2016年9月25日日曜日

 

 1世代前にはあまり見当たらなくて、今躍進している産業といえば、携帯ショップに、学習塾、それから、高齢者に向けたグループホームなどが挙げられます。不況にもかかわらず、新しいビルができたと思うと学習塾であったり、老健施設だったりするのです。
 以前は、老後は家で(嫁が)見ることが当たり前でした。しかし、時代は変わっていきます。今は、子に面倒を掛けるわけにはいかないと、こうした施設に入り、そこをついのすみかとする人は少なくありません。
 何でも戦後を支えてきた今のお年寄りが、経済的には一番裕福だと言います。それをビジネスチャンスと見た企業は、セレモニーホールを建て、お葬式費用の積み立てをしたり、葬式の生前契約をしたり人を集めています。老後に備えるのは本当に大変な事になりました。何をするにも全てにお金が掛かります。
 こういう訳で、お金が稼げなくなっても困らないように元気なうちに稼がなければとあくせくするのですが、本当に必要なことを見落としてはいないでしょうか。老後の備え以上に大切なのは、むしろ死後の備えなのです。
 皆さんは死んだ後、どこへ行くかその道をご存じですか。私たちはイエス・キリストを信じてパラダイス(天国)へ行くか、福音を拒みゲヘナ(地獄)へ行くか、二つに一つです。
 イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネの福音書112526節)と語られました。イエス・キリストを信じること、これが死に対して唯一必要な備えであるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月25日号(第903号)より転載—

2016年9月19日月曜日

ザアカイ
 イエスさまは、世に捨てられた人々を選んでことさらに愛を示してくださいました。その中の一人にザアカイがいます(ルカの福音書19章)。
 聖書はザアカイのことを「取税人のかしらで、金持ちであった」と書き記しています。おそらく不正な取り立てもやっていたのでしょう。ザアカイは人々に嫌われていました。
 イエスさまが町に来られた時、ザアカイはイエスさまがどんな方か見ようとしました。しかし、背の低いザアカイは群衆のため見えません。それで、ザアカイは前方に走り出て、いちじく桑の木に登り、そこからイエスさまを見ました。ちょうどイエスさまがそこを通るところで、こう言いました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、大喜びでイエスさまを迎えました。
 人生、結局はお金だと結論付ける人は少なくありません。お金がありさえすれば何の不自由もなく、何でも手に入れられる。そう信じていたからこそザアカイもお金に走ったのでしょう。
 しかし、お金があってもザアカイの心には隙間がありました。お金では買えないものが世にはあるのだと知り始めていたのです。それは、イエスさまが与えてくださるたましいの救いです。
 宴もたけなわになったころ、ザアカイは、イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」
 もはやザアカイは、以前の金を愛した男ではなくなりました。彼のたましいはイエスさまによって憩いに帰りました。あなたもまた、イエスさまに帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月18日号(第902号)より転載—

2016年9月13日火曜日

 
 幼いころ、『泣いた赤鬼』という絵本を読みました。幼心の私にも、非常に強く感じるものがあった記憶があり
ます。
 主人公の赤鬼は、人間と友達になりたくて、家の前に立て札を立て遊びに来てくれるよう誘いました。しかし
人間は、取って食うつもりだろうと警戒して誰も来ません。赤鬼には青鬼という親友がいて、彼は、自分がふも
との村で暴れるから、自分をやっつけろ、そうすれば、人間は安心して仲良くしてくれるだろう、と言いました。
 その読みは当たりました。赤鬼は毎日人間と楽しく過ごすようになりました。しかし、あれから青鬼に会ってい
ません。どうしたのだろうと家を訪ねたところ、青鬼の姿は既に無く、家の前には自分と付き合うと君も悪い鬼だ
と思われるから自分は旅に出るという手紙が残されていました。
 この話は幼心にも、やるせない話でした。親友を失ったということと、人間と仲良くすることをてんびんにかけて
みると、赤鬼にはどちらが大切だったのでしょうか。親友でしょう。しかし、彼は気付くには遅すぎました。
 聖書に箴言があります。その一つにこう書かれています。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する
者は守られる」(2925節)
 赤鬼が落ちたわなは、いわば、人を恐れたことにあるといえます。人に好いてもらいたいという思いが高じると、
自然と人の顔色をうかがう者となり、ついには捕らわれ人となってしまいます。その結果、一番大切なものを失っ
た、これが赤鬼ではなかったかと思います。
 人を愛することと恐れることは違います。恐れることの結末はわなに終わります。そして、一番大切なものを失
います。神に信頼し、真に人を愛する道を行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月11日号(第901号)より転載—

2016年9月5日月曜日

しつこさ

 親愛なるA牧師は、よく説教でこのようなことを言います。「皆さん、人間関係においてしつこいことは嫌われます。しかし、神との関係ではしつこいことが神の手を動かしますよ」というのです。
 まさしく自分に語られていると思いました。常日ごろ、私は、自分の手に負えない事があると、教えてくれる人を探して粘ります。相手が根負けして、作業の手を止めて教えてくれるまで粘るところがあり、家族には不評です。他方、神さまとの関係においてはなぜかそんな粘りが出てきません。求める前にあっさりと引き下がってしまいます。これでは、神の御手を見ることができません。
 ルカの福音書11章でイエスさまは、興味深いたとえをお話になりました。
 友人が旅の道中、自分の家へ寄ったのですが、出してやるものがなくて、真夜中でしたが友だちにパン3個を貸してくれと頼みました。ところがその友だちは、家の中からこう答えます。「面倒をかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」。
 イエスさまは、「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(58節)と語られました。さらに、18章にも同様の記述があります。
 この事例から学ぶことは、信仰は、しつこく求め続ける事だということです。神さまの御心を無視することではありませんが、確かに、しつこく求めることを神さまは語っておられます。そして求める者は受けるのです。共にその信仰に立ち、神さまに求めていきましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月4日号(第900号)より転載—