし、祈っているのです。

 小さな偶然が重なって、私もまた十数年前に、今まさに死ぬという極みを体験したことがあります。今まさに天に行くという時、うれしかったのは、同43節の「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ということばが信じられることでした。今日中に天国(パラダイス)に迎え入れられるというのは緊張しましたが、やはり力強い約束です。ただちに移されるということばは心の恐れを消し、約束通りイエスさまが共にいてくださいました。

 興味深いことに、死を前にしたら世にある戦いやねたみそねみの数々は、一斉に遠くなります。それらは実に小さなことで、そんなことよりも、目の前にいる人の1人に福音を宣べ伝えるほうがはるかに素晴らしいと、心の向きさえ変わりました。

 また、赦すことも重要なことでした。私たちは罪人(つみびと)ですから、神の前に互いに罪を言い表し、赦し、捨てることが大切です。ステパノも主イエスも、自分を殺す者を赦して死んでゆきました。彼らの罪が残らないためです。神があわれんでくださるために、そうされたのです。

 いざ死を前にした時、頼りになるのはやはりイエスさまでした。主のうちにはすべてがあります。勇気を持って主イエスを信じ、神と和解し、神と共にある人生の祝福を、お受けいたしましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月21日月曜日

ハロウィーン 

 1031日は、ハロウィーンでした。皆さんの頭には、今年、某国で起こったハロウィーン圧死事故のことが思い浮かぶのではないでしょうか。道路に群衆が押し寄せ、身動きが取れず、少なくとも150名以上の人々が命を落としました。

 これから、12月のクリスマス、1月の新年、2月のバレンタインデーなど、世は祭りが続きます。祭りといえば、そこには意味があります。多くは収穫を祝うところから来ているのですが、実際、祭りの背景には霊的な意味があるものなのです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていますが、実は冬至の祭りがベースになっており、バレンタインは、修道士バレンタインが、生活に困る者に必要な金品を贈ったという史実から、チョコを送って愛を確認する日になりました。日本の新年は、お正月さまを迎える日としてお祝いをします。

 ハロウィーンは、日本では近年になって祝われ始めました。多分、お菓子屋さんが火付け役になっていると思います。ハロウィンは、もともとは古代アイルランドに住んだケルト人を起源とするものです。古代ケルトの暦に従って111日には諸聖人に祈りをささげる「万聖節」があります。その前夜祭として大みそかの31日に、ハロウィーンが持たれるのです。伝承では、この日に先祖の霊が戻ってくると言われています。しかし、悪霊も一緒にやって来て、作物に悪い影響をもたらしたり、子どもをさらう、と信じられていたので、そこから身を守るため仮面仮装に身をまとうのです。そして、かの有名な「トリック・オア・トリート」の声があちこちで聞かれます。

 悪魔や魔女に扮し、お菓子をもらうことは、一見、無害で楽しいお祭りのように見えます。しかし、それは隠れた罠です。冷静になって考えると、悪魔の衣装を着て喜ぶなど、祭りでもなければ普通では考えられないことです。某国で起こったハロウィーン圧死事件は、その背後にハロウィーンに働く霊の関与があったと私は考えています。一気に150人を超える者の命が失われたのです。ここまでヒートするのは祭りであるからで、やはり祭りの土台には霊的な動きがあるとされるべきでしょう。祭りを良いことに、その危険な霊を無自覚に受けているのです。

 霊的な事柄に関して、聖書は一つの指示を与えています。「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。(中略)イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(ヨハネの手紙第一413節)というものです。

 霊には力があります。しかし、一口に霊と言っても、神から来るものと悪霊によるものがあります。そのことをわきまえ知ることができるよう、試し、見分ける必要があるのです。

 救いは、主イエスに属するものです。イエスを持っている人はすべてを持ち、永遠のいのちまでも持っています。一方、イエスを告白しないものはどれ一つとして神の霊ではありません。行き着くところは永遠の滅びです。イエスは主、また、いやし主です。救いは、イエス・キリストにある、これこそ私たちの信仰であり、また確信です。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月12日土曜日

弱さを誇る 

 キリスト・イエスの使徒であるパウロは、成功者であり、世が推奨するものすべてを持った人物でした。生まれながらのローマ市民で、最高学府であるガマリエル門下に属し、律法においては誰よりも進んでいました。エリートと呼ぶにふさわしい者であったのです。

 ところが、皆さんがご存じのように、青年サウロはキリスト・イエスに対する迫害に燃えていました。祭司長たちからの権限と委任を受けて、聖徒たちを追ってダマスコまでやって来ました。そして、そこで主の声を聞きます。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ

 それはイエスさまの声でした。イエスさまがサウロに現れてくださり、この一件を機にすべてが一変します。迫害者サウロは、キリスト・イエスのしもべパウロに変えられ、この日を境にパウロは今まで迫害してきたユダヤ人に対して、一転して福音を信じるようにと説く神の器になりました。

 その後のパウロの働きは素晴らしいものでした。詳しくはコリント人への手紙第二1112章に記されています。11章でパウロはキリストの福音のために、誰よりも多く患難困難の中を通ったことを記しています。今までのパウロの力は、自分の強さ、すなわち社会的成功にありました。しかし、その日以降は自分の弱さ、すなわちありのままの彼を通して働いてくださるキリストの力により頼んで生きるようになったのです。

 1130節でパウロは「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」と語りました。「弱さ」は「足りなさ」と言い換えても良いでしょう。この足りないところにキリストの素晴らしさが働くのです。弱さのうちにいかにキリストの力が働くのかをパウロは知っていたのです。それで、パウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(129節)と言い得たのです。

 このことは、長年、弱さは乗り越えるべきハンデイだと思っていた私にとって、驚くような教えです。しかし、イエスさまはパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(129節)と語られました。弱さは、一見マイナスのように見えます。しかし、それは世の認識であって、神と共に歩む人生において弱さは、神のみ力の現れとなり、また私たちに大きな恵みをもたらすものであるのです。

 こういう訳で、私たちもまたキリスト・イエスを信じ、救い主として、また自分の主として心にお迎えいたしましょう。私たちの力は、他でもない主のうちにあります。何を誇りとするかと問われた時に、弱さと答えたパウロのその信仰に倣いましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月6日日曜日

天国 

 昨年最後の日曜日に、教会の姉妹が召天しました。姉妹とは、教会のスタート時から今に至るまで30数年間、共に教会で過ごしました。親しい方であったので第一報を聞いた時には驚きました。けれども、彼女は天国に行った、ということがなぜかよく分かりました。そして、天国が急にとても近く感じられるようになりました。

 天国は、私たちクリスチャンにとって故郷でありホーム(家)です。懐かしい方々がそこにおられます。すべてのことを感謝することを教えてくれたマーリン・キャロザースさんや若いころ大変お世話になった新井先生、断食祈祷の力を教えて下さった崔子実先生も。フィリピンで殉教したジャッキーやジュリエッタたち、そして私の父も息子も。他にもSさん、Mさん、Tさん、Aさんもと枚挙にいとまがありません。多くの友人知人が既に御国の子となって、パラダイスにいます。ひょっとすると地上にいる私たちより天にいる者たちのほうが人数多くなったかもしれません。

 天に召されて、今、姉妹は、天国のすばらしさに満ち足りていることでしょう。先に天に行かれたご主人とも再開を果たされたでしょうし、ひょっとしたらマーリンさんとともに「プレイザロード」と神を讃えているかもしれません。姉妹の喜びが伝わってくる思いがします。

 天国がどれほど素晴らしいところか、皆さん薄々は分かっておられるように思います。しかし、知ってはいても、この素晴らしい天国に入るにはどうすればよいのかまで知っている人は極わずかです。また、死んだあと自分はどうなるのか、これも誰もが問いたい疑問です。

 聖書によれば、イエスさまを自分の救い主と信じる者は、罪赦されて、死んだらパラダイス(天国)へ行きます。しかし、信じることをせず、罪の赦しを受けない者は、おのれの罪と不義の中に死にます。そしてハデス(黄泉)に置かれるのです。日本語では、一口に「地獄」と言われていますが、聖書では地獄は「ハデス」と「ゲヘナ」の2つに分かれていて、前者ハデスはキリストを信じないで亡くなった死者が一時的に置かれる場所で、後者ゲヘナは、文字通りの地獄で、昼も夜も苦しみを受ける硫黄の燃える火の池です。

 信じることによる天国の救いのハードルは、驚くほど低いことを知ってください。ローマ人への手紙10章には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(910節)

 すべての者が救われるために、神はただ御子を信じることを唯一の救いの条件とされました。信じるならば救われる、ただこれだけです。神はあなたが信じて永遠のいのちを受けることをみこころとされています。福音を信じましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/