2018年8月29日水曜日

 

 戦後の日本を建て上げてこられた方々が、今、一斉に高齢者になっておられます。そして、最も経済にゆとりがあるのもこの世代の方々だといわれています。それ故、ビジネスチャンスをうかがう向きもあって、ここ10年ほどあちこちで、立派なグループホームやセレモニーホールが次々と建てられています。
 「終活」という言葉が使われるようになったのも最近の事です。「死ぬことを念頭に置いてその準備をしよう」「子たちに負担をかけることなく、私らしい幕引きをしたい」。こういったニーズをつかんで、終活ビジネスは今や飛ぶ鳥を落とす勢いです。その中で、ある牧師は、「老後の備えより、死後の備えです」と語りました。
 私たちが通常考え得るのは老後の蓄えまでです。死後は分からないので、子たちに面倒をかけないように葬式費用を残しておく、あるいはセレモニーホールに積み立てをする、できることはそれぐらいでしょうか。
 しかし、本当に必要なのは、「老後」ではなく「死後」の備えです。イエス・キリストの福音によると、死後私たちは、イエス・キリストを信じ、パラダイス(天国)に行くか、あるいはハデス(よみ)に行くか、どちらかです。人の人生は死で終わるものではありません。
 私の田舎では、乳歯が取れたら、「スズメの歯より早く生えろ」と言って空に投げる風習があります。乳歯の後には永久歯が出てきます。同様に私たちの命もまた、この世の命の後に、キリスト・イエスが与えてくださる永遠のいのちが用意されています。イエスさまが、十字架で私たちを贖(あがな)って死んでくださったので、信じる者は救われ、永遠のいのちを頂きます。これこそ大切にしなければならない真の備え、真の終活です。(イスラエル北野)

み声新聞2018年9月2日号(第1005号)より転載—

2018年8月22日水曜日

囚人としてローマに

 私は18歳でイエス・キリストを救い主として信じ、救われました。そして献身し、クリスマスに受洗する予定でした。
 ところが、あとひと月というところで病気になり、郷里に帰り、大学病院に入院しました。病気は軽くはなく、体を動かすことにも人の手が必要でした。受洗は神さまのみこころだから何よりも優先されるはずなのに、私はベッドの上だし、礼拝を持つこともできない。一体何がいけなかったのだろう。初めて神さまの愛を疑いました。
 病床で、私の心は決壊直前のダム湖のようでした。これ以上何かを加えるならダムが決壊するそのギリギリのところに私はいました。一日一日忍耐をするのに精いっぱいで、つらさのあまり心を封じました。
 教会の牧師になぜこんなことが起こるのかと聞くと、「パウロは、囚人としてローマに行った」という話をしてくれました。パウロに対する神のみこころは、彼がローマに行くことにありました。しかし、その方法は私たちの思いとは異なり、囚人としての護送であったのです。
 パウロは無実であったので釈放されるはずでした。しかし、カイザルに上訴したため、カイザルのいるローマに行くことが決定しました。こうなると、今度は訴状をしたためるため、政府のほうがパウロの述べる福音がどんなものかを丁寧に聞く必要が出てきました。あらゆる人々が福音を聞くための主の御手が置かれていました。
 入院は母が付き添ってくれました。礼拝のテープを聞くようになり、程なくして母は救われました。病人として私は郷里に帰りましたが、実質は、家族の救いのために神が遣わしてくださったのです。
 神さまの道は、私たちの思いよりはるかに高く、慕わしいものです。そして主の道は全て最善です。 
(イスラエル北野)

み声新聞2018年8月26日号(第1004号)より転載—

2018年8月15日水曜日

ねたみ

 聖書に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ人への手紙1215節)という一節があります。これは、広く世に知られている教えです。けれども、これが聖書からきている教えであることを知っている人はそう多くはありません。
 喜ぶ者といっしょに喜ぶことも、泣く者といっしょに泣くことも心の問題です。相手と一つ心になろうとする低い心が私たちの側になければ、喜びも涙も分かち合うことはできません。
 さて、人の心にはねたみという罪があります。イエスさまを十字架につけたのもまた、このねたみでした。祭司長や律法学者たちは、群衆が自分たちを離れてイエスさまに行くのを見て、ねたみと憎しみに駆られました。そして、群衆を扇動し、イエスさまを十字架にかけて殺してしまいました。
 殺人の背後にはねたみの罪があると私は思います。人類最初の殺人は創世記のカインとアベル兄弟によってもたらされました(4章参照)。
 カインは弟のアベルが自分より優れたささげものを神にささげ、神に受け入れられたこと、しかし、神は自分のささげ物には一向に見向きもされなったことに、激しい憤りを覚えました。そして彼は、弟を野に誘い、弟を殺しました。弟が自分より正しかったので、正しいが故に弟を憎み、また殺しました。これがねたみの正体です。
 では聖書で言う、心を低くして、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい、とはどうすればできるのでしょうか。
 イエスさまを信じ、イエスさまを心にお迎えすることです。そして、私たちは神に愛されている、この真理を受け入れる時、私たちはねたみのわなから離れることができます。イエスさまをお迎えし、神の愛の中に住まいましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年8月19日号(第1003号)より転載—

2018年8月8日水曜日

福 音

 聖書は、私たち人間は、みな生まれながらの罪人(つみびと)だと語っています。その心にあっても行いにおいても、神から遠く離れており、罪過の中に死んだものでした。しかし、神はそんな私たちに心をとめてくださり、私たちが滅びることをよしとされませんでした。
 ヨハネの福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。
 神のひとり子とは誰でしょう。それは、イエスさまです。では、御子イエスさまをお与えになったとはどういうことなのでしょうか。
 神は、愛なる方であるとともに聖なる方であり、贖(あがな)いがなされていない、ありのままの私たちはとても近づくことができません。それ故、神は、ご自分のひとり子であるイエスさまを、救い主として世にお与えになりました。
 イエスさまは神でしたが、私たちと同じ肉を持ち、その十字架の死と復活によって、私たちを罪から贖い、神と和解させてくださいました。私たちを救うにあたって、イエスキリストは命さえも投げ出し、ここに贖いが完成しました。
 イザヤ書1章18節には、「たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる」と書かれています。
 イエスさまが十字架で流された血潮には力があります。それ故、福音を信じる時、神は私たちを十字架の血潮を通して見てくださいます。そして神はあたかも1度も罪を犯したことのない者が受けるような祝福を下さるのです。
 こういう訳で、あなたもまた、イエスキリストを信じ、神に立ち返りましょう。神は、永遠のいのちと祝福をもってあなたを愛しておられます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年8月12日号(第1002号)より転載—

2018年8月1日水曜日

神を恐れよう

 神への恐れのない言葉がいかに愚かで有害なことか、聖書から学ぶことができます。
 列王記第二7章は、サマリヤにひどい飢饉(ききん)が起こった時のことを書いてあります。自分が産んだ子どもを食べるほど、その飢饉はひどいものでした。
 預言者エリシャは、王の所へ行き「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる(極度の食糧不足が完全に解決され、激安で手に入れられるようになる)」と神のことばを語りました。
 すると王が寄りかかっていた侍従は、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と侮りを口にしました。
 エリシャは彼に「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることができない」と言いました。
 翌日、エリシャの言葉は成就します。大勢の民が食料を求めて出て来たため、侍従は民に踏みつけられ、門の所で死にました(1~17節参照)。
 エリシャは神のことばを語りました。しかし、それはあまりにも現実離れしているように思えたのです。侍従は、神のことばより現実を信じる人でした。だから、そんな事があるだろうか、と完全否定したのです。神を知らない人は、神を侮ります。しかし、神は生きておられる方であり、私たちが口にする言葉を聞いておられます。そして、その言葉に報いられます。
 神のことばを否定する者は神に否定され、神のことばを信じる者は神に受け入れられ、神の豊かな祝福にあずかります。
 こういう訳で、私たちは神を恐れましょう。箴言にはこのように書かれています。「主を恐れることは知恵の初め、聖なるお方を知ることは悟りである」(9章10節)
(イスラエル北野)

み声新聞2018年8月5日号(第1001号)より転載—

2018年7月25日水曜日

教 会

 神さまの働きは時代ごとにいくつかの区分があり、イエスさまが天に上げられた後は、「教会時代」が始まりました。「教会時代」は新約時代に起こされたものであり、今に至ります。
 「教会」は主の教えの中でもひときわ重要な奥義で、かしらなるキリストと、花嫁なる教会によってこの終末の時代、神さまは「教会」を通して働きを進められます。
 「教会」は、狭義では建造物を指すものですが、その意味するところは「エクレシア」すなわち、神に呼び出された人々の集まりをいいます。
 「教会」の持つ力は、想像をはるかに超えるものがあります。「教会」ということをまだ理解していなかった当初、私は、信仰生活は個人の信仰で何でもまかなえると思っていました。信仰があるなら教会に行かなくても大丈夫だ、というサタンの常套(じょうとう)句にまんまと乗せられ、うそ偽りを受け入れてしまったのです。
 ところが、ある時、病気になり入院を余儀なくされ、教会での日曜礼拝が守れなくなりました。最初は、ベッドの上で礼拝するので大丈夫だと、自信満々でした。しかし、それが半年になり1年になると、その礼拝はしぼんだ風船のようになり、力がなくなってきたのです。ここに至って「教会」が聖霊の源であり、また力であったことを初めて知りました。
 エペソ人の手紙1章23節には、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書かれています。
 「教会」は神さまのご臨在にあふれた所であり、教会にいるだけで霊は強められます。「教会」はキリストのみからだであり、私たちは教会の一部分一器官です。教会は、地上において神の国とその義が全うされる神の奥義です。教会に集いましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月29日号(第1000号)より転載—

2018年7月18日水曜日

祈りの格闘

 以前「祈りのちから」(原題:War Room)という映画を見ました。クローゼットを祈りの部屋にして、神さまと格闘し、素晴らしい解決を見ていくという映画です。八方手を尽くしたが何の解決もない状況になった人々が、神による解決に心を定め、祈りに向かう格闘の部屋です。
 祈りの格闘と言えば、真っ先に出てくるのはヤコブです。ヤコブは兄エサウを欺き、長子の権利を横取りしました。そんないきさつがあったので、郷里に帰るにおいて、ヤコブは兄エサウを恐れていました。兄が迎えに来ると知ると、もうどうすることもできなくなって、ヤコブはヤボクの渡しで自分の家族や持ち物を先に行かせ、一人残って、ある人と格闘します。
 それは受肉前のキリストとも言われています。夜明けまで格闘すると、その人は勝てないと見てとって、ヤコブのもものつがいを打ちました。
 「私を去らせよ。夜が明けるから」とその人は言いました。しかし、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と粘ります。
 その人は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と語り、祝福されました(創世記322428節参照)。
 ヤボクの渡しは、ヤコブにとってのウォールームだったのです。ヤコブは祈り切りました。
 私たちもまた、どうすることもできないような状況にある時、ウォールームに行きましょう。聖書にはこのように書かれています。
 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイの福音書6章6節)
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月22日号(第999号)より転載—

2018年7月11日水曜日

テロリズムの時代

 2018年7月6日、オウム真理教の教祖、麻原彰晃と教団の元幹部ら、合わせて7名に刑が執行されました。これによって、未解明の部分もあるようですが、一連の事件にひとまず幕が下ろされました。
 彼らが起こした地下鉄サリン事件は、今世紀におけるテロリズムのはしりといえます。独自に作った化学兵器による無差別大量殺人は世界中を震撼(しんかん)させ、21世紀はテロリズムの時代だと呼べるほど、各地でテロが相次いでいます。
 さて、ヨハネの手紙第一4章に、興味深いことが書かれています。「愛する者たち。霊だからといってみな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(13節)
 麻原は、オウム真理教の中でいろいろな宗教を援用しました。キリスト教もその一つで、私たちは聖餐(せいさん)式で主イエスの御血であるぶどう酒を頂くのですが、それをまねて麻原は自分の生き血を売ることをしました。他にもいろいろありますが、キリストに似せてはいても、イエスを告白しない霊はキリストのものではありません。麻原が信奉した霊はシバ神です。シバ神だからこそ、このような未曽有の大惨事が起こったとも言い得るでしょう。
 麻原を含む7名は命断たれました。しかし、麻原を用いた霊は生きており、次の麻原を探しています。悪霊は人を使い捨てにします。
 救いは、イエス・キリストにのみあります。この方によらなければ何の救いもありません。イエスは、あなたを愛し、あなたを買い戻すために、十字架であなたの代わりに死んでくださいました。主のもとに帰り、救いを受けましょう。

(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月15日号(第998号)より転載—

2018年7月4日水曜日

感謝の人になろう

 目は心の窓といいますが、マタイの福音書6章にも、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(2223節)という一文があります。
 かれこれ20年になります、私はこのことば通りの人に出会いました。『獄中からの讃美』の著者マーリン・キャロザース師です。
 最初にお会いした時は、失礼ながら、この人はもう天国に足を踏み入れていると思いました。あふれる喜びと、「Praise the Lord!(主をたたえよ)」と口をついて出てくる賛美の数々は、師を内側からこうこうと照らしているようでした。賛美するマーリンさんそのものが、私たちへのメッセージでした。
 テサロニケ人への手紙第一5章に「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18節)と書かれています。
 すべての事を感謝するとは、良い事だけでなく悪いと思われる事も等しく感謝するということです。
 そして、このようにして感謝を身に付けることは、語学を新しく学ぶことに匹敵するほど困難で、忍耐が必要だとマーリンさんは語りました。
 さて、感謝と賛美を学び始めたマーリン・チルドレンは、患難に対して、おのおの感謝とともに神の前に躍り上がって喜ぶことを実践しています。私は、ぴょんぴょん一筋ですが、幾つもの踊るパターンを持って自在に感謝している人もいます。
 あなたもまた、感謝と喜びの人となることができます。あなたの内側にある喜びや感謝は光であって、人々はその光を求めてあなたの所にやってきます。この光は決して消えることなく、たましいの救いへの道を照らすものとなります。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月8日号(第997号)より転載—

2018年6月27日水曜日

信仰の運用

 私の次女は、義母の性質を引き継いでか、宝石にも興味があるようです。
 新婚旅行の時、義母に勧められて記念にエイラート・ストーンの原石を買い求めました。それが気に入ったらしく、何度も私のところにやってきては「これは私のもの。もらうね。ありがとう」と告白し、もらう気満々です。
 記念品なので、最初はあげる気もなかったのですが、あまりにも熱心に言ってくるので、だんだんあげてもいいか、と言う思いになり、今はもう半ばあげた気になっています。
 本人は理解しているかどうかは分かりませんが、彼女は受けたと信じる信仰の原則を用いたので、現実がそのようになってきたのです。
 マルコの福音書11章にはこのように書かれています。「神を信じなさい」「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(2224節)
 すでに受けたと信じるその信仰を頂くということが信仰には必要です。信仰には行いが伴うのです。
 ヤコブの手紙2章26節には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」と書かれています。信仰は必ず行いと共に働くものであるというのが聖書の主張です。
 娘は、既に受けたと信じたので、状況はその通りに向かいました。確かに、信仰は行いと共に働くのです。祈ってすでに受けたと信じるならば、そこに純粋な信仰が宿り、その信仰は現実世界において、強力な受ける力となって、あなたの前に道を開きます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月1日号(第996号)より転載—

2018年6月20日水曜日

トマス

 イエスさまは、かねてからお弟子たちに語っていた通り、十字架で死なれ、3日目によみがえり、復活のからだをもってお弟子たちに現れてくださいました。
 週の初めの日の早朝、イエスさまはまず、マグダラのマリアにご自身を現されました。そして夕方、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた家屋の中に集まっていた弟子たちに現れてくださいました。イエスさまは、「平安があなたがたにあるように」と言い、弟子たちは主を見て喜びました。
 ところが、12弟子の1人であるトマスは、イエスさまが来られた時に彼らと一緒にはいませんでした。他の弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言いましたが、トマスは信じようとせず、「私は、その手に釘(くぎ)の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネの福音書2025節)と言いました。
 1週間後の日曜日。弟子たちはまたも室内にいて、今度はトマスも一緒にいました。イエスさまはそこに現れ、トマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)
 イエスさまは、トマスの言葉を聞いておられたのです。トマスは驚嘆し、「私の主。私の神」と言いました。イエスさまは「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(29節)とおっしゃいました。
 信仰には段階があります。目に見たものを信じることはたやすいことです。しかし信仰とは、神のことばに頼り、目に見えないものを見るようにして忍んでいくことです。それ故、イエスさまは、見ずに信じる者は幸いだ、とおっしゃいました。忍耐を働かせ、神のことばを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年6月24日号(第995号)より転載—

2018年6月13日水曜日

新しい時代

 東京アンテオケ教会に、AI(人工知能)ロボットのペッパー君(Pepper)が導入されました。早くも人気者です。誰かが「私っていくつに見える」と聞いたところ、見事言い当てたと聞きました。
 私が住まう旭川市では、某有名携帯ショップと某回転ずし店にペッパー君がいます。中でも興味深かったのは、携帯ショップでペッパー君が初老のおじさんに、「いくつになっても恋をしましょう」と声を掛けていたことです。こんなことも語るのかと驚きました。
 確かに自分には言いづらいことを代わりに言ってくれるという点では、AIは打ってつけの存在です。しかし、それはそれとして時代は大きく展開しています。かつてはIT(情報技術)といえばこれ、という存在であったパソコンですが、今はスマートフォンにとって代わられて、パソコンを持つ人は減ってきています。
 時代は世の終わりに向かっています。終わりとは何でしょうか。それは、キリストの再臨です。
 マルコの福音書1章3節には次のように書かれています。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
 これはイエスさまの初臨を語った預言であり、バプテスマのヨハネが出ました。そして今再び、主の通られる道をまっすぐにせよと、再臨に向けての備えが語られています。
 時代は新しくなりました。これから、今まで人が見たことも経験したこともないような事が起こるでしょう。神は最先端の技術をもってみわざをなし、ご栄光を現されます。
 気が付けば、私にマイナンバーがありました。やがて、マイナンバーは世界中の人々にも義務付けられ、人々を管理していくことになるでしょう。
 反キリスト、偽キリストが台頭してくる時代になりました。目を覚ましてまいりましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年6月17日号(第994号)より転載—

2018年6月6日水曜日

再臨に備える

 マタイの福音書24章は小黙示録と呼ばれ、終末の事柄、特に主の再臨に向けての備えの必要性が説かれています。イエスキリストは、定められた時に一度私たちを罪から贖(あがな)うために世に来られましたが(初臨)、今度は世の終わりに再び王としてやって来られます。これを再臨と言います。
 同25章には再臨を指すと思われる例話があります。イエスさまは、天の御国は例えて言えば、それぞれがともしびを持って花婿を出迎える10人の娘のようですと語られました。そのうちの5人は愚かで、5人は賢い娘たちでした。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意していませんでした。賢い娘たちは、ともしびと一緒に入れ物に油を入れて持っていました。
 花婿なるイエスさまが来られるのが遅れたので、皆、うとうととして眠り始めたところ、夜中になって「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がして、娘たちは皆ともしびを整えました。
 ところが愚かな娘たちは、油を用意していなかったので、ともしびが消えそうになりました。そこで、賢い娘に油を分けてくれるよう願ったところ、分けてあげるにはとうてい足りませんから店に行ってお買いなさいと言われ、買いに行ったところに花婿が来ました。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。
 花婿はキリストを指し、花嫁は教会、10人の娘は教会員、油は聖霊を指します。信者は聖霊に満たされて主の再臨に備えるよう勧められています。しかし、その日その時を私たちは知りません。それ故、目を覚ましていなさいと繰り返し聖書は語るのです。今、時代は再臨の時代に来ています。いつ主が来られても良いよう目を覚ましていましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年6月10日号(第993号)より転載—

2018年5月30日水曜日

4番目の人

 紀元前600年ほど前のこと。バビロニア帝国の王ネブカデネザルは、大きな金の像を造り、これを拝ませました。そして、この像にひれ伏して拝まない者は誰でも火の燃える炉に投げ込まれる、というおふれが出されました。
 バビロン捕囚で連れて来られたユダヤ人の青年たち、すなわちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、この事を知りながらも、像も王も恐れることなく、拝むことをしませんでした。
 そこで、ネブカデネザルは、もし、拝まないなら火の燃える炉に投げ込まれる、と彼らに告げました。そして、どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう、と彼は言いました。
 青年たちはこう答えます。「このことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」「しかし、もしそうでなくても、王よ」「私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(ダニエル書3章1718節)
 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、顔つきが変わって、炉を7倍熱くせよと命じ、3人は縛られ服を着たまま炉に投げ落とされました。
 しかし次の瞬間、王は目を疑いました。炉の中では何と4人の者が縄を解かれて歩いているではありませんか。しかも、第4の者は神々の子のようだ王は語り、彼らに出てくるよう言いました。火は彼らに何の効き目もありませんでした。「どの神が私の手からあなたがたを救い出せるか」と言ったその神が、彼らを救いました。
 特筆すべきは、彼らの神、主への信頼です。彼らは死をもってしても神に信頼する道を選びました。それ故、神もまた真実であられ、奇跡をもってその信仰に報いてくださいました。3人を救い出した神とは、イエス・キリストです。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年6月3日号(第992号)より転載—

2018年5月23日水曜日

人を恐れた王様

 聖書の箴言に、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」という一文があります(2925節)。人を恐れるとわなにかかるとはその通りで、サムエル記を読むたびに私は、サウルとダビデ、この対照的な二人の王のことを思い起こします。
 サウルは、イスラエルの初代の王様です。彼は、幾度も致命的な間違いをおかしました。その一つは、サウルに油を注いで王としたサムエルが、約束の日時に来なかった時のことです。民が今にもサウルから離れ散って行こうとしたのを見て取ると、サウルは思い切って祭司にしか許されていない全焼のいけにえを自分でささげました。人を恐れてしまったのです。そこにサムエルが到着し、サウルに、あなたは愚かなことをした、今やあなたの王国は立たないと宣告されました。
 更に、サムエル記第一15章では、サウルにアマレクを聖絶せよとの主の命が下ります。サウルは主に聞き従っているつもりでしたが、実際は良いものを惜しんで、値打のないものだけを聖絶しました。
 サムエルに罪を指摘され、サウルは罪を認めました。しかし、サウルは「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」と願います。彼は神以上に人を恐れたのです。
 ダビデもまた、在位中に罪を犯しました。人妻を召し入れて姦淫(かんいん)を犯し、夫を激戦区に送り戦死させてしまったのです。預言者ナタンがそのことを明らかにするとダビデは即座に、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めました。面目を求めたサウルとは大違いです。こうして神を恐れた人、人を恐れた人、二人は色分けされてしまいます。
 人を恐れるとわなにかかります。それ故、神を恐れることを学びましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月27日号(第991号)より転載—

2018年5月16日水曜日

 

 かれこれ30年になるでしょうか。教会のメンバーでチームを組み、ロサンゼルスのオンザウェイ教会のプレイヤーチャペルに祈りに行きました。
 ここは特別な場所です。ある時、四隅に天使が降り立ち、霧が立ち込めるようなご臨在が会堂いっぱいに満たされ、それを境に人が集まり始め、リバイバルが起こりました。
 そのご臨在に触れ、日本に持ち帰ろうと私たちは四隅に立っては祈り、立ち去りがたい恵みと祝福を受けて帰ってきました。
 臨在のある所にはリバイバルが起こります。これは私たちの確信で、特に賛美にその力があります。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれていますがその通り、神は賛美の中にいてくださり、ご臨在を現してくださいます。
 このことの良い例はパウロとシラスです。彼らは、キリスト・イエスのしもべであり、ローマにおける福音宣教に従事していました。しかし2人は、敵対者に捕らえられ、重罪人を入れる奥の牢(ろう)に足かせを付けられていました。
 しかし、霊はつながれておらず、真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていました。(使徒の働き1625節)
 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました(26節)
 イスラエルの賛美の中に住まわれる方が、やって来られたのです。そのご臨在が鎖を解き放ち大地震を呼んだのです。奇跡が起こりました。
 これが賛美の力であり、ご臨在の勝利です。たとえどこにいようと賛美をささげるなら、そこに主はおられ、ご臨在のうちにあらゆる慰め励ましを無制限に注いでくださいます。(イスラエル北野)


み声新聞2018年5月20日号(第990号)より転載—

2018年5月9日水曜日

青銅の蛇

ヨハネの福音書3章14節で、イエスさまは不思議なことばを語りました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(イエスさまのこと)もまた上げられなければなりません」というものです。これはどういう意味でしょうか。そもそもの出典は、民数記21章になります。
 出エジプトしたイスラエルは、荒野の道を行軍しましたが、その厳しい生活に我慢ができなくなって、神とモーセに逆らいました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナのこと)に飽き飽きした」
 神はこの言葉をさばかれ、民の中に燃える蛇を送られたので、多くの人が蛇にかまれて死にました。
 民はモーセのところに来て悔い改め、神へのとりなしを求めたところ、主は、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と語られました。
 それでモーセは青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけました。神ご自身が語られた通りに、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。青銅の蛇自体に力があるというのではありません。神の約束を信じて仰ぎ見た信仰だけが死を免れることができたのです。
 これは、来るべきイエスさまの、十字架のひな型です。誰でも、どんな罪を犯していても、悔い改めてイエスの十字架を信じるなら、赦(ゆる)され、いのちが与えられます。
 モーセが荒野で蛇を上げ、そこに救いがあったと同じように、イエスさまはご自分が全人類の罪を担い、十字架で死に、3日目に復活し、私たちの贖(あがな)いを完成させられたお方です。
 今こそ時です。イエスを信じ、救いにあずかろうではありませんか。 
(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月13日号(第989号)より転載—

2018年5月2日水曜日


子育て

 かつて、父が「親と言う商売があるなら辞めてしまいたいですわ」とよくこぼしていました。親というのが(簡単に辞めることができる一種の)仕事であるなら(自分は)さっさと廃業してしまいたいものだ、という意味です。時が流れ、自分がかつての父と同じ年齢となって、父が言わんとしたことが分かるようになりました。子育ては、大変な仕事です。
 子育てが取り上げられるのは、多くは初めての子育てで、しかも子どもが小さい時の事に集中します。しかし、いくつになってもその時その時に乗り越えるべき課題があって、子育てはもう、一生の仕事だと思います。
 子どもがはたちになると成人とされるわけですが、就職、結婚、出産など、人生の重大事がめじろ押しで、子どもの自立を見届けてやらねばなりません。ちょうど、自転車の荷台をつかんで支えつつ、そっと手を放しても乗りこなせるまで、子を育て上げるのが親の仕事です。しかし、どうやってそれをなすことができるでしょう。
 あるご婦人がいます。彼女は聖会のたびごとに、2人のお子さんのご病気のいやしを求めて祈りの列に並ばれます。息子さんはご病気がありながら仕事に行かれていますが、今日も行くことができますようにと、彼女は朝ごとに祈っています。何年になるでしょうか。忍耐強くこつこつと祈りが積み上げられていて、彼女の祈りは聞かれています。息子さんを支えているのは、間違いなく彼女の「祈り」であると私は思います。
 子どもを育てることは、前述の父ばかりではなく、誰にとっても忍耐がいるものです。これがいいと思っても強要することはできません。ですから祈りなのです。子育ては祈りです。隠れた場所で祈られたその祈りは確かな実を結ばせます。(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月6日号(第988号)より転載—

2018年4月25日水曜日


ねたみ

 神は、イスラエルが守るべきおきてとして十戒をお授けになりました。これに照らし合わせて人は罪に定められます。
 今日私がお分かちしようとしている『ねたみ』は、「殺してはならない」(第6戒)「隣の人の家を欲しがってはならない」(第10戒)という二つの戒に触れます。
 カインは、弟アベルが自分より優れたささげ物を神にささげたことで彼をねたみました。アベルが自分より正しいことを知り、それがゆえに許せませんでした。彼は弟を殺してしまいました。
 サウルはダビデをねたみました。彼らがぺリシテ人を打って帰ってきた時、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と笑いながら歌う歌声を聞き、サウルは非常に怒り不満に思いました。この日以来、サウロはダビデを疑いの目で見るようになり、殺そうと機会を窺います。
 また、初代教会時代、ステパノが殉教したのも、彼が正しかったからです。祭司長、律法学者たちは、彼が自分たちを裁くのを見るや、分別を失い一斉にステパノに殺到し、石で打ち殺しました。
 イエスさまもまた、ねたみから殺されてしまったと言えるでしょう。祭司長、律法学者はイエスさまを十字架にかけて殺しました。イエスさまが正しい方であること、群衆の支持を集めていること、どれもが彼らにとってねたみと憎しみの対象でした。
 ねたみは、この様に嫉妬と憎しみがペアになって出現してきます。その行き着く所は殺人です。正しい者を正しいが故に憎み殺す、その背後にはサタンの介在があります。ねたみは原罪の一つです。
 イエスさまは殺されました。しかし、復活を遂げられました。それは、私たちを罪から解放させるためです。それ故、悔い改め、神の元に帰りましょう。神はその道を備えておられます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年4月29日号(第987号)より転載—

2018年4月18日水曜日


ペテロ

 何をしても憎めない人。そういう人が世間にはいるものです。イエスの弟子の筆頭であるペテロもその1人だと私は思います。
 イエスさまは十字架につけられる前夜、ご自分が、祭司長や律法学者たちによって捕縛されると弟子たちに語りました。ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても私は決してつまずきません」と言いました。ペテロは、自信満々でした。
 しかし、イエスさまは「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と語られました。
 「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」ペテロはこう言いました。
 ところが、ふたを開けてみるとどうでしょう。弟子たちは皆、イエスを見捨てて散り散りに逃げ去ってしまいました。
 去りがたいペテロは、大祭司の家の中庭まで入って様子を窺っていました。すると女中が、あなたはイエスと共にいた、と言いました。ペテロは「何を言っているのかわからない」と否定しました。さらに別の女中が、次いで居合わせた人が問い詰めると、「そんな人は知らない」とついにのろいをかけて誓い始めました。
 するとたちまち鶏が鳴き、ペテロはイエスのことばに思い至り、出て行って号泣しました。
 ペテロは深く自分自身に失望しました。確かにペテロはイエスさまへの深い愛を持っていましたが、弱さ、を知りませんでした。イエスさまはそのことを教えられました。そして、ご自身の愛によって、後にペテロを建て上げられます。
 ペテロを愛された主は私たちをも愛し、弱さを強さへと変えてくださいます。号泣してもいい。イエスの愛はあなたをも立ち上がらせます。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月22日号(第986号)より転載—

2018年4月11日水曜日


父の喜び

 ルカの福音書15章には、「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」として有名な例話があります。
 ある父親と兄と弟が主要な登場人物で、弟は父に財産の分け前を求め、それを得ると何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 そして放蕩ざんまいをした挙げ句、大飢饉(ききん)が起こり、食うにも事欠くようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せ、豚の世話をしていました。彼は飢えて、豚の食べるいなご豆で飢えを満たしたいほどであったにもかかわらず、誰一人として、彼に与えようとはしませんでした。
 そこで弟は、父の元に帰ろうと決心します。「お父さん。わたしは天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と言うつもりで。
 ところが、まだ家まで遠かったにも関わらず、父は弟を見付け、走り寄っては彼を抱き、口づけしました。そして、最上の着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせ、肥えた子牛をほふり、祝宴を始めました。
 そこに、畑仕事を終えて兄が帰ってきました。状況を聞いて兄は、私はあなたに忠実に仕えているのに、友人と楽しめと言って子やぎ一匹くれたことがない。なのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこの息子には、子牛をほふらせなさったのですか、と怒りをあらわにしました。
 父は、言いました。「私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」
 一人の罪人が神の前に立ち返ることを神はこの上ない喜びとされます。これがこの例話の主題です。あなたもまた主の元に帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月15日号(第985号)より転載—

2018年4月4日水曜日


主を恐れる女

 かつて父が大学の研究室を訪ねてくれたことがありました。そこで働く女性講師が応対してくれました。お前のなりたい姿はあの先生みたいなのか。後で父に尋ねられて、初めてそうではないことに、気が付きました。
 明晰(めいせき)な頭脳に理性的な受け答え、学者として非の打ち所のない先生です。しかし、なりたいという姿ではありませんでした。私が理想とするのは、聖書の箴言(しんげん)31章の12節から31節に描写されている「主を恐れる女」です。
 それはどんなものでしょう。箴言にはこう書かれています。「彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない(12節)」「彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける(15節)」「彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる(20節)」「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ(25節)」「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない(27節)」「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる(30節)」。こんなあんばいです。
 そもそも聖書によると、女性は男性の助け手として男性から造られました。助けになるよう女性には優れた能力が与えられています。専業主婦であっても侮れません。現に箴言31章の主を恐れる女は専業主婦であり、かつまた、手広く活躍しています。
 私も専業主婦ですが、私の食卓は、家の中でもっともにぎやかな空間です。家族のニュースが飛び交い、良い事も悪い事も祈りになります。家庭の中心にはイエスさまがおられます。
 こういう訳で、主婦よ! 大志を抱きましょう。あなたの小さな祈りは聞かれています。何一つとして地に落とされることはありません。主を恐れる女は敵の門を勝ち取ります。(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月8日号(第984号)より転載—

2018年3月28日水曜日


神の戦い

 ダビデとゴリアテ。この二人の戦いは広く世に知られています。ぺリシテ人とイスラエルの間に戦いがあった時、ぺリシテ人の代表戦士である大男ゴリアテは、毎日イスラエルの陣をなぶりにきました。彼は職業戦士であったので、一対一で戦おうでないかと語り、イスラエルの陣営を恐れさせていました。
 ところが偶然これを見、聞いたダビデはイスラエルの神の憤りをわが心とし、ゴリアテと闘うことを決意します。ダビデが紅顔の美少年であったのでゴリアテは見くびり、ぺリシテの神々によってダビデを呪い、おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろうと言いました。
 それに対してダビデは次のように言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう」「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(サムエル記第一174547節抜粋)
 こうして、互いに迎え撃とうと近づくと、ダビデは袋の中から石を1つ取り、石投げでそれを放ちました。石はゴリアテの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。ダビデの手には一振りの剣もありませんでしたが、石投げと一つの石でぺリシテ人を打ち殺してしまいました。
 これが神の戦いなのです。ぺリシテ人の敗因は、イスラエルの戦陣の神を知らなかったことにあります。この戦いは人と人の戦いではなく、「神々」と唯一の全能者である神との戦いであったのです。全能者は負けるはずがありません。それ故、私たちは神を恐れましょう。私たちの戦いは神の戦いなのですから。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月1日号(第983号)より転載—

2018年3月21日水曜日


さみしい家

昔の小道を囲むようにして民家が立ち並びます。その中の1軒が私の乳母(子守さん)の家です。幼い頃になれ親しんできた昔の家は無くなっており、現代風の家が建っていました。
 家は、乳母の長男であるTさんが住んでいます。定年まで企業で勤め上げ、奥さんと二人で生活されています。悠々自適のはずですが、さみしげでした。この辺りは、皆、退職金で購入した新築の家が立ち並んでいるが、一人暮らしの老人ばかりだと話してくれました。
 そういえば、乳母もそのご主人も、私たちはこうしてお迎えを待っているのだと語り、淡々と生活していました。
 今は、高齢社会ですから、仕事を人生の目的とした人にとっては厳しい時代です。定年後の人生は長くなりました。老いとともに生きていかなければならない年月があります。
 この事柄に対しては、聖書の伝道者の書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(12章1節)という一文が寄せられています。
 人生は奥深いもので、仕事が人生の目的であると、仕事を辞めると生き方まで見失うことがあります。ですから聖書は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と語っているのです。確かに仕事は人生の中で大きなウエートを占めます。しかし、人生そのものは神との出会いによらなければ完結するものではありません。
 お金持ちの、新築の家での一人暮らしは、意外にもさみしいものでした。何の喜びもない、という前に、あなたを造られた創造者を覚えましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月25日号(第982号)より転載—

2018年3月14日水曜日

犠 牲

 愛はキリスト教の神髄をなすものです。愛に関しては、コリント人への手紙第一13章にこう書かれています。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(4~6節)「愛は決して絶えることがありません」(8節)
 愛には多くの側面があります。そして、愛のある所、自己犠牲があります。イエスさまもまた、「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書1513節)と語っておられます。人を生かすために自分を捨て、犠牲となることいとわない強い思い、これこそ愛ではないでしょうか。
 かつて書物で、ある牧師のお嬢さんの話を読みました。彼女は船の事故に遭遇しました。ところが救命胴衣が全員に行き渡りませんでした。彼女は彼女の胴衣を友人に譲り、言いました。「私はイエスさまを信じているから天国に行ける。でもあなたはそうじゃない。生きて戻ったら必ず教会に行って。そしてイエスさまを信じて」。こう語って彼女は命をささげました。
 この話は多くの人々の感動を呼びました。真の愛は自分の命を投げ出すことさえも惜しみません。
 イエス・キリストは、私たちを永遠の愛で愛してくださいました。イエスさまは神のひとり子です。にも関わらず、私たちを救うために卑しいものとなり、私たちへの犠牲となって十字架を忍んでくださいました。イエスさまの死によって私たちはいのちを得ました。
 神にある犠牲は、一つの愛の形です。自分を捨てるまで相手を愛し、相手の幸いを祈る。これにまさる愛はありません。(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月18日号(第981号)より転載—

2018年3月7日水曜日

仕 事

 私は、牧師である夫とともに、何名かの方々の臨終に立ち会わせていただきました。多くの方々が、死を前にしてイエス・キリストを救い主と信じて救われました。また、既に救われている人の中には、御使(みつか)いを見た人もいます。
 天では全ての病、労苦から解放されます。天国が備えられていることは、どれほどの慰めでしょう。
 特に印象深いのは、私の父の召天です。召されてから4、5日は、永遠のいのちを頂いた父の喜びがしんしんと私にも伝わってきました。
 黙示録22章には天国の様子が書かれています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」(1、2節)というものです。
 父が、今や天でいのちの水の川に飛び込んで、心ゆくまでその水を飲み、木の葉を食べて、いやされ、あふれるばかりの喜びに満たされているような思いが、私に伝わってくるのです。
 けれども、ひと月にもなるとその思いも変わりました。天国には、天国の仕事があって、父もそれを行うために天国での持ち場に就いた、という思いです。
 先日、私は白馬スネルゴイキャンプに参加しました。賛美に働くご臨在が素晴らしく、天にいる聖徒たちと共に賛美しているかのように、私たちは心ゆくまで主を礼拝しました。そして、この礼拝こそが、私たちの真の仕事、永遠の仕事なのだと主に語られました。
 天国は私たちの霊の故郷です。私たちの人生は、死で終わるものではありません。永遠という時間を、私たちは神とともに生きるようになるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月11日号(第980号)より転載—

2018年2月28日水曜日

 

 マルコの福音書9章に、悪霊につかれた息子を持つお父さんが登場します。霊がその子にとりつくと、ところかまわずその子を押し倒し、泡を吹き、歯ぎしりします。お弟子たちに霊を追い出してもらおうとしましたができず、イエスさまのもとに来ました。
 イエスさまが、父親にこの子がこんなになってから、どのくらいになりますか、と尋ねたところ、父親は、「幼い時からです。もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言いました。
 それを聞くとイエスさまは一喝されました。「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。これを聞いて、父親は叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください」
 ヘブル人への手紙11章に、次のような一文があります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(6節)
 私は祈り求める時に、時々神さまから、「あなたは、わたしが『それができる』と信じているのですか」と聞かれます。私は、「あなたにはおできになると信じています」と告白します。ついで主は、「あなたが私に求めたことを、私があなたに『それをする』ということはどうですか。信じますか」。そう聞いて来られます。
 神さまは、私たちが信仰を用いることを喜んでくださいます。ではどうすれば、信仰を用いることができるのでしょうか。それは、直面している現状に、まず神さまを認めることです。今のこの状況の中に神さまはいるのだということと、求めれば応えてくださると信じることです。
 信仰は働くと大きな力になります。不信仰を捨て、信じる者となりましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月4日号(第979号)より転載—

2018年2月21日水曜日

カインの末裔

 カインの末裔(まつえい)、これは有島武郎が著した小説の題名として有名です。カインとは聞きなれない名前です。創世記4章によると、カインは、人類の祖先であるアダムとエバ2人によって最初に生まれた男子です。
 エバはカインを産むと、さらにもうひとり弟のアベルを産みました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきました。アベルもまた羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。
 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せました。主は、「なぜ、あなたは憤っているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(67節)と語られました。
 しかし、カインは「野に行こうではないか」と弟を誘い、野でカインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。
 カインには強いねたみがあったと思います。カインがアベルを殺したのは、自分よりアベルが正しかったからです。「正しい人を正しいがゆえに憎み、殺してしまう」。これが人の罪です。
 自分を鑑みて、カインの末裔であると思うのはこの罪の故です。私たちは皆、罪人(つみびと)です。しかし、神さまは、罪人である私たちを愛してくださり、救うために御子イエスさまを下さいました。イエスさまは私たちのために十字架で死んでくださり、この十字架によって罪はその力を失いました。キリストの元へ帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月25日号(第978号)より転載—

2018年2月14日水曜日

契約

 前回、キリスト教を理解するには、「契約」という視点から読み解くことをお勧めしました。霊の世界も同様で、「契約」で成り立つ世界です。
 私は、四国の鳴門で生まれ育ちました。ご存じのように、四国は八十八箇所の霊場があり、親族は皆、巡礼を欠かさず、弘法大師に帰依し、口寄せ霊媒に聞く風習が今もあります。
 こういった環境にいたので、私は自然と悪霊の声を聞く耳ができてしまいました。サタンは「神なんかいません。神がいるならどうして今のあなたを助けてくれないのですか。私を信じなさい。私は決してあなたを裏切るようなことをしませんよ」と言ってきました。
 この大ウソにだまされて、私はサタンと契約関係を結びました。
 思春期になると、この交わりも限界が来ました。サタンの狙いは私の命でした。自殺の思いを入れられ死のうとしたところに、神の手が入りました。牧師ははっきりと、神さまは、私を見捨ててなどいないこと、サタンは偽りであり、偽りを信じさせていること、このような関係を続けていると確実に行き着く先は死であると告げてくれました。
 霊の世界は「契約」です。サタンから益を受けたなら、その見返りは必ず求められます。サタンが好んで狙う見返りは命です。長い間、私に自殺の思いが消えなかったのも納得がいきます。
 しかし、その日、私は牧師を証人として、サタンとの「死の契約」を破棄し、イエスさまとの新しい「救いの契約」を結びました。イエスさまは私が支払うことのできない贖(あがな)いの代価をご自分の命をもって支払ってくださいました。十字架の死、これが私たちを救うために神が支払われた、尊い血の代価です。こういう訳で、あなたもまた、信じるなら救われます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年2月18日号(第977号)より転載—

2018年2月7日水曜日

 

 日本人は曖昧さを好む民族だとよく言われます。問題の解決も「まあまあ」や「なあなあ」で収めることが多く、知性を働かせ、論理的に追求するよりは、情緒的な解決に訴えることを得意とするようです。こういった日本人のメンタリティーは、「契約」社会と言われる欧米のあり方となかなか相いれず、「契約」という概念は日本人には馴染(なじ)みにくいもののようです。
 しかし、神さまとそのご愛を語る時、この「契約」という概念を知っておくことは非常に重要です。なぜなら、救いとは、神さまと私との間に立てられた「契約」であるからです。
 救いは、霊の世界において交わされる「契約」です。誰であれ御子イエス・キリストを主と信じ告白するものは救われるという「契約」です。これは神さまが定められました。神さまはあなたの罪を贖(あがな)い、永遠のいのちを与えてくださいます。
 そこにあるのは約束であり、一度結ばれたら、そう簡単に解かれるものではありません。契約社会に生きる欧米の精神はこれを知っているので、イエスの十字架による救いも受け入れやすい土壌にあったと思われます。
 話は変わりますが、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つの書物から成り立っていることをご存じでしょうか。旧約聖書は、神さまとの旧(ふる)い「契約」という意味で、律法を守ることによる救いの約束の書物であり、新約聖書は御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われるという新しい「契約」のことをいっています。イエスキリストは、この新しい「契約」の成就のために世に来られました。
 こういう訳で、私たちは神の元に帰ることができます。新しい「契約」はあなたの上にも臨んでいます。救いはキリスト以外にありません。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月11日号(第976号)より転載—

2018年1月31日水曜日

口にする言葉

 言葉における失敗は、誰もが経験するところで、失言妄想で痛い思いをした人も多いと思います。ヤコブの手紙3章は、言葉について言及されている聖書の箇所で、「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(2節)と書かれています。
 私は、信仰生活を送って35年になりますが、言葉の持つ力について開かれてきたのはここ数年になります。
 近頃、口で語った言葉がその通りになってしまうという言葉の性質にようやく気が付き始めました。私たちが何を口にするのかということは、非常に重要なのです。
 特に、私は20代半ば、妊娠してつわりで体重が43キロまで下がったのを底辺に、産後は53キロになり、すぐ55キロになりました。そこからは、ノンストップで65キロ、さらにもう10キロと、右肩上がりで体重が増加しました。
 私には癖があって、○○キロになったらどうしようとすぐ不安を口にしてしまいます。
 このままじゃ○○キロになっちゃう、と不安の中で語るので、不安通りの結果を刈り取ってしまいます。「55キロで良かったじゃないか。受けた事を感謝しないで、欲張りすぎているからこうなるんだ」と連れ合いに叱責(しっせき)されました。口にする言葉は不安や恐ればかりで、しかもそれが、その言葉通りに実現して行くのです。
 しかし、不思議なことに、言葉は悪い方に向かうだけでなく、良い言葉は良い事を呼び、信仰の告白はその通りに実現していきました。
 私たちが口にする言葉は、強力な力を発揮します。それ故、私たちは意識して注意して、信仰の言葉を語りましょう。そのとき、私たちは忍耐によって言葉の成就を勝ち取ることができます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年2月4日号(第975号)より転載—

2018年1月24日水曜日

義について

 世にはさまざまな「縛り」があります。信仰生活も、ああしてはならないという「縛り」が付き物です。神さまの前でいい子でなければ受け入れられない、という考えをサタンは投げ込んでくるので、かえって人を恵みから遠ざけます。
 それ故、神さまはいつも変わることの無いお方でありながら、こちら側の状態によって遠く感じたり、近く感じたりするのです。
 キリストの義が現される以前、律法を守ることが神さまに受け入れられる道だと信じられていました。神は、ご自身の選びの民であるイスラエルに「律法」をお授けになりました。この「律法」の全てを守り行うことによって彼らは自分たちが「義」とされ、救いにあずかるはずでした。
 しかし、律法を守ることによって救いを達成することは誰一人としてできませんでした。ただ罪悪感だけが残るのです。
 ローマ人への手紙3章で、パウロは「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(28節)と書きました。
 人が神の前に「義」とされるのはただ一つ、救いの完成者であるイエスさまと、イエスさまが成し遂げられた十字架の贖(あがな)いを信じることにあります。私たちは原罪を持つ身で、神さまから救いを頂くほどの正しさはありません。私たちはみな罪人(つみびと)なのです。しかし、ただお一人正しいお方であるイエス・キリストが成し遂げられた十字架の救いによって、全ての罪は無効となったのです。キリストが下さるのは、信仰による義です。
 こういう訳でキリストは律法を終わらせました。信じる人は皆、その信仰によって「義」と認められます。私たちは、恵みのうちを歩みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月28日号(第974号)より転載—

2018年1月17日水曜日

二十六聖人
 今年もあとわずかで日本二十六聖人殉教記念日を迎えます。1597年2月5日、長崎の西坂で、子ども3名、外国人6名を含む26名が磔刑(たっけい)に処せられ殉教しました。彼らは日本で最初の殉教者となりました。そして、その信仰のバトンを受け継ぐ者として、私たちの教会は、毎年この日に集まり、聖会の時を持っています。
 二十六聖人が殉教した同じその西坂に立つことは、特別な恵みです。併設されている記念館には二十六聖人の遺骨の一部が置かれており、西坂には特別なご臨在が注がれています。
 また、二十六聖人のモニュメントには、次のような聖書の言葉が刻まれています。
 「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て、十字架をとりて我に従うべし」(だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい)(マルコの福音書834節)これはイエスさまが語られたことばであり、二十六聖人はこのことばに応答し、また全うしたのです。
 殉教者の血は、リバイバルの種であるとよく言われます。聖書でも、詩篇116篇15節に「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と書かれています。さらにへブル人への手紙1113節にも、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と書かれています。確かにその死は無駄に終わることなく、主は報いとしてリバイバルを起こしてくださいます。
 二十六聖人の殉教を皮切りに日本は、おびただしい数の殉教者を出しました。しかし、その血の真の報いはまだこれからだと私は思います。そして今、いよいよリバイバルの本戦が起ころうとしています。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年1月21日号(第973号)より転載—

2018年1月10日水曜日

謙遜は栄誉に先立つ

 中国宣教にその身をささげたイギリス人宣教師、ハドソン・テーラーという神の器(奉仕者)がいます。彼の働きで特筆すべきは、彼が宣教の働きにおいて、現地の人と同じ服を着て、現地の人のように生活していたことです。また、経済的に豊かになっても、生活レベルを上げることをせず、その分をささげ、清貧を旨とした生活を送っていたことです。
 こんな信仰を持っている彼を、神さまも豊かに用いてくださり、彼の働きは豊かに実を結んでいきました。
 ところで、聖書の箴言(しんげん)に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(1812節)という一節があります。ひとたび心が高くなってしまうと、なかなか低い昔には戻れません。そればかりか破滅に向かいます。実に恐ろしいことです。
 数年前、お笑い芸人の登竜門であるテレビ番組がありました。当時まだ無名でしたが、その番組に出演して成功することができたAさんが、先日、雑誌で興味深いことを語っていました。ブームが去り、今は収入が最盛期の十分の一以下になったのに、生活レベルを落とすことができない、というのです。いったん高くなってしまったら、元に戻るのは至難の業です。戻れないといった方が適切かもしれません。
 かつて私は、上から目線で語ってしまった一つの言葉で友人を失いました。こんな苦い経験があるので、今は、随分慎重になりました。高ぶると一切を失います。
 清貧は恵みです。ハドソン・テーラーが、清貧の道を行ったことは、神の御旨にかなったことでした。高ぶりや高慢はやがては自分自身を貫きます。そして多くのものを失います。反対に、謙遜は多くのものを受けるのです。低い心を求めていきましょう。 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月14日号(第972号)より転載—

2018年1月2日火曜日

忘れてはならないこと

 聖書の中で、どの聖句を好むかと問うたところ、多くの人がヨハネの福音書3章16節を上げました。そこには、このように書かれています。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
 ひとり子、御子と語られているのは、イエスさまのことです。イエスさまは父なる神のひとり子です。神さまにとって唯一無二の存在です。これを下さったとはどういうことでしょうか。
 これは、イエスさまが十字架にかかって成し遂げられた救いについて語っているのです。神は、原罪のもとにつながれている私たちを愛し、あわれみ、ご自分と世を和解させるため、御子イエス・キリストを世に下さいました。イエスさまは、十字架で私たちの罪を負って死なれ、また、3日目に復活されたのです。
 こういう訳で、今や私たちはイエスさまの十字架によって、永遠のいのちを受けています。
 さらに、ローマ人への手紙8章32節には、こう書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
 神は、ご自身にとって最も大切な御子を、私たちに下さいました。御子を下さったということは、すべてのものを下さったということに等しいのです。私たちは、これほどまでも深く神に愛されています。
 確かに、私たちに問題困難は許されます。しかし、神の愛はそれ以上に深いのです。どうしてすべてのことを働かせ益としてくださらないことがありましょう。こういう訳で私たちは、神に信頼いたしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月7日号(第971号)より転載—