2017年1月29日日曜日


 幼い頃、鏡の前に立って遊ぶのが大好きでした。それを知っている父母はそっと近づき、鏡の前にいる私に向かっ
て繰り返し語るのです。「自分の顔に自信を持てるように生きなさいね。二十歳までは、お父さんお母さんが責任を
持ってあげるけど、二十歳を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持ちなさい。心にあるものが顔に出てくるのよ」と言う
のです。
 思う節がありました。マタイの福音書6章22節には、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら
、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と書かれています。『獄中からの賛
美』の著者であるマーリン・キャロザース氏はまさにその人でした。お交わりをさせていただきましたが、神さまが下さる
大いなる喜びを頂いて、目ばかりか全身光を放っています。一点の曇りもありません。
 モーセもまたこの事で神さまの栄光を現しました。彼は主に呼ばれ、シナイ山に登りました。主と語り終え、下山す
る時、彼の顔は主の栄光を写し、肌は強く光を放っていたことが聖書に書かれています。
 他にも、殉教者ステパノは殉教の直前に、その顔は御使いの顔のように見えた、と聖書は記しています。主と交わ
れば一つ霊となり、神さまの栄光を反映させ、世にあって強く輝きます。
 こういう訳で私たちは、主が下さる喜びの中を生きることができるよう、神さまに求めましょう。主を喜ぶことは力であ
り、その喜びは幾倍にも増え広がります。そして、あなたの喜びや、輝きを見た多くの人が、あなたを通して神さまを
見、神さまに立ち返っていくようになります。何と素晴らしいお計らいでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月29日号(第921号)より転載—
愛を学ぶ所
教会はどういう所でしょう。素朴にそう思う人は多いでしょう。私の意見では、教会は「愛を学ぶ」
所です。そしてそれは「神を学ぶ」所につながっていきます。
世には多くの形の愛があり、神々とよばれる神もたくさんあります。その中から、ただ一つの真実、
あるいは本物の愛と出会うために、人の人生はあるのではないかと思います。
カルバリ山の十字架で、私は愛を知りました。約2000年前にイエス・キリストは世に来られ、
ご自分が預言者たちによって語られていた約束の救い主であることを証しし、お弟子たちを教え
育てながら、時至ってカルバリで十字架にかかって死なれました。
イエスさまは、神の御子であるにもかかわらず、その在り方を捨て、私たちと同じように肉を持ち、
肉において私たちの罪を担い、しかも最も厳しい十字架によって死に、私たち人類のために贖いを
完成させてくださいました。イエスさまが約束の救い主であることのしるしは、イエスさまが自ら予告
していたように3日目に復活を遂げられたことにあります。
イエスさまを世に送られた父なる神は、全能者であられ、誰も近づくことのできない光の中に住んでおられ、光そのものです。また、その姿を直接見た者はいません。世にいう神々など足元にも及びません。
神は愛です。イエスさまは神さまなので、その愛もまた完全です。このお方と出会い、このお方を
知ることによって、私たちはまことの愛を知り、愛を学んでいくのです。私たち人の愛は不完全ですが、イエスさまの愛は完全です。完全な愛を持つ方を通してでしか、本当の愛は学べません。
どうぞ、教会に行き、まことの愛と出会ってください。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月22日号(第920号)より転載—

2017年1月15日日曜日

金銀より確かなもの
 私たちの人生は、よく四季に例えられます。かつて思春期があったように、老いて今は思秋期を迎えています。社
会の表舞台から少しずつ身を退け、後進に席を譲ることが求められてくる年齢です。
 五十の声を聞いて、私も、自分が死んだ後、子に何を残してやれるだろうかということを折節に考えるようになりま
した。未信者のKさんは、未婚のお嬢さんが一人で生きていけるよう、退職金に手を付けず残すことを決めました。
自分にはこれぐらいしかできないのだと力なく語った様子が印象的でした。
 一見、お金は万能です。金銭はあらゆる必要に応じます。ですから退職金を残したKさんはできる全ての事を行
いました。しかし、何とも救いがないのです。お金があるからといっても、一事が万事、全てが守られるとは限りません
。より確かなものは別にあるのです。
 ところで、使徒の働き3章に興味深い記述があります。生まれつき足のきかない男が、施しを求めて宮の門に運ば
れてきました。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めたところ、ペテロは「金銀は私にはない。し
かし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。そう言って右手を取って立たせま
した。たちまち足とくるぶしが強くなり、男は歩いたりはねたりしながら、神を賛美し、宮の門に入って行きました。
 どんなにお金があっても、決して手に入れることのできないものを、この男は手にしました。金銀より確かなものは、
キリストであり、その御名です。子に残してやれるもの、それは、神さまご自身です。生きて働かれる神さまこそ、あな
たへの答えとなります。
 
(イスラエル北野)
み声新聞2017年1月15日号(第919号)より転載—


2017年1月13日金曜日

弱さを誇る
ペテロとパウロは、初代教会時代の建て上げに当たって双璧をなすキリスト・イエスの働き人でした。ペテロが無学な漁師であったのに対し、パウロは最高学府であるガマリエル門下に属するエリート中のエリートでした。
 初め、パウロはキリスト者を迫害しました。パウロはそうすることが神の御心だと確信していました。ところがダマスコヘ向かう途中、彼はキリストのことばを聞き、自分の誤りを知らされます。
 この体験以降、パウロは180度変わりました。パウロは「わたしはキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ人への手紙3章8節)と告白するに至りました。
 さらに、パウロは、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(コリント人への手紙第二12章5節)とも告白しました。主もまた、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と語ってくださいました。
 私は18歳の時に救われ、この宗教のあまりの素晴らしさに献身しました。意気込みは強く、福音のためなら何でもするつもりでした。ところが、私にあてがわれた道は予期せぬ病でした。入院し、進むことも退くこともできず、弱さを味わいました。しかし、これが神の御旨だったのです。私の強い所ではなく、私の弱さこそが神さまの目にかなっているのだと知るに至りました。
 こういうわけで、今はパウロ同様、「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と言い得るのです。弱さはキリスト・イエスにあって強さに変えられます。これこそ、神さまの栄光の現れです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月8日号(第918号)より転載—

2017年1月2日月曜日

神への恐れ
 箴言9章10節に、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と書かれています。
 聖書には「主を恐れる」ということが繰り返して書かれています。主を恐れるとは一体どういうことでしょう。
 私が主を恐れることを学んだのは救われてすぐの頃でした。ある牧師が、神さまに祈り求めるということを教えてくださったので、私は、教会に通うための自転車を求めることにしました。あなたが生ける神であることを知りたいのです、自転車をください、そう祈りました。
 さらに、神が答えてくださったということが分かるように、具体的に条件を挙げて祈りました。ブランド物、鍵は二つ、黒いメッシュの籠、変速ギアがあることなどです。
 ところが、私はこの事で不信の罪を犯したのです。一方で神に求めていながら、私は人間的な手段に訴えました。友人から自転車をもらうよう約束を取り付けたのです。その自転車はリクエストを満たしていなかったですが、自転車には変わりありません。自転車が与えられた、と教会で語るつもりでした。
 しかし数日後、1本の電話が鳴りました。もらうはずの自転車が盗難に遭ったというのです。友人のごめんね、の声を遠くで聞きながら、これは、主の御手だと思いました。そして、強い恐れがやってきて、私は自分の二心を悔い改めました。
 その後、引っ越しすることを伝えに保証人さんと連絡を取ると、まさかの一言、向こうから自転車は要らないか、と語られたのです。見る前からそれがリクエスト通りの自転車であると確信しました。そしてその通りでした。神さまはご栄光を現されました。
 神を恐れることは奇跡の土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月1日号(第917号)より転載—