2019年1月9日水曜日

 

 祈りは一つの原則で、祈りは決して一方通行に終わるものではありません。今日救いを受けた方であっても、イエスさまの御名(みな)によって祈ることができます。そして、そればかりではなく、祈りの答えを見ることができます。クリスチャン1年生であっても、信仰歴数十年といった人と同様の結果を見るのです。
 それは、イエスさまの十字架の贖(あがな)いによって、私たちが、罪なき者とされたからです。罪があると、罪は神さまと私たちの間を遮断しますから、例外はあるとしても、祈りは聞かれません。しかし、悔い改めるなら、神は全ての罪を赦してくださるので、神のみこころに沿った祈りは聞かれます。
 経験でもなく年数でもありません。信仰です。信仰を運用し、信仰によって神に近づくなら、誰であっても神は祈りに応えてくださいます。これは原則です。
 信仰と祈りは、切っても切れない関係にあります。というのも、信じていない人は、はなから祈ることをしません。どうせ無駄だと諦めているのです。反対に、祈りを知っている人は、確信を持ってどんどん祈るようになります。祈ること自体が信仰の行いとなるので、祈る者は祈りに応えられる神さまの現実を体験するようになります。
 問題の中にある人は多いです。しかし、その中で祈りを用いる人は思いのほか少ないのです。祈りは神が働く基盤です。日々の小さな事柄を祈れる人は、大きな問題が来た時でも祈ることができます。
 祈りは、主イエスを信じる私たちの特権であり、祈りは神の手を動かします。それ故、祈ることをお勧めいたします。
 マルコの福音書1124節にはこのように書かれています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月13日号(第1024号)より転載—

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