2018年12月26日水曜日

 

 詩篇105篇19節に、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」という一文があります。
 彼とは、ヨセフです。ある時ヨセフは二つの夢を見ました。自分の束が立ち上がると兄の束が回りに来てヨセフの束におじぎする夢と、父母兄たちを指す太陽と月と11の星が自分を拝んでいたという夢です。
 将来自分が偉くなるという夢です。しかしヨセフの人生は、これとは真逆に進みました。彼は、兄たちのねたみによって奴隷に売られ、エジプトのパロの廷臣ポティファルの奴隷になります。さらにポティファルの妻に言い寄られて、主人の怒りを買い、監獄に入れられます。彼の人生は逆へ逆へと進みます。
 そんなヨセフに転機が訪れました。パロの献酌官(けんしゃくかん)と調理官が監獄に来たのです。ヨセフは、ここから出してくれるようパロに頼んでほしいと言いました。今度こそここから出られると思ったでしょう。しかしその約束は忘れ去られたのです。献酌官が再びヨセフを思い出すまで2年間、彼は試されました。
 2年後、ついに、ヨセフはパロの前に立ちます。パロはヨセフをエジプトの大臣に任命します。彼が見た夢は実現しました。
 試練の中にいる時はいつまで我慢しなくてはならないのか、先が見えません。永遠に続くかのように見えるものです。しかし、試されても神のことばとその約束を決して手放してはなりません。聖書もこう語っています。
 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(へブル人への手紙103536節)
(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月30日号(第1022号)より転載—

2018年12月19日水曜日

神は愛です

 今年の3月に、私は故郷に帰り、私の子守をしてくれたHさんのご長男をお訪ねしました。定年後の悠々自適の生活を奥さんとともに送っておられるはずです。お会いすると、定年後の生活は退屈そうにお見受けしました。近況報告をして世間話をすると、もう話すことがなくなって結局1時間ほどでおいとましました。
 しばらくしてから、Hさんが望み得ないご病気にあるのだということを伝え聞きました。お会いした時にHさんはそのことを私に伏せておられました。いや、もしかすると、私にどう話そうかとタイミングを見ておられたのかも知れません。しかし、私はそのサインにまったく気付いていなかったのです。
 そこで私はHさんに、イエスさまの救いといやしの手紙を書こうとしました。ところが切羽詰まった状態ではないだろうと1日延ばしにしているうちに、突然Hさんが急変したという連絡を受けたのです。何と心の鈍い者でしょう。私は福音を伝えるタイミングを永遠に失ってしまいました。
 そればかりではなく、悲劇はさらに続きました。Hさんの四十九日の法要が終わると、残された奥さんもまた亡くなりました。これもまた青天のへきれきでした。どうして福音を語る最後の機会を認識できなかったのだろうと。鈍い心を神さまに悔い改めました。
 心を砕くなら、多くのサインが見えてきます。寄り添うべき孤独なたましいは、皆さんの周りにたくさんあります。また、貧しい者や病める者、小さき子たち、これら弱い者たちをさげすむ世の悪から彼らを守ってあげる人が必要です。
 これらのものは皆、キリスト・イエスの内に見られるものです。イエスさまは、全ての不幸を終わらせました。神は愛です。愛のある所にいのちがあります。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月23日号(第1021号)より転載—

2018年12月12日水曜日

罪の赦し

 年末になると東京湾の大掃除をするそうです。ダイバーが潜るのですが、沈んでいるゴミは多種多様で、自動車まであったそうです。毎年信じられないような物が上がってくると言います。
 ある牧師が、この事を説教で取り上げたことがあります。その後、1人のご婦人が牧師の所にやってきました。婦人は罪が赦されたということがどうしても信じられないというのです。私の犯してきた罪は大きく、やすやすと赦されるものではないのです、と訴えました。
 考えようによっては、確かに罪には大きな罪があり、また小さな罪があります。同じ罪でも殺人と盗みを比べると、それを同レベルで論じるには私も抵抗を感じます。
 しかし、キリストの教えでは、罪は(神の前に)あるかないのか、どちらかであるのです。大きい小さいではありません。どんなにささいな事であっても罪があれば、神の手はとどまり、どんな大罪を犯していても真に悔い改めるなら等しく罪の問題は不問とされるのです。これが、神が恐れられるゆえんです。
 神は、罪を赦すことがおできになります。どんな罪でも、たとえ大罪であっても、全ての罪はキリスト・イエスの十字架の贖(あがな)いによって、今や神の前に赦されない罪は一つもありません。
 先ほどの牧師は、ご婦人に言いました。大きい自動車も小さい空き缶も、等しく海の中に消えました。大きさが問題なのではないのです。どんな罪であっても告白すれば赦されるのです。
 ヨハネの手紙第一にもこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1章9節)イエスさまを信じて罪の赦しを得ましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月16日号(第1020号)より転載—

2018年12月5日水曜日

目に見えるもの見えないもの

 コリント人への手紙第二4章には、次のような一文が寄せられています。「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18節)というのがそれです。
 目には見えないけれど、確かに実体があるということを学んだのは小学生の頃です。理科の実験で「空気」を学習しました。1枚のポリ袋を取り、袋を宙に泳がすと、袋は大きく膨らみました。これが空気というものであると聞かされて、初めて、目に見えないものにも見えるもの同様に実体があることを知りました。存在は二つあって、目に見えるものと目に見えないものとに分かれているのです。
 また、長年救急医療に携わっているお医者さんが興味深いことを語っておられました。死んでしまった方々は、ここにいる、体がないだけで、ここにいるって僕は常に感じています。真実かどうかは別として、ここにもまた、目に見えるものと目に見えないものについての関係を意識させられています。目に見えないからといって何もない訳ではないのです。むしろ目に見える以上の事が、目に見えない事にはあるようです。
 神さまもまた、目に見えないお方です。愛も、喜びも、いのちも、目で見ることはできません。しかし、それが確かにあるものであることは皆さんもご存じのことです。見えるものは朽ちます。金銀宝石さえもこの世のものであって、やがては廃れます。それに引き換え、見えないものは永続するものなのです。
 神さまの愛が、目で見える形となって現されたのが、イエスさまであり、その十字架による贖(あがな)いです。朽ちることのないこの福音をあなたもまた信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月9日号(第1019号)より転載—