2016年8月31日水曜日

ねたみ
 神はモーセを通して、イスラエルに「十戒」を与えられました。十番目の戒めは、「隣人の物を欲しがってはならない」というものです。隣の芝生は青く見えると言います。自分が持っているものより他人の持っているもの方が勝っているように見えるのです。そうなれば、そこにねたみが生じます。
 私は独身のころ、友人の結婚を聞くたびに落ち込みました。友人を祝福しながらも、心の深い所では、自分に持っていない祝福を頂いている友人をねたましく思いました。その思いからは、なかなか自由になれませんでした。
 創世記4章に、カインとアベルの兄弟のことが書かれています。彼らはエバの子で、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。
 時期が来て、それぞれ主へのささげものを持って来たところ、神はアベルのささげものに目を留められました。彼は羊の初子の中から最良のものを、それも自分自身で持って来たのです。しかし、カインとそのささげものには、目を留められませんでした。カインはこれにひどく怒り、弟のアベルを野に誘い、彼を殺してしまいます。カインは、神に祝されている弟を強くねたんだのです。そして殺しました。
 ねたみの行き着く先は殺人です。イエスさまを十字架につけたのもまたねたみでした。祭司長、律法学者たちは、イエスさまが民衆に人気があるのをねたんだのです。そして、殺しました。ねたみは人をも殺す危険な罪です。
 隣人の芝生は青く見えやすいものです。そんな時は、自分の芝生の祝福を求め、神さまに祈るのです。神さまは喜んであなたにも最善の祝福を与えてくださいます。その時あなたは、既に多くの祝福を受けていたことにもまた気付くでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月28日号(第899号)より転載—

2016年8月22日月曜日

慰め
 先日、病院へ行ったところ、隣が新生児科で、生まれたばかりの赤ちゃんがいました。お母さんの腕の中であくびをしたり手を動かしたり、そのしぐさのかわいいこと。赤ちゃんが欲しくて盗んだ人がいると聞きますが、その気持ち、分かるような思いでした。
 しかし、われに返り目の前の赤ちゃんを見ると、その子は難病なのです。誕生とともに病との闘いに直面している赤ちゃんと、お母さんの姿には胸を打たれました。
 こんな時、どうお慰めすればいいか言葉に困ります。しかし、少しはその心を分かり合えるかもしれません。というのは私の赤ちゃんは、誕生を目前に天に帰っていったからです。そのあまりの悲しみに、私は生きる意欲を失いました。
 子を亡くすことはつらいことでした。しかし、神はこれを益に変えてくださいました。難病と闘うお母さんを慰める慰めの言葉が湧き上がってくるのです。
 コリント人への手紙第二1章4節に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と書かれています。これは真実です。また同6節には「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです」「その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」と書かれています。
 私たちの受ける苦しみは、必ず他の人を慰め、立ち上がらせる力となるのです。私たちの人生に無駄なものはありません。神さまに信頼し、従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月21日号(第898号)より転載—

2016年8月18日木曜日


救い
 このところそれほど聞かれなくなりましたが、教会には悪霊追い出しというミニストリーがあります。福音書を読むと、イエスさまは病のいやしと同じくらい悪霊を追い出されたことが書かれています。
 悪霊追い出しにはたちどころに解放されるものもあれば、頑固に居座る悪霊もいます。悪霊は必ずしも当人に災いをもたらすだけでなく、病をいやしたり、人の益になると思えることさえ行ったりします。しかし、どれだけ益をもたらしていても、悪霊は、人を「救う」ことだけは決してできません。ご利益をもたらすことができても、救いはキリスト・イエス以外にはありません。
 使徒の働き412節にはっきりと次のように書かれています。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」
 それでは救いとは何でしょう。イエスキリストは、私の罪を贖い、十字架で死なれたこと、そして3日目に復活を遂げられたこと、これらを心に信じ、口で告白するなら私たちは救われます。私たちを告発するどんなさばきも無効とされ、私たちは神の子としての身分を受け、永遠のいのちを頂くのです。この権威をお持ちなのは、父なる神さまおひとりです
 命ある限りなさなければならないのは、この福音に応答することです。私たちのこの地上のひとときは、永遠という時代に備える意味を持っています。罪があるなら、天国には行けません。それ故、私たちを天に迎え入れるために、イエスさまは十字架で死んでくださったのです。
 イエスさまこそ唯一の救いです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年8月14日号(第897号)より転載—

2016年8月9日火曜日

虹の話
 私たちの教会のロゴは、赤い十字架と虹でできています。赤い十字架は、イエスさまが流された血潮とその贖いを想起させ、虹はその約束を確かにさせるものです。
 虹の由来は、創世記のノアの時代にさかのぼります。ご存じのようにノアは、箱舟を作ったことで有名です。悪い時代をこれ以上見過ごすことができなくて、神はさばきをなさいました。大水によって地上の肉なるもの全てが死に絶え、ただ、箱舟の中にいるノアとその家族、動物たちだけがこの難(さばき)を逃れました。
 ここに至って神は、ノアと契約を立てました。「…すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。(中略)わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(創世記9章11節~13節)虹は契約のしるしなのです。
 ところで、私の夫はよく虹を見つけます。今の家に来てから少なくとも30回は彩雲や虹を見ていると思います。友人は、ここ10年虹を見ていないと言いますから、特別な神さまの御手があるのでしょう。
 ペテロの手紙第二3章に「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ」ている(6、7節)と書かれています。私たちが住むこの天地は、水では滅びませんが、今度は火をもってさばきが下されることが予告されています。
 そういうわけで、今の時代を見分けましょう。今は終わりの時代であり、私たちは滅びの手前にいます。悔い改めて神に立ち返り、主イエスキリストが下さる救いをあなたのものとしてください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月7日号(第896号)より転載—

2016年8月1日月曜日

出エジプト
 映画「十戒」の一大スペクタクルといえば、何といっても紅海が左右に分かれ両側に滝のようにそそり立つシーンでしょう。民は海底の道を通っていきました。
 ここに至るまでのいきさつをご存じでしょうか。神はモーセを立て、エジプトの奴隷であったイスラエルを出エジプトさせます。主は民とともにおり、昼は雲の柱が夜は火の柱が、民の歩む道を示しました。
 民は荒野を行きました。それから、海辺へと導かれて宿営したところ、イスラエルを去らせた王パロは後悔してかたくなに追い掛けてきました。そして追い迫ったのです。絶体絶命でした。
 先には海、後ろにはエジプト軍という危機にあって、モーセが叫ぶと神は前進せよと語られました。モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海は二つに割れました。イスラエルは海の真中の道を行きました。イスラエルが渡り終えると海は元のようになり、後に続いたエジプト軍は海にのまれて死に絶えてしまいました。神は栄光を現されました。
 この一連の出来事から学ぶところは多いです。主に従ったにもかかわらず、かえって悪くなることがあります。多くの人々はそこでつぶやきます。中には従うことをやめてしまう人もいます。けれども、この患難は後に大きな奇跡が現れるためのものであり、その解決に至るまで神は計画をお持ちなのです。
 神は奇跡を行われました。脱出の道がない海辺にあえて民を集結させ「前進」と語られました。そして、その結果は、紅海が割れて道を備えるという奇跡であったのです。
 もう駄目だという時から奇跡は始まります。主に信頼しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年7月31日号(第895号)より転載—