2013年12月24日火曜日


低くされた人
 ヨセフはヤコブの年寄子で、兄たち以上に愛されていました。
 ある時、ヨセフは夢を見ました。畑の束のうち、自分の束がまっすぐに立ち、
兄弟の束が自分におじぎするという夢です。続けて、彼は太陽と月と十 一の星
が自分に伏し拝んでいる夢をも見、その夢を兄弟たちに話しました。兄たちは怒
り、ヨセフを奴隷として売ってしまいました。
 ヨセフはエジプトの王であるパロの廷臣ポテファルの奴隷となりますが、その
中においても主の祝福があり、ポテファルは自分の全財産をヨセフに任 せまし
た。ところが、彼の妻がたくらみをもって「私と寝ておくれ」と迫りました。ヨ
セフは上着を残して、外に逃げましたがポテファルの妻は、その 上着を見せ、
夫にヨセフが自分を辱めたと語ったので、彼は激怒し、ヨセフを監獄に入れまし
た。
 監獄でもヨセフは祝福され、監獄の長から全ての囚人をお世話するよう任され
ました。そして、ヨセフに転機がやってきました。王の献酌官と調理官 の見た
夢を解き明かしたのです。パロの前に出たら、どうか無実な私のことを語って解
放してほしいと願いました。ところが、これが忘れられたので す。この後パロ
が胸騒ぎする夢の解き明かしを求めるまでの2年間、ヨセフはどんな思いで過ご
したでしょう。
 詩篇105篇19節に「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼
をためした」とあります。
 このためしの中でヨセフは低くされ、主の器として整えられます。ついにヨセ
フはパロに次ぐ大臣になり、幼少に見た夢は実現します。神の器に求め られる
のは「低い心」です。私たちもまた低くされますが、それを喜びとしていきま
しょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月29日号(第760号)より転載—

2013年12月19日木曜日


復活の望み
 他の宗教にはなく、キリスト教にあるのは何でしょう。それは、「復活」で
す。イエス・キリストは、私たちの罪を負って十字架で死なれ、そして3 日目
によみがえりを果たされました。
 それゆえ、この良きおとずれを信じる者は、誰でも皆、救われます。全ての罪
を赦され、死に打ち勝った「復活」を受けることができるのです。
 私の友人Pは、救いの体験に関して次のように語ってくれました。彼は、教会
に行ってすんなりイエスさまを信じたそうです。しかし、ある時ある人 から
「信じるっていうけれど、何を信じているの」と聞かれた時、彼は漠然と「存
在」かなと答えるほかなかったそうです。
 イエスさまの「存在」を信じるだけなら、悪魔でも信じて震えてるよ、と言わ
れて、信じるとは、キリスト・イエスの十字架の贖いを信じることだ と、初め
て気付いたそうです。目が開かれた彼は、確信を持ってバプテスマを受けました。
 「復活」は、全ての罪が赦され、永遠に生きる者となるしるしです。
 コリント人への手紙第一152021節にはこのように書かれています。「今や
キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられま した。という
のは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来
たからです」
 このひとりの人とは、イエス・キリストです。イエスさまは復活されました。
それゆえ、私たちもまたイエスさまの十字架の贖いと、その復活を信じ るな
ら、よみがりを果たすのです。キリストは死に勝利しています。この福音を信じ
るのなら、私たちも復活し、永遠のいのちを受けることをどうか覚 えてくださ
い。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月22日号(第759号)より転載—

2013年12月11日水曜日


おもてなし
 聖書を読んでいると、自分に似ていると思う人がいるものです。私にとって
は、ルカの福音書に出てくるベタニヤのマルタという長姉がその人です。
 マルタは人一倍「おもてなし好き」な女性で、イエスさまが村に入ると、喜ん
で家にお迎えしました。その途端から彼女の頭には、イエスさまに、し て差し
上げたい計画が一気にUP!され、彼女は猛進しました。
 彼女には妹がいました。マリヤといいます。姉とはまったく対照的な妹で、た
だじっとイエスさまのそばに座って、イエスさまの語る話に聞き入って います。
 イエスさまをお喜ばせしたい一心のマルタには、そんな妹の姿はこころよく映
りませんでした。おもてなしのために手伝ってもらいたいことが山ほど あった
からです。
 思い余ってマルタはイエスさまに抗議しました。「主よ。妹が私だけにおもて
なしさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝 いをす
るように、妹におっしゃってください」 (ルカの福音書1040節)
 イエスさまは答えて言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろな
ことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは わずか
です。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそ
れを取り上げてはいけません」 (ルカの福音書1041節)
 おもてなしがマルタにとって最高の愛の表現であることは、主もご存じでし
た。しかし、必要なことはただ一つだけだと言われたのです。それは主の 声に
聞くということです。
 神さまのことばを聞き、神さまの御心を知ることが、神さまへの最高の「おも
てなし」です。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月15日号(第758号)より転載—

2013年12月2日月曜日


エバに泣く?
エバは人類最初の女性です。私たちの究極のご先祖さんです。天に帰ったら、私
は「おばあちゃん、どうして禁断の実なんか食べたの」と聞きたいで す。とい
うのも人類に死が入ったのは、彼女の背きの罪によるところが大きいからです。
 そもそも罪はどこから来たのでしょうか。それは私たちの最も古い祖先である
アダムとエバがエデンの園に置かれていた頃にさかのぼります。神さま は、園
の中央に、いのちの木、善悪の知識の木を生えさせました。そして「あなたがた
は、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の 知識の木から
は取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死
ぬ」(創世記2章1617節)と語られました。
 ずる賢いヘビは、夫アダムを倒すため、まず妻であるエバを惑わし「本当に神
さまはそう言ったのですか。死にやしませんよ」と偽りを語ります。禁 断の木
の実は、エバの目に慕わしく彼女はついにそれを食べ、アダムにも食べさせまし
た。その結果、罪が生じ、死がきました。この上さらに「いのち の木を食べ、
罪を持ったまま永遠に生きないように」と神さまは彼らを園から追放されました。
 それが始まりです。エバが神の言葉を守り、善悪の知識の木を食べなかった
ら、私たちは今もなおエデンの園で祝福されていたことでしょう。
 しかし神さまに感謝します。神さまはイエスさまを遣わし、その十字架によっ
て私たちを贖い出してくださいました。この十字架の罪の赦しにより、 私たち
は、エデンの園よりもさらに素晴らしい、天の御国で永遠に生きる者となりまし
た。神さまの愛は、かくも大きいのです。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月8日号(第757号)より転載—