2014年7月28日月曜日

ひしがれた心
 先日、しばらくお会いしていなかった知人に出会いました。ご病気だとは聞い
ていましたが、あまりの変わりように胸が痛みました。
 聖書にヨブ記という箇所があります。ヨブの病を見た友人は、ヨブはよほど大
きな罪を犯したのだろうと考えました。確かに病は罪によって起こるも の、サ
タンが介在するものがあります。しかし、病気になるのは必ずしもその人が罪を
犯したからではありません。にもかかわらず、そういう見方がさ れてしまうこ
とは悔しい限りです。
 ヨハネの福音書9章では、生まれつきの盲人を見て、お弟子たちが「先生。彼
が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人です か。そ
の両親ですか」と問いました。今でこそ、そのような考えは差別だとして糾弾さ
れますが、当時はそれが一般的な考え方だったのです。
 しかし、イエスさまはこう語られました。「この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(2、3 節)神の
み思いはなんと深いのでしょう。
 箴言に、「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろ
うか」とあります。病気の苦難はまだ忍べます。しかし病気をとりまく 偏見や
無理解は病気以上につらいのです。
 覚えてください。ただイエスさまこの方だけが、あなたの救いであり、癒やす
ことのできるお方です。イザヤ書53章には、イエスさまについて「悲 しみの人
で病を知っていた」と書かれています。イエスさまは病人の友となってください
ます。病苦もさる事ながらそれ以上に苦しい、あなたのひしが れた心に寄り
添ってくださるのです。イエスさまを心にお迎えしましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年8月3日号(第791号)より転載—

2014年7月24日木曜日

偶像礼拝
 中学2年の夏、ある宗教の夏のキャンプに母の代理で行きました。当時の私の
宗教観は「いわしの頭も信心から」というものでしたので、これも何か の縁
だ、悩みもあることだし、信心してみようかという気になりました。
 こうして私はそこに行き、偶像礼拝を体験しました。それはイザヤ書44節に書
かれている通りです。人間の美しい姿に仕上げて安置してある偶像に 向かっ
て、足を向けてはいけません。靴下も脱ぎなさい、寝る時も足を偶像に向けずに
布団に入るよう求められました。またお経は、一つの物語のよう なものでした
が、文学的にはちぐはぐで趣旨が伝わってきません。それを言うと、お経自体が
ありがたいものなのです、理解しようなんてとんでもあり ません。というので
す。たすきを掛け、題目を唱えながら行進しました。私は、これが宗教か、と思
いました。
 後日私は、キリスト教徒になるのですが、しかしそれは、このとき経験した
「宗教」や「入信」とは全く次元の異なるものでした。それは出会いでし た。
救いの日に私は天地を造られた神さまに出会い、イエス・キリストの福音によっ
て救われたのです。
 宗教を例えるのによく登山が用いられます。宗教は異なっていても、たどりつ
く山の頂上は一つだというのです。しかし、これは違います。宗教の山 は一つ
ではなく、宗教の数だけあるのです。そしてその中で、キリスト教の山だけが天
の頂に届いており、私たちを天国に導きいれ、永遠のいのちを与 えることがで
きるのです。
 神さまは今も生きておられます。人を救うことができるのは、まことの神以外
にはありません。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(ヨハネの手 紙第一
5章21節) (イスラエル北野)

み声新聞2014年7月27日号(第790号)より転載—

2014年7月17日木曜日

ぶどうの木
 ヨハネの福音書15章でイエスさまはこう語られました。『わたしはまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。(中略)枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶとはできません。』(1、4節)
 ぶどうの木とはイエスさまです。そして枝とは、私たちのことです。枝は木につながれなければ生きていけません。枯れて捨てられます。しかし、そんな枝でも木につながれば木から養分を得、豊かな実を結びます。イエスさまは、教会のかしらです。ですから、木につながるとは、具体的には教会につながるということを意味しているのです。
 最近、心痛める二つのことがありました。2年ほど前に脱会を申し出てきた兄弟がいますが、その後どこの教会にもつながらずにいたところ、今は離婚を協議するという事態にあると聞きました。またもう1人の兄弟は、クリスチャンですが、あちこち教会をめぐり歩き定住しないことによって、今、重い病が許されています。
 私たちはよく、自分の信仰さえしっかりしているなら教会に行く必要はない、またどこに行こうが問題ない、ここにも神はいるのだから、このような意見を聞きます。しかし、それこそがサタンのわなです。その思いには決して従ってはなりません。私たちは枝です。キリストのみからだなる教会につながれてない人は、サタンの格好の餌食となります。
 こういうわけで、私たちは教会に相集い、主の牧会の中で養われましょう。まだイエスさまを救い主として信じていない方は、どうかこの信仰を持ち、あなたもまたイエスさまにつながりましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2014年7月20日(第789号)より転載―


  

2014年7月9日水曜日

目のはり
 聖書には、「さばいてはいけません。さばかれないためです」という勧めがあ
ります。実行するには困難を覚えますがこれは真理を語っています。私 たちは
人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
 私もまた身に覚えがあります。ちょっとしたことなのですが、時間がたつにつ
れ、ふつふつと怒りが湧き起こり、そういえばあの時もこの時もそう だった。
なんてひどい人、とまんまとサタンに乗せられて、恨みつらみが心を支配するの
を許してしまいました。
 それに関して神さまはこのように語られました。「なぜあなたは、兄弟の目の
中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのです か。兄弟
に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うので
すか。見なさい。自分の目には梁があるではありません か」(マタイの福音書
7章3、4節)
 梁とは、家を支える横木の柱を言います。自分の目にこんな大きな物を持って
いながら、兄弟の小さな目のちりを指摘するのがいかに見当外れなもの かを、
イエスさまは説いておられるのです。
 私たちは皆、等しく罪人です。イエスさまお一人だけが罪の無いお方であり、
イエスさまは私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださいました。 主が赦
してくださったのですから、私たちもまた、互いに赦し合うものでありましょ
う。そして主の助けを頂き、熱心に愛しあいましょう。
 私たちが互いに赦し合い愛し合うなら、多くの人が私たちを通して神の愛を見
いだし、神を知るようになります。互いに赦し合うことは神が喜ばれる いけ
にえです。その力も神は与えてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年7月13日号(第788号)より転載—

2014年7月5日土曜日

次女、恐るべし
 昔読んだリポートですが、クリスチャンは長男長女が多いようです。聖書で
は、初子はすべて私のものであると書かれていますので、その通り主が召 され
た者も長子が多いようです。
 とはいえ、長男長女ばかりが教会で幅をきかせているかというと、そうでもあ
りません。長子は他の子以上にわきまえが求められますからおおむねお となし
く極端なことはしません。それに反して教会はまるで私のためにあるとばかりの
甘え上手で大胆な人たちがいます。よく見ると彼らは往々にして 次男次女、
末っ子にクリスチャン2世です。
 彼らがすごいのは、何が起ころうと決して主の自分への愛を疑ったりしないこ
とです。生育環境の違いでしょうか、父や母、兄や姉から愛されて育っ てきて
いるので、教会の中でも自分の居場所があること、主に愛されていることをこ
れっぽっちも疑っていません。
 私にも、成人した2人の娘がいますが、次女は今でも、子どものように私に甘
えてくれます。彼女は叱られようが何しようが自分が愛されていること を知っ
ているのです。
 まさに次女、恐るべしです。聖書でもルカの福音書10章にマルタと妹のマリヤ
のことが書かれています。イエスさまが来られると聞いて、長女マル タはおも
てなしのために忙しく立ち振る舞いました。しかし、妹のマリヤは主のそばから
離れようとはせず、じっとイエスさまの言葉に耳を傾けていま した。これほど
姉と妹は違うのです。
 イエスさまは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそ
こに、入ることはできません」と語られました。(1817節)子ど ものよう
に、です。神さまは無条件であなたを愛しておられます。(イスラエル北野)

み声新聞2014年7月6日号(第787号)より転載—