2023年2月27日月曜日

人というもの~婚姻の奥義

 前回、「人は父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体(第2版では一心同体)となる」(エペソ人への手紙531)と書かれた聖書の奥義について紹介しました。これは、アダムとエバに限らずキリストと教会を指していることばです。キリストは教会のかしらであり、教会はキリストに付き従うものです。同様に、男は女のかしらであり、女は男に従うものとして造られました。両性が一つとなること、一心同体になること、これこそ婚姻の奥義であり、その意味するところは深遠で偉大です。

 これらのことは、エペソ人への手紙5章に詳しく言及されています。人はひとりの男として、またひとりの女として、その父と母を離れ、ふたりの者が一心同体になるのです。ここに婚姻の奥義があります。結婚式では、新郎新婦はそれぞれ終生にわたる誓いの言葉を口にします。そして、神の代理人である司式者・牧師によって、ふたりは「もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マルコの福音書1089節)と宣言されます。これによってふたりは互いが互いのものとなり、神のみ前に一つの夫婦となるのです。

 さて、夫婦にはそれぞれ求められることがあります。まず、妻に対して聖書はこう言います。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(エペソ人への手紙52224節)

 夫に対しては「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、(中略)ご自身で聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(2528節抜粋)

 女には従うことが、男には愛することが求められているのです。これを捉えて差別だ男尊女卑だと言う者も世にはいます。そのことに対してある牧師は、愛は神の属性で、愛するということは、より難しいより高度なものであると語りました。ですからキリストの愛で女を愛することを男に求め、女には、その愛を、従うという形で表すよう導かれているのです。従うことも一つの愛の形です。そして従うことは、愛と権威の問題を抜きにしては語れません。

 教会が、かしらであるキリストの権威に従うように、一般的には夫婦間での権威は夫にあります。権威の働くところにはそれぞれ、愛すること、また従うことが求められます。それゆえ妻に対して聖書は、かしらである夫の権威に従うことを第一としています。従うことが彼女の愛です。他方、夫の愛は妻を自分のからだのように養い愛するものです。このように、キリストの婚姻の奥義は、神に従う者たちの上に成就しており、それは、「もはやふたりではなく、ひとりなのです」という一語に尽きます。神によってふたりは一つになるのです。

参照:創世記224節、マタイの福音書195

MIKOE NEWSから転載」 2023年2月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年2月18日土曜日

 人というもの~アダムとエバの成り立ち

 詩篇8篇の中でダビデはこのように述べました。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました

 その通り、神は私たち人を他の被造物とは異なり、万物を支配するものとしてお造りになられました。聖書の冒頭にあたる創世記1章で、神は6日かけて万物を創造されました。そして26節で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らがすべてのものを支配するように」と語られ、「神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(27節)のです。

 2章では、さらに詳しく「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」と記されています(7節)。そして、東の方エデンに園を設け、そこに人を置かれました。人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけ、その名がその物の名となりました。ところが、人にはふさわしい助け手が見あたらなかったのです。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(18節)。神はそう思われました。

 そこで神である主は、彼に深い眠りを下され彼のあばら骨の一つを取り、ひとりの女に造り上げ、人のところに連れて来られました。人は言いました。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから

 こうして、「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と聖書に明言されている通りになりました(224節)。男はアダムであり、アダムは妻をエバと呼び、それがその名になりました。ここに書かれているのは、次回に詳しく述べますが、婚姻の奥義です。

 6070年代、私は小学生でしたが、よく男女平等が語られていました。何でも平等でなければならない、そんな風潮がありました。おもに女性の地位の向上が求められ、単純に男性に並ぶ役職を持つことが平等だと思い、形は手に入れました。しかし、聖書の語る平等はそれとは異なるのです。エバはアダムの助け手として、アダムから造られたのです。メインはアダムで、エバはアダムの強力な補助なのです。その関係はいわば主と従であり、男に求められることと女に求められることは異なります。そのことを知っていなければ、本来の祝福には至りません。本来の祝福とは、アダムでもなくエバでもない「ふたりは一体となる」というところにある奥義です。このことに関しては、次回に詳しく述べたいと思います。(続く)

 MIKOE NEWSから転載」 2023年2月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年2月11日土曜日

再臨に備える

 イエスさまは、約2000年前、この世に来られました。私たちを罪から贖(あがな)い救いを与えるために十字架にかかって死なれ、3日目によみがえられ、信じる者たちに永遠のいのちを与えるために来られました。そして、世の終わりに再び、今度は王として来られることを約束されました。

 それを、再臨と言います。そして今まさにその再臨が近いことを至る所で知る時代となりました。現に今、世界を巻き込みかねないロシアとウクライナとの戦争があり、トルコ・シリアの大地震や未曽有の大雪などの自然災害に見舞われ、コロナウイルスによる世界的規模の病の大流行、インターネットの躍進など、21世紀ならではの進展発展が見受けられます。イエスさまが来られる日が近づいています。

 ところが、多くの人がこれらのしるしが表れているにもかかわらず悟ることができないでいます。眠っているのです。マタイの福音書では、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」(2442節)とも「人の子は、思いがけない時に来るのですから」(同44節)と、再三にわたって主の再臨に備え目を覚ますよう取り上げられています。

 続くマタイの福音書25章は、この再臨の様子を捉えた例話として有名です。それぞれ、ともしびを持って、花婿を出迎える10名の娘がいました。5人は愚かで、5人は賢かったのです。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意していませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。

 花婿が来るのが遅れたので、みなうとうとして眠り始めたところ、夜中になって「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。娘たちは、みな起きて自分のともしびを整えたのですが、愚かな娘のともしびは消えそうで、賢い娘に油を分けてくださいと願いました。けれども、分けてあげるには到底足りないので、店に行って自分のをお買いなさいと言われ、出て行きました。すると、その間に花婿が来ました。用意のできていた娘たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。後から遅れてやってきた愚かな娘たちは、確かなところあなたがたを知りません、と退けられてしまいました。

 この例話から学ぶことは多いです。花婿が来られた時とは再臨の時のことです。再臨が来ることは皆等しく知らされています。賢い娘はその備えをしていました。いつ花婿が来られてもいいようにと油を用意していたのです。愚かな娘も等しく再臨のことを聞いています。しかし、惜しむらくは彼女たちは聞きっぱなしでした。油を用意してはいなかったのです。再臨に備えるという意識は低かったように思います。

 再臨は、用意のできているいないにかかわらず、時が来たら実現します。用意のできていた娘たちは花婿の婚礼の祝宴に進み、そうでない者はこの恵みから締め出されることになります。

 再臨には備えていることが必要です。いつ主が来られてもいいように目を覚まして参りましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2023年2月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年2月3日金曜日

西坂の賛美

 日本にキリスト教が届けられたのは、1549年、イエズス会創始者の一人であるフランシスコ・ザビエルによります。それから48年。日本で最初の殉教者が起こされました。フランシスコ会より6名、イエズス会3名、子ども3人を含む信徒17名、合計26名が、長崎の西坂で磔刑(たっけい)に処せられ、殉教の死を遂げました。159725日のことです。

 西坂は、小高い丘になっていて、眼前には海が望めます。恐らく彼らは十字架の上からこの海を見ていたのではないでしょうか。西坂の殉教地は、今は公園になっていて、26名のレリーフが当時を伝えるものとして残されています。そして、そこにはマルコの福音書834節の聖書のことばが刻まれています。

 それは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ということば(実際は文語訳)です。殉教にあずかった26名は死に至るまで、主に忠実であることができました。棄教することなく、肉体の苦痛にも耐え、最後まで自分の十字架を負い主に従い切ることができたのです。信者の一人として、それはうらやましい限りです。私だけでなく多くの信徒もそう思ったようで、刑場には、「私もキリシタンです。処刑してくだされ」、そう言って役人に申し出た者も大勢いたそうです。なぜこんなことが起きたのでしょうか。

 特筆しておきたいのは、西坂に、天を思わせるようなご臨在が現されていたことです。刑場といえば重苦しい悲惨な現場というのが私たちの考えるところです。しかし、そうではなかったのです。文献によれば、十字架の上から子どもたちが賛美を始めると、その賛美が周りの空気を一変させたと書かれています。その賛美には、天国への希望があり、子どもたちの神への全き信頼がありました。彼らが年端のゆかない子であるのを見て、なおさらその賛美は大勢の人の心を打つものとなりました。

 詩篇223節にはこのように書かれています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」。神は、賛美の中に住んでおられるということをこの聖句は語っています。西坂の処刑場の中に賛美が満ち始めると、賛美を住まいとする神ご自身がご臨在のうちに現れました。それ故、西坂は一変して天国の希望に満ちた所となり、死はいのちにのまれてしまったのです。

 今年もまた、25日が巡ってきます。426年前に西坂にてささげられたあの賛美を思いつつ、今年もまた西坂に賛美が響き渡るでしょう。天の希望、天の喜び、神が下さる永遠の住まい、これらのものに目を向け、二十六聖人の信仰の足跡にならいましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年2月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/