2020年2月26日水曜日

エリコの戦い  


 旧約聖書ヨシュア記に登場するエリコという町は、強固な城壁を持つ地上の要塞(ようさい)でした。神は、ご自身の民であるイスラエルに、相続するべき約束の地カナンを与えると語っておられ、エリコはその最初の地であったのです。けれどもその陥落は人間的に見ると不可能極まりないものでした。しかし神は、驚くべきご自身の計画をお持ちでした。
 民にとってそれは奇妙なものに見えたでしょう。神はヨシュアに命じ、戦士たちはヨシュアに従いました。神の作戦は、神ご自身を表す契約の箱を中心に、七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、しんがりが箱の後ろを進みつつ角笛を吹き鳴らしながら城壁の周りを回る、というものでした。
 ヨシュアは、私がときの声をあげよ、と言うまで口からことばを出してはいけないと言い、エリコの町の周囲を神の箱とともに一日一回六日間、無言で回りました。そして七日目には、この日だけ七度町を回りました。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、七度目に祭司たちが角笛を吹いた時、ヨシュアは民に言いました。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ」(6章
16
節)。こうして角笛を吹き鳴らし民がときの声をあげると、城壁が一気に崩れ落ちたのです。民は上って行って町を攻め取りました。
 こうして、イスラエルはエリコの戦いに勝利を得ました。この戦いは、熟練の戦士であるヨシュアでさえも、思いつかないもので、人知を超えたものでした。しかし、民が神さまの声に徹底して従った時、圧倒的な勝利が現されました。神さまの声に従う、ここに勝利があります。
 神さまのことばに従うなら、神さまは今でも、私たちの人生に勝利を現してくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月1日号(第1083号)より転載—

2020年2月19日水曜日



 かつて祈りの場を求めて、長野県清里にある清泉寮を訪ねたことがあります。敷地を散策する中で1枚の板に書かれた聖書のことばを見つけました。ヨハネの手紙第一1章5節から、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と書かれていました。聖書では神は光であり、誰も近づくことのできない光の中に住まわれていることが書かれています。
 聖書の冒頭である創世記1章では、初めに、神が天と地を創造した(1節)と書かれています。地は茫漠として何もなく、やみが大水の上にあり、神の霊が動いていました(2節)。そこに神が「光があれ」と仰せられると光がありました(3節)。神は光を見て良しとされ、光とやみを区別されました(4節)。これが創世記に書かれている光の出自です。創造の昔、神さまはみこころをもって光を創造されました。
 光の最も顕著な特徴は、やみと交わることがないところにあります。ヨハネの福音書1章5節には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」という一文があります。このことばの意味するところは神の圧倒的な勝利です。やみに対する光の勝利を語っています。いくらやみが深く広く覆っていても、そこに光が入ればどうなるでしょうか。たちまちにしてやみは消失してしまいます。どんなにやみが深くても、光の前にはその武装はたちどころに解除されてしまいます。光にはこれほどの力があるのです。
 こういう訳で、今や光は、やみの中に輝いています。もはや私たちはやみを恐れる必要はありません。イエス・キリストを心にお迎えすることは、やみであった心に神の愛のともしびを置くことです。また問題に光を当てるなら、そこに解決があります。イエス・キリストを信じて救いを受け、神の元に帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月23日号(第1082号)より転載—

2020年2月12日水曜日

 

 詩篇27篇でダビデは次のような言葉を残しています。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」(4節)というもので、同感です。
 主は麗しくまた慕わしくて、知れば知るほどいつまでも主のみそばにいたいと思います。これはただ一つの願いであって、これが答えられるなら、あとはもう何もいらないと私も思います。それほど主と主の家は素晴らしいのです。
 クリスチャン用語の一つに「臨在」という語があります。ここに神がおられるという特別な臨みかけの中に置かれることを言います。振り返れば、人生の中で、大切な事が起こる際には必ず強いご臨在が現されていました。臨在の中で私たちは神と交わることができるのです。
 米国ロサンゼルスにオンザウエイ教会という教会があります。教会の開拓当初、私たちはそこのプレイヤーチャペルによく祈り込みに行きました。そこは特別な所で、ある日、四隅に天使が降り立ち、一面に霧のようなものが立ちこめるということが起きました。それを境に人々が救われ始め、教会は成長していきました。霧のようなものはご臨在であったと言われています。
 ただそこにいるだけで、恵みが注がれていました。広く受容されていること、深く愛されていること、そして何よりもたましいのやすらぎがありました。目には見えませんが見えること以上に父なる神さまは近づいてくださいました。
 神のご臨在、これに勝る喜びはこの世にはありません。神さまは最高の祝福を与えてくださいました。詩篇1611節にもこう書かれています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」
(イスラエル北野)


み声新聞2019年2月16日号(第1081号)より転載—

2020年2月5日水曜日

悔い改め

 韓国のチョー・ヨンギ牧師は祈祷院に、自分専用の祈りの穴を持っているといいます。日曜の礼拝に備えて祈り込まれるそうですが、そこにはひときわ大きく「悔い改め・悔い改め・悔い改め」という文字が書かれているそうです。これにはちょっと驚きました。悔い改めることは、神との関係において非常に重要なことであるとチョー牧師はご存じなのです。
 イザヤ書59章にこんな一文があります。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎(とが)が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(1、2節)
 私たちは、誰一人例外なく罪びとです。それに引き換え神は創造主であり、聖なるお方です。両者には隔たりがあり、聖俗決して交わることはできません。それ故、神は御子イエスを遣わしてくださり、イエスの十字架の贖(あがな)いによってご自身と世を和解させてくださいました。これが私たちを救う福音のことばです。
 イエス・キリストを信じる者は、神の子とされ、今や全てのものが与えられています。とはいえ、私たちは肉なるものであり、日々犯す罪があります。罪咎が神との間の仕切りとなるのは前述の通りです。チョー牧師が、祈りの穴で、悔い改めの文字を見つつ求めたものはこの戦いであったのです。
 悔い改めは、私たちと神との関係を正しくします。ヨハネの手紙第一1章9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書かれています。どのような罪も言い表し、捨てるなら、神は全てを赦し、望外の祝福さえも与えてくださるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月9日号(第1080号)より転載—