2019年9月11日水曜日

待たされる

 神さまの道を進んで行くと、必ず通されるレッスンがあります。「待たされる」ことで、それを好む人は稀(まれ)でしょう。しかも、神さまは私たちに対して、時に沈黙を守られます。この狭間(はざま)にあって悩み苦しんだのが「ヨブ記」のヨブです。時が来るまで彼は待たされました。
 また、詩篇105篇19節には「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。彼とはヨセフです。ヨセフは偉くなるという示しを受けていました。しかし現実は奴隷に売られ、監獄に入れられ、示しとは真逆の道を進みました。彼もまた、待たされた人でした。
 更に、ハバクク書2章には「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(3節)と書かれています。これは、リバイバルを約束する神の言葉として、教会に与えられた言葉です。そこから待たされ、今はもう三十数年になります。
 ヤコブの手紙1章には次のように書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためさると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(24節)
 すべては私たちを立て上げるため、神は悩みの炉さえもゆるされるのです。信仰と忍耐は密接な関係にあり、約束の成就に至るまで信仰はためされます。ここに忍耐が生じます。待たされるのです。しかし、終(つい)に時が来ます。忍耐の末にヨブは失ったものの二倍の祝福にあずかりました。ヨセフは一日にして囚人からエジプトの大臣になりました。神さまは真実なお方です。試練はこの上ない喜びです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月15日号(第1059号)より転載—

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