2023年11月29日水曜日

人生は選択で決まる

 私たちは、意識・無意識のうちに日々いろいろなことを選択しながら歩んでいるものです。大きいことから小さいことに至るまでさまざまに選択した結果、今の自分がある、そう考えても良いのではないでしょうか。

 それとともに、人生には生涯をかけた決断をしなければならない時が訪れます。仕事や結婚などがそれに当たります。昔、教会学校でお世話になった福音派の牧師が、自分は今、生涯の中でめったにしないほどの大きな決断をしようとしている、と明かしてくださったことがあります。その牧師はご両親が開拓した教会を継いでいました。教会は祝福されており、すべてが順調でした。しかし、そのただ中で牧師は、今の教会を出て他の教団に入る導きを捉え、それを決断されたのです。信徒はみなそれは先生のわがままだと言い理解しませんでした。それを押し切って家族でアメリカに渡り、さまざまな導きを経て、今は日本で大きな教会を任されています。あの時、牧師はか細い神の声を聞いていたのだと思います。そして、それに従ったゆえに今の働きがあるのだと私は思っています。

 何を選ぶかは、人生を決定します。そして人生を変えます。モーセもパウロも、聖書に残るほど大きな働きをしました。しかしそれは、彼らが神の召しに応答したからです。へブル人への手紙によれば「モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(112425節)と書かれていますし、パウロは、キリスト教の迫害者でありながらダマスコ途上で天からの光に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒の働き2章参照)というイエスの声を聞き、召命を受けます。パウロはこれを機に180度一変した人生を歩むようになります。

 そして、これはモーセとパウロだけのものではなく、誰にもその人生の中で神が呼ばれる時があります。そして、何を選ぶかを決断すべき時がやってきます。Мさんは新聞屋さんでした。奥さまがイエスさまを信じたところ、ご本人いわく、けんかを売るつもりで牧師に会いに行ったそうです。ところが、逆に主に触れられてしまい、涙とともにたましいの牧者のもとに帰りました。救われたのです。そのМさんは今、牧師をしています。先日は、およそ考えもつかなかったであろうチェコ共和国に行き、路上で多くの群衆の前で賛美し賛美を導きました。こんな人生があるなんて、誰が知り得たことでしょう。

 人生は選択で決まります。イエス・キリストを信じるかどうかの決断が、私たちの人生やいのちを決定づけるのです。神は、すべての人がキリスト・イエスを信じ救われることを望んでおられます。すべては自由意志に任されています。でも、神にある人生を歩むことは、自分の心のままに歩む人生よりはるかに勝っています。

 神が私たちに語り掛けるか細い声を一心に聞き、その御声に聞き従いましょう。私たちは今、終わりの時代に差し掛かる、人生で最も大きな選択の戸口に立っているのです。全て神を選ぶ者を、神は選ばれます。神は私たちをご自身の栄光の現れとして用いてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 





2023年11月24日金曜日

空の巣症候群

  一昔前に、空(から)の巣症候群ということが盛んにメディアで取り上げられていました。子どもが巣立って行ってしまい、子育てをすることもなくなったことで急に心が空虚になることからそう呼ばれています。

 ある婦人が興味深い話をされていました。彼女の幻(まぼろし)、人生の目標は、マイホームを持つことでした。幸せを象徴するかのようなマイホームは、彼女にとって心からの願いでした。そして、幸いなことにしばらくしてから彼女は念願のマイホームを持つことができたのです。欲しいものを手にして、これからいかに幸せな日々が来るかと、彼女は大いに期待していました。ところが、それは長く続きませんでした。最初の23年は良かったのです。でも、やがて新居に慣れてくるとその感動も薄れてきました。彼女にとってマイホーム取得は人生の目標だったので、それを手に入れてしまうと、次に目標とするものが見いだせず、思いもしないむなしさが心に生じたのです。これも空の巣症候群の一つでしょう。

 人生には節目があります。節目ごとに行事があります。誕生、入学、卒業、就職、結婚、出産、退職などです。次から次へと私たちは、これらをこなしつつ年を取っていきます。そして、あっという間に人生の終焉(しゅうえん)を迎えるのです。世の歩みは、人との競争もあり、他者との比較で悩んだり、また、ねたみを抱いて苦しんだりします。勝ち組・負け組という言葉もあるように、毎日が戦いと言えるでしょう。世の欲は切りがなく、あれもこれも得ようとしていますが、これもまた風を追うようなむなしいものです。

 マタイの福音書44節でイエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られました。パンとは、生活してゆくこと食べてゆくことです。しかし人生は、単に生活ができればよいというようなものではありません。私たちの人生には意味があり、役割があり、使命があるのです。これは、食べること以上に重要なことです。冒頭で紹介した婦人は、自分の目的とはいえ、幻(まぼろし)を堅く握っていました。そして、それは神の定めた時にかなえられました。幻(ビジョン)は人を立て上げ、また育て上げます。神の前に、神のみこころにかなう願いを持つことは大きな力になります。

 反対に、幻(ビジョン)がない人生はつまらない人生です。まず、信仰が働く余地がありません。世のものを受けるでしょうが、それらはいずれ朽ちてゆきますし、やりたいことを全部やってしまったら、何が残っているでしょうか。それこそ空の巣症候群になりかねません。

 人はパンだけで生きるのではありません。日々の必要を追求すること以上のものが人生には用意されています。それは、神のみこころを行うということです。神のみこころを行うことは私たちの人生の目的です。この目的を持っていなければやがて淘汰(とうた)され、むなしく塵(ちり)に還ってゆきます。前述の婦人は、マイホームを得た後、むなしさが残りました。しかしその時、本当に必要なものは神の口から出る一つ一つのことばにあると知ったのです。彼女が追求するものは一変しました。

 神の口から出る一つ一つのことばが、私たちを生かします。神のことばは確かなものです。神のことばを土台とする人生は、何があっても揺るぐことがありません。それゆえ、あなたも主イエスを信じ、神のことばに立ち、幻(ビジョン)に生きる人生をお送りください。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月15日水曜日

再臨に向かって

  2022224日、ロシアがウクライナに、軍事行動を仕掛けたことからロシア・ウクライナ戦争が始まりました。少しずつ戦禍が拡大しつつあるところに、今度はハマスがイスラエルを攻撃しました。今は、両者とも激しい戦いを繰り広げています。そればかりかこの戦争に加わろうとする国々や民族の動きがあちこちで起こっていて、目が離せません。この戦争はまだ入り口です。でも、もはや引き返すことができないところまで来てしまったように思えます。

 イスラエルの歴史は、昔から、戦争から戦争、そして民族迫害の歴史でした。そしてそれらのことを今も昨日のことのように記憶しています。それゆえ、やられたらやり返す、また、やられる前にやれ、これが今のイスラエルの戦い方となっています。でも、そうせざるを得ない歴史をたどって来たのです。
 私たちは毎年10月の第1日曜日に世界中のクリスチャンとともに心を合わせてエルサレムの平和のために祈ります。平和とは何とうるわしいものでしょうか。戦いの中ではなおさらです。すべては神のお心の内にありますが、一刻も早く戦争が終結するように祈ります。そして、本当の平和が訪れることを願ってやみません。

 しかし、これには「時」があります。伝道者の書3章でソロモンはこう語りました。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(111節抜粋)

 ここにはそれぞれ正反対のことが書かれています。どちらが良いとかそういうものではなく、ただ、相反する二つのものにそれぞれに神の時というものがあるのです。生まれるにも死ぬにも、戦うにも和睦するのも、すべて神がその采配を握っておられます。

 私たちは今、戦争という局面を迎えています。それは長い年月語られてきた終末の「時」の始まりなのです。ここにおける全能者の計画があり、それが終わらなければ時代は移り変わりません。しかし、忍耐をもって備えるなら、遠からず神の決着を見ることになるでしょう。今、世界は再臨に向かって動いているのです。そしてその次に来る新しい世界へ向かっています。

 ルカの福音書にはこう書かれています。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」(34節)。その通り、私たちは再臨に向けて主の通られる道を用意していきましょう。イエスさまはまもなく、再び来られます。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月8日水曜日

安息

 若い頃から私は、何でもがむしゃらに突き進む人間でした。夜更かしが好きで、休むなんて時間がもったいないといつも思っていましたし、常に何かをしていないと落ち着きませんでした。今でもその傾向があります。でも、随分変えられました。

 聖書を読むうちに、だんだんと分かってきたのは、休むことが奨励されているということです。週に1度の安息日やヨベルの年などで、これらを守ることはとても大切なこととして先祖から受け継ぎ、今も継承されています。ユダヤ人にとって、休むことは怠惰ではなく、休むことは聖なることであるのです。何もしないでいるという安息の期間を持つことは、これから先のことに備えるための大切な営みであるのです。

 先日、ある精神科医が執筆した書物を読みました。生き物には生き残るために組み込まれた大切な機能があるというお話で、たいへん興味をかきたてられました。「桃太郎」では、おじいさんは山にしば刈りに行き、おばあさんは川で洗濯していました。これは、子孫を残すという役割を直接担う女性はより安全な、家のそばで働き、男は食を得るために外に出て働きます。このようにして、人類には生き残りの戦略が自然と働いています。男女の仕事のふるい分けもまた、人類が生き残るための知恵でしょう。他にも、熊は暖かい季節には食を得て活動しますが、食のない冬は、力を温存して生きるために冬眠します。これもまた生き残り戦略が刷り込まれている例だと紹介されていました。

 ここから私も、休むということは人間にとって、これから先を生きるため、また生き残るために備えられている重要な機関(機能)であるのではないかと考えるようになりました。人間もまた、休息期と活動期があります。活動期ばかりが目立ちますが、休むことは、場合によれば働くこと以上に重要なのです。

 というのも、安息することは創世記の始まりから言及されているからです。神は天地創造の際に、6日かけて、天と地とそのすべての万象を完成されました。それらは非常に良かったのです。それで神は第7日目に、なさっていたわざの完成を告げられました。そして、なさっていたすべてのわざを休まれました。そして、その第7日目を祝福し、この日を聖であるとされたのです。

 いかにこの安息が大切か、それは十戒にも取り上げられています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」(出エジプト記20810節)

 神が創造のわざを休まれたことと、その日を聖とされたことには密接な関係があります。この休みというのは私たちが毎日体験している休みとはちょっと異なります。この安息は万物の完成を告げ知らせるものであり、聖なるものであるのです。

 これらのことから、私たちは休むということがいかに大切なもので、聖なるものであるかをうかがい知ることができます。マタイの福音書11章でイエスさまはこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(中略)わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(2829節)

 生きる営みには働くことだけではなく安息が必要です。真の安息は休むことにあり、安息は主イエスの内にあるのです。ですから、あなたもまたイエス・キリストを信じ、イエスさまご自身から安息を学びましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月2日木曜日

あわれみといけにえ

  マタイの福音書9章のことです。パリサイ人たちは、イエスさまが罪人(つみびと)とともに食事をしているのを見て、それをさげすみました。それに対して、イエスさまは「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」、とおっしゃいました(13節)。これは、神の手を動かすのはあわれみであって、いけにえによるのではない、という意味です。人は罪人(つみびと)であるので自分で自分を贖(あがな)うことができません。ですから神はあわれみを語り、恵みの内に私たちを救ってくださるのです。これは、聖書の軸となる教えです。

 ルカの福音書18章に興味深い記述があります。パリサイ人と取税人、2人の者が祈るために宮に上りました。パリサイ人はそこで心中こんな祈りをささげました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人(つみびと)の私をあわれんでください

 聖書では「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(914節)と書かれています。あわれみは好むがいけにえは好まないというイエスさまのおことばは、この例話からも読み取れます。主は私たちがあわれみにより頼むことを好まれるのです。

 私たちの失敗は自分で自分を高くしてしまうことにあります。パリサイ人が誇り高々に述べた祈りの数々は、確かにそうそうできるものではないと思います。けれども神はそれに目を留められず、ただあわれみを請うた取税人を義(正しい)とされたのです。

 詩篇5117節にこんな一文があります。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。これは、ダビデの詩です。ダビデはウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、それを隠そうとウリヤを激戦区に送り殺してしまいます。姦淫に加えて殺人の罪を犯したダビデに、神は預言者ナタンを遣わしその罪を指摘されました。するとダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と罪を告白します。すると「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と神は語ってくださいました。これがあわれみなのです。

 罪人(つみびと)である私たちに対して、神のあわれみは実に深いです。主は砕かれたたましいを貴重なものとして受け取ってくださいます。さげすまず、むしろ寄り添い、そこに真実な悔い改めがあるなら、罪より深いあわれみを神は注いでくださいます。

 人の罪を赦すことのおできになる方はイエスさま以外にありません。イエスさまは、いけにえは好まないと語られました。そもそもそのいけにえも、本をただせば神がお造りになったものです。このようなものに人の罪を贖うような力があるでしょうか。

 それゆえ主イエスは、私たちに神のあわれみを学ぶよう勧められました。イエスさまは滅びに向かう私たちをあわれみ、十字架による救いに導かれました。私たちは神のあわれみによって無条件で救われたのです。そして、今や神の子です。神のあわれみにより頼み、恵みある人生を送りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/