2021年12月27日月曜日

サタンに立ち向かえ

 私たちがキリストによって救いを受けること、恵みを受けることをサタンは嫌います。何とかしてこれを阻止しようとして働きます。

 独身の時に私は、家族が救われるという神の勝利を頂きました。そこに至るまで、サタンがいかに働き妨害してきたかをお分ちしたく思います。その頃教会では、韓国の断食祈祷院に祈りに行くということが開かれていて、私も妹とともに行こうとしていました。ところが、思いがけないことが起こりました。突然父がゴルフ場で吐血し、病院に搬送されたのです。食道静脈瘤破裂という事態で数日間生死の境をさまよいました。

 ようやく危機を脱した時、韓国行きに関して、父が病んでいるのに観光に行くのか、もしもの時になったらどうするつもりか、と父にも親戚にも非難されました。しかし、私たちは押しました。なおさら韓国で祈ることが必要だと思われたからです。すると行く直前、今度は私が交通事故にあいました。取ったばかりの免許で原付バイクを走らせていたところ、公道に入ろうとする車を見て急ブレーキをかけてしまい、後輪が浮いて数メートル飛ばされてしまいました。幸い骨折などはなかったのですが、広範囲の打撲や膿が出るようなひどい擦り傷を負いました。

 病院に行くと韓国行きを反対されるかもしれないし、家族に知られても反対されるだけだと思い、決意して薬局に行き、たくさんガーゼや塗り薬を買い、翌々日の韓国行きに備えました。

 こうして、1週間韓国にいて断食をして祈り、勝利を確信しました。韓国は儒教をベースに持つ国ですから、父の救いといやしを祈る娘たちは親孝行にうつるようで、好意的に扱ってくださり、趙鏞基(チョウ・ヨンギ)牧師に祈ってもらえるよう取り次いであげるといってくださいました。私たちは、しかし祈りの中で父の救いといやしを既に確信していたので、謝意を伝え、イエスさまの働きに期待しつつ帰国しました。

 帰国すると、父は3日後に大きな手術を控えていました。イエスさまがいやしてくださったのだから、この手術をしないで、と妹は父に嘆願しました。私は、イエスさまはお父さんの身代わりになって死んでくださったから、手術前にイエスさまを信じて、この手術をイエスさまに担っていただこう、と提案しました。父は、ここまで来たなら穏やかに手術を受けさせてくれ、と言いイエスさまを信じる祈りをなし、救いを受けました。

 手術中、父は天国に行きました。雲に乗り天の栄光を見ました。また、イエスさまが天国を案内してくれたと言います。その詳細は次の機会に譲りますが、天国は素晴らしい所だったと言います。

 神のみわざがなされる前には必ずさまざまな形でサタンが妨害してきます。しかし既にサタンは敗北しているのです。それ故、敵に背を見せてはなりません。立ち向かうのです。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ人への手紙1620節)

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年12月19日日曜日

サウルの失敗

 サウルは、イスラエルの初代の王様です。サムエルを通して主がイスラエルを治めていた時、民は周りの国々と同様、王を欲しがりました。そこで、サウルが起こされました。サウルは多くの方がまさに王だと納得するような外貌を備えた麗しい人物でした。しかし彼は、人を恐れるという弱さを持っていたのです。

 ぺリシテ人との戦いに入った時、サウルは、戦勝祈願に来るはずのサムエルを、彼の言葉通り7日間待ちました。しかしサムエルは来ず、民が離れ去ってゆくことを恐れたサウロは自分の手で全焼のいけにえを捧げてしまいました。そこへサムエルがやってきて、「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。今は、あなたの王国は立たない」と宣言しました。

 時は移り、神はアマレクを打ち、すべてのものを聖絶するようサウルに命じます。イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにした仕打ちを罰するというのがその理由です。サウルは、歩兵20万、ユダの兵士1万をもって戦い、アマレクを打ちました。しかし、サウルはアマレク人の王アガグを生けどりにし、また肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、ただつまらない、値打のないものだけを聖絶しました。

 翌朝早く、サムエルにサウルが自分のための戦勝記念碑を立てたということが知らされました。サムエルがサウルに会いに行くと、サウルは「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました」と言いました。しかし、サムエルは「では、私の耳にはいる羊や牛の声は何ですか」と言います。「主はあなたに使命を授け、『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。絶滅させるまで戦え』と語られたのに、なぜ主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか」とサムエルは言いました。サウルは、民に責任転嫁して、民は主にいけにえをささげるために最上のものとして分捕り物の中から羊と牛を取ったのですと弁明しました。主にささげるためなら、聖絶せずに残しておいてもよいだろう、というすりかえが起こっていました。サウルは聖絶せよという神のことばに従いませんでした。

 これに対してサムエルは「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」と言います。

 神が私たちに望んでいることは多くありません。むしろ一つで、それは主の御声に聞き従うということです。サウルは、自分は主に従っているつもりでいました。どうしてこんなずれができたのでしょうか。思うに信仰には2つの型があります。文字通り御声に聞き従うという在り方と、主はこうお考えだろうと類推する在り方です。多くのものが、神を知らないので後者の生き方をしています。

 両者の違いは、神と自分どちらが中心となっているかによります。私たちが、神さまのために良かれと思ったことを行うことと、神さまに聞いて、神さまが語られたことを行うこととは、似ているようですが根本から違います。聞き従いは神が中心です。私たちが受ける祝福もまた聞き従いとともにあります。サウルの失敗から学びましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年12月12日日曜日

神との和解

 キリストに出会う前、罪に対して私たちは、絶望的な者でした。生まれながらの罪人である私たちは、どう気をつけていても、日常の営みの中でさまざまな罪を犯してしまいます。これに対してはあわれみを乞うよりほかありません。しかし人の誰が、犯した罪を赦すことができるでしょうか。罪を詫びると隣人はあるいは許してくれるでしょう。でも、その人もまた罪を犯す同じ人間なので、罪を犯した私の罪を赦す力は持ちません。罪の赦しを取り持つのは、一度も罪を犯したことのない人物でなければならないのです。

 旧約時代は、罪のためのいけにえに子羊をとり、自分の身代わりとして屠(ほふ)りささげました。当時は、これがオーソドックスな罪の赦しであったのです。しかし、それには限界がありました。いくら羊をいけにえにささげても罪が完全に無くなるわけでなく、年ごとに繰り返しささげなければならず、返ってそのことによって罪意識は昂じました。そこで、神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをくださったのです。イエス・キリストは、罪のないお方です。神の満ち満ちた実質を体現した神のひとり子です。私たちを贖うことができる唯一のお方です。

 そして事実、イエス・キリストは約2000年前にこの世に来られました。神であられるのに身をいやしくし肉をまとわれ、病をいやし奇跡を行い神の恵みの日が来たことを証しされました。そして、ご自身が世に来られた理由であり使命であった罪の贖いを成し遂げてくださいました。主イエスはカルバリの丘で、全人類の罪を負って十字架にかけられ、死んでくださったのです。

 しかし、この方がいつまでも死につながれていることなどありません。イエスさまは亡くなりましたが、3日目に死者の中から復活を遂げられました。ここに人類に対する贖いがなされ、救いが完成しました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自身の肉によって敵意を廃棄されました。(エペソ人への手紙215節)死と復活という試みを通られたられたイエスさまだけが罪の赦しをなされる権威をお持ちなのです。

 こういう訳で、イエス・キリストによる贖罪が完成した今、私たちに対する神さまのみこころは和解にあります。コリント人への手紙第二5章には次のように書かれています。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです」(19節)違反行為の責めとは罪のことです。もはや、それが問われることはなく、神は愛するあなたがご自分の元に帰って来るのを待っておられます。神の和解に応じましょう。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2021年12月5日日曜日

信仰、望みえない時に

  義人は信仰によって生きる、と聖書には書かれています。(へブル人への手紙1028節)クリスチャンの多くは、信仰を増し加えてほしい、信仰を通しての神のみ働きに与りたいと、そう願っているものです。聖会などで、祈りを求めて並ばれる方の多くが、信仰が増し加わることを祈りの課題として挙げておられます。

 私もそれには同感で、日々の営みの中で、つい不信仰になってしまうことが多々あります。期待するべき時に不信仰に捕らわれ、神の手を止めてしまう失敗を何度も経験しました。信じようとしない頑な心、不信仰に対しては、聖書の中でもたびたび主は嘆かれています。なぜなら、主は最善のものを用意してくださっているのに、不信仰であるがために私たちがそれを受けないで終わってしまうのです。

 信仰って何でしょう。考えてみたことはありますか。自分は不信仰だという苦手意識が感情を支配していませんか。確かにここには戦いがあります。しかし、信仰は神が与えてくださるものでもあるのです。

 ローマ人への手紙418節に、「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という一文があります。これは、直接にはアブラハムの信仰について書かれているものです。アブラハムはもう子をもうけるのは不可能な年齢でありながら、約束の子イサクを受け、更にはあらゆる国の人々の父となるという神の約束が自分に成就することを信じたのです。この信仰が大きく彼の人生を変えていきました。

 信仰は、「望み得ないときに」というこの一語に集約されています。というのも、望み得る状況であるなら、人はわざわざ望むようなことはしませんし信仰を用いることもしません。望み得ない状況で望むのが信仰なのです。ですから、私たちの信仰はおおよそ望みを得ない状況からスタートするのです。

 恐れてはなりません。信仰は全て、望み得ないという所から始まります。望み得ない状況、これが信仰の出発点となり、ここから奇跡を見、解決を見るのです。最初は誰でも疑います。信仰が持てない環境にあるかもしれません。しかしその時こそ、信仰を用いるその時なのです。望み得ない今こそ、まさに信じる時なのです。

 聖書に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)と書かれています。神によって始まったことは神ご自身が完成させてくださいます。私たちの望みは、神にあります。信仰をもって、神に近づき神の実を結びましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/