2018年7月25日水曜日

教 会

 神さまの働きは時代ごとにいくつかの区分があり、イエスさまが天に上げられた後は、「教会時代」が始まりました。「教会時代」は新約時代に起こされたものであり、今に至ります。
 「教会」は主の教えの中でもひときわ重要な奥義で、かしらなるキリストと、花嫁なる教会によってこの終末の時代、神さまは「教会」を通して働きを進められます。
 「教会」は、狭義では建造物を指すものですが、その意味するところは「エクレシア」すなわち、神に呼び出された人々の集まりをいいます。
 「教会」の持つ力は、想像をはるかに超えるものがあります。「教会」ということをまだ理解していなかった当初、私は、信仰生活は個人の信仰で何でもまかなえると思っていました。信仰があるなら教会に行かなくても大丈夫だ、というサタンの常套(じょうとう)句にまんまと乗せられ、うそ偽りを受け入れてしまったのです。
 ところが、ある時、病気になり入院を余儀なくされ、教会での日曜礼拝が守れなくなりました。最初は、ベッドの上で礼拝するので大丈夫だと、自信満々でした。しかし、それが半年になり1年になると、その礼拝はしぼんだ風船のようになり、力がなくなってきたのです。ここに至って「教会」が聖霊の源であり、また力であったことを初めて知りました。
 エペソ人の手紙1章23節には、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書かれています。
 「教会」は神さまのご臨在にあふれた所であり、教会にいるだけで霊は強められます。「教会」はキリストのみからだであり、私たちは教会の一部分一器官です。教会は、地上において神の国とその義が全うされる神の奥義です。教会に集いましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月29日号(第1000号)より転載—

2018年7月18日水曜日

祈りの格闘

 以前「祈りのちから」(原題:War Room)という映画を見ました。クローゼットを祈りの部屋にして、神さまと格闘し、素晴らしい解決を見ていくという映画です。八方手を尽くしたが何の解決もない状況になった人々が、神による解決に心を定め、祈りに向かう格闘の部屋です。
 祈りの格闘と言えば、真っ先に出てくるのはヤコブです。ヤコブは兄エサウを欺き、長子の権利を横取りしました。そんないきさつがあったので、郷里に帰るにおいて、ヤコブは兄エサウを恐れていました。兄が迎えに来ると知ると、もうどうすることもできなくなって、ヤコブはヤボクの渡しで自分の家族や持ち物を先に行かせ、一人残って、ある人と格闘します。
 それは受肉前のキリストとも言われています。夜明けまで格闘すると、その人は勝てないと見てとって、ヤコブのもものつがいを打ちました。
 「私を去らせよ。夜が明けるから」とその人は言いました。しかし、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と粘ります。
 その人は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と語り、祝福されました(創世記322428節参照)。
 ヤボクの渡しは、ヤコブにとってのウォールームだったのです。ヤコブは祈り切りました。
 私たちもまた、どうすることもできないような状況にある時、ウォールームに行きましょう。聖書にはこのように書かれています。
 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイの福音書6章6節)
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月22日号(第999号)より転載—

2018年7月11日水曜日

テロリズムの時代

 2018年7月6日、オウム真理教の教祖、麻原彰晃と教団の元幹部ら、合わせて7名に刑が執行されました。これによって、未解明の部分もあるようですが、一連の事件にひとまず幕が下ろされました。
 彼らが起こした地下鉄サリン事件は、今世紀におけるテロリズムのはしりといえます。独自に作った化学兵器による無差別大量殺人は世界中を震撼(しんかん)させ、21世紀はテロリズムの時代だと呼べるほど、各地でテロが相次いでいます。
 さて、ヨハネの手紙第一4章に、興味深いことが書かれています。「愛する者たち。霊だからといってみな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(13節)
 麻原は、オウム真理教の中でいろいろな宗教を援用しました。キリスト教もその一つで、私たちは聖餐(せいさん)式で主イエスの御血であるぶどう酒を頂くのですが、それをまねて麻原は自分の生き血を売ることをしました。他にもいろいろありますが、キリストに似せてはいても、イエスを告白しない霊はキリストのものではありません。麻原が信奉した霊はシバ神です。シバ神だからこそ、このような未曽有の大惨事が起こったとも言い得るでしょう。
 麻原を含む7名は命断たれました。しかし、麻原を用いた霊は生きており、次の麻原を探しています。悪霊は人を使い捨てにします。
 救いは、イエス・キリストにのみあります。この方によらなければ何の救いもありません。イエスは、あなたを愛し、あなたを買い戻すために、十字架であなたの代わりに死んでくださいました。主のもとに帰り、救いを受けましょう。

(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月15日号(第998号)より転載—

2018年7月4日水曜日

感謝の人になろう

 目は心の窓といいますが、マタイの福音書6章にも、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(2223節)という一文があります。
 かれこれ20年になります、私はこのことば通りの人に出会いました。『獄中からの讃美』の著者マーリン・キャロザース師です。
 最初にお会いした時は、失礼ながら、この人はもう天国に足を踏み入れていると思いました。あふれる喜びと、「Praise the Lord!(主をたたえよ)」と口をついて出てくる賛美の数々は、師を内側からこうこうと照らしているようでした。賛美するマーリンさんそのものが、私たちへのメッセージでした。
 テサロニケ人への手紙第一5章に「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18節)と書かれています。
 すべての事を感謝するとは、良い事だけでなく悪いと思われる事も等しく感謝するということです。
 そして、このようにして感謝を身に付けることは、語学を新しく学ぶことに匹敵するほど困難で、忍耐が必要だとマーリンさんは語りました。
 さて、感謝と賛美を学び始めたマーリン・チルドレンは、患難に対して、おのおの感謝とともに神の前に躍り上がって喜ぶことを実践しています。私は、ぴょんぴょん一筋ですが、幾つもの踊るパターンを持って自在に感謝している人もいます。
 あなたもまた、感謝と喜びの人となることができます。あなたの内側にある喜びや感謝は光であって、人々はその光を求めてあなたの所にやってきます。この光は決して消えることなく、たましいの救いへの道を照らすものとなります。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月8日号(第997号)より転載—