2016年5月30日月曜日

明日の心配
 熊本の大地震からはやひと月がたちました。今なお、活発な地震活動が続いており、復旧のめどが立っていません。夫と私は四年半熊本に住み、牧会のご奉仕をさせていただきました。懇意になった友人知人も多く、この災害は人ごとではありません。
 熊本は河川の氾濫が年に何回かあります。これからは梅雨に入り、二次災害も懸念されます。誰がこの災害を予期することができたでしょう。
 東日本大震災および福島の原発事故が起こった時、実は災害を逃れ熊本や沖縄に移住を決めた方々がいました。熊本なら大丈夫だろうと考えての移住でした。しかし、ここにきて、まさかの震度7の大地震に遭遇したのです。紙面をお借りして被災者の皆さんにお見舞い申し上げます。
 それにしても人の知恵は限界があるものです。災害を避けたはずが想定外の災害に見舞われるなんて、人生は何と測りがたいものでしょう。確かな守りは神から与えられるもので、自分の知恵に聞くより神に聞くことが確かな道だとあらためて思わされました。
 マタイの福音書634節には次のように書かれています。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」
 私たちは、事を案じるということをしがちですが、イエスさまは常にご自身に委ねるよう私たちを導いてくださいます。何が起ころうが、それは神さまが知らないものではありません。主は全てをご存じで最善を与えてくださいます。心配は切りがありません。それ故、決心して心配を手放し、むしろ神に信頼する時としましょう。労苦はその日その日に十分です。あすの心配は無用です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月28日号(第886号)より転載—

2016年5月23日月曜日

弱さは恵み
私の父は、1月1日生まれで本当に稀有な人でした。家は貧しかったのですが、一代で財を築き、成功しました。
 父と気性の似ている私は父の成功を受け継ぐ者として育てられました。幼いころは父の期待に添えられたようです。しかし、自我に目覚め、クリスチャンになってから全ては一変しました。
 イエスさまを信じ、神の子となった私は神の愛にほだされ、ごく自然に献身の道に進みました。すると次の段階がやってきました。予期せぬ病という試練でした。洗礼を前にしながら半年も入院する病気に見舞われたのです。生まれて初めての挫折でした。父はそんなに弱くてどうする、と私を嘆きました。
 以来、弱さは私のコンプレックスになりました。しかし、神の目にはこれこそが祝福であったのです。
 聖書を読むと、パウロが弱さに関して興味深いことを語っています(コリント人への手紙第二12章参照)。パウロは素晴らしい啓示を受けました。それ故、高ぶることのないよう肉体に一つのトゲを与えられました。彼は、これを去らせてくださるよう三度も主に願いました。しかし、それに対して主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(12章9節)と語られたのです。
 弱さは悪いものと考えがちです。しかし、神にあってはそうではありません。主の力は、弱さの内に完全に現れます。それ故パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と語ったのです。
 弱さは私を変えました。徹底して弱くされることによって、私たちは神の大いなる恵みを知るのです。弱さは祝福です。弱さを感謝しましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2016年5月22日号(第885号)より転載—

2016年5月16日月曜日

天国に行けますか
 先日、ブログを見ていたところ、ある牧師が「老後より死後が重要です」と語ったことが出ていました。本当にその通りだと思いました。
 多くの人が自分の人生の終わりを、老後、また、自分の死まで、と考えています。死後の世界となると知りようがないので、死後を語る宗教はうさんくさいと一蹴されがちです。しかし、人は死んでも損なわれるのは肉にすぎず、霊、たましいは死後も滅びることはありません。
 現にイエスさまは、ルカの福音書12章でこう語っています。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」(4、5節)からだの死はからだに限る死で、私たちのからだが死んでも、私たちは失せるものではなく、神に対しては生きています。
 世の人生は地上の死で終わります。今ある命はかりそめの命です。この限りある地上の命の時間の中で、何が最も大切かと言えば、神が与えてくださる永遠のいのちを受けること、そして、神にある人生を歩むことです。
 イエス・キリストは約2000年前に世に来られました。病をいやし悪霊を追い出し、最後は十字架で死なれ、三日目に復活されました。それは、私たちを贖い救うためであった、と知るなら、そしてその信仰を告白するなら、あなたは救われます。
 死は等しくわれわれを縛っています。あなたは、死後天国に行く確信がありますか。備えがありますか。イエスさまはあなたの代わりに死んでくださったのです。天国に行けるようあなたもまたイエスの福音を信じ備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月15日号(第884号)より転載—

2016年5月10日火曜日

ブーメラン
 それは、荻窪にある小さな家から始まりました。女子大生4名の者が主の御手によって集められ、同じ釜の飯を食べ、祈りや聖書研究にいそし
んでいました。
 その当時の私たちの課題は、もっとも自分が大切にしているものを主におささげする、というものでした。格闘の末、私は文学をささげました。フォ
ークソングが大好きで、シンガー・ソングライターに憧れていたMさんはこれをささげました。哲学を専攻していたHさんは、哲学では死んだはずの生
ける神を知り、楽しみであった「カーペンターズ」をささげました。Aさんもまた、あらためて人生を主にささげました。
 マルコの福音書8章34節に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とい
う一文があります。このことばに試され励まされ、四つに組んで格闘しました。
 それから、30年がたちました。
 文学を捨て牧師夫人になった私は、もう物を書くことなどないと思っていましたが、こうして拙文を寄稿させていただいています。ささげたものが戻
ってきたのです。私たちはこれを、ブーメランと呼んでいます。青春時代に精いっぱい遠くに投げたブーメランが30年の年月の中で力強く戻ってきまし
た。
 Mさんは、ささげた音楽の道が祝福され、ゴスペルシンガーになりました。CD3枚がリリースされ多くの名曲を生みました。Hさんは宣教師になり、
地球の反対側のB国に根を張って働いています。そして、Aさんは牧師夫人としてご主人を支えています。みな、あのころささげたものの幾倍の祝
福にあずかっています。
 神に聞き従う時、全ての事は益になり、幾倍もの祝福を受けるのです。主に期待いたしましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2016年5月8日号(第883号)より転載—

2016年5月3日火曜日

神の守り
 かれこれ十数年も昔の話です。小学生の娘と幼稚園児の娘とともに保養施設で休日を楽しんでいたところ、とんでもない事が起きました。
 プール遊びを切り上げて、部屋に戻って来たにもかかわらず、私が妹の面倒を見るから、もう一度プールに行かせて、と長女がせがむのです。子どもたちだけでは不安です。夫もプールに行きました。
 夫が何げなくプールサイドに腰を下ろしていた所、「ポチャン」という小さな音を拾いました。見ると下の子が見当たりません。急いでプールに駆け寄ると、両手を上げたままゆっくりと底へ落ちていくところでした。すぐさま手を取り、引き上げると大声で泣き、生還を果たしました。
 面倒を見る、といったお姉ちゃんは、プールの真ん中に置いてあるボートに乗ろうと夢中でした。もし、子どもたちだけでプールに行かせたら、また夫がプールサイドにいなかったら、「ポチャン」という小さい音が聞こえなかったら、この子は多分亡くなっていたことでしょう。私を憐れんで、神はそのような事のないように特別に守ってくださったのです。感謝し切れないくらい感謝しています。
 詩篇121篇にこう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(1,2節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(4節)「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」(7節)
 この体験のおかげで、私は、命を守られるのは主だと知りました。当たり前だと受け取っている一つ一つも、神の手によるのです。恵みという他ありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月1日号(第882号)より転載—