2015年1月30日金曜日

栄光のからだ
 1994年4月19日に私の父は、肝臓がんで天へ帰ってゆきました。55歳でし
た。父なる神さまは、「この病気は死で終わるだけのものではな く、神の栄光
のためのものです。神の子が、それによって栄光を受けるためです」(ヨハネの
福音書11章4節)と語っていてくださったので、悲しみ はありましたが神の栄
光の現れを見ました。
 55歳というのは若すぎると思いますが、誰もが必ず一度は死ぬのです。精いっ
ぱい息を継ぎ、最後まで諦めずに生きようとする父を見て、ああ私も 父のよう
に誠実に自らのいのちに向かい合えばいいのだと、教えられました。
 荼毘(だび)に付す時、私は父の形がなくなってしまうことがつらかったので
す。しかし神は、マタイの福音書6章から語りかけ、慰めてくださいま した。
 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物
になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえな さい。
そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(19
20
節)
 解釈ですが、私の場合、自分の宝とは父のことをいっていました。父が地上に
いるなら、ガンや病という虫やさびが父をむしばむでしょう。しかし、 父を天
国に行かせるなら、そこにはあれほど苦しんだガンも虫やさびもありません。
 私は死者の復活を信じます。そして死者の中から初穂としてよみがえられた、
イエスさまの栄光のからだを、いただける事を信じています。神は、病 も死も
ない栄光のからだをみ子にあって用意してくださっているのです。それゆえイエ
スさまによって、今や「死は勝利にのまれて」いるのです。復活 のご栄光をた
たえましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年2月1日号(第817号)より転載—

2015年1月22日木曜日

十字架の赦し
 ヨハネの手紙第一に、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で
正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてく ださい
ます」と書かれています。
 これは神さまの約束です。自分の罪を言い表すなら、つまり「悔い改める」な
ら、どんな罪であっても神は赦してくださると言っているのです。これ は真実
のことばであり、神さまの前で悔い改めた罪は、神さまは、その罪を二度と思い
出されることはありません。それどころかあたかもそれらのこと がなかったか
のような祝福を神は注いでくださいます。
 ルカの福音書15章に、放蕩息子とその兄のことが書かれています。父の身代を
分けた兄弟ですが、弟は好き勝手をし、湯水のように財産を使ってし まいまし
た。落ちぶれて帰ってくるのを父はあわれみ、子として迎え宴会を催しました。
ところが、兄はそれが気に入らなかったのです。「私には、友 達と楽しめと子
ヤギ一匹下さったことがないのに、遊女に溺れた息子には子牛をほふらせるので
すか」と反発します。
 あの人の方が私よりはるかに大きな罪を犯したのに赦され、そればかりか祝福
まで受けているなんて許せない、そんな憤りを心に抱いたことはありま せん
か。放蕩息子の兄はそうでした。私たちはねたみやすく、また、人を罪に定めや
すいものです。しかし、神さまは赦しの神です。
 イエスさまは、その十字架で流された血潮によって私たちの罪を覆ってくださ
いました。神は十字架の血潮を通して私たちを見てくださるので、あた かも
一度も罪を犯したことのない者が受ける祝福がやってくるのです。こういうわ
けで、あなたもまた、福音を信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月25日号(第816号)より転載—

2015年1月17日土曜日

霊の世界
 徳島の某所に、化け物屋敷とうわさされる家があります。金を背負った布袋が
家に向かって四隅に置かれ、いかにも拝金主義といった日本家屋です。
 この家に住む人は、皆おかしくなるということで有名になりました。居ないは
ずの人影が見えるのはしょっちゅうで、飼われていた数匹の犬が狂い死 にし、
代々のオーナーも皆、奇妙な死に方をしました。
 地元でも話題になり、大学病院の教授は「この家は恐らく特別なガスが立ち込
めていて、そのせいでおかしくなるのだろう」とコメントしましたが、 結果は
分からず、多くの人はその科学的な見方に飽き足らず、「きっと霊がいるに違い
ない」と恐れています。
 聖書には、イエスさまが病のいやしと同じくらい、悪霊追い出しをされたこと
が書かれています。ところが今の時代、悪霊などと言おうものなら、極 端だと
一線を引かれてしまいます。そして、それこそがサタンのもくろみなのです。
 悪霊もサタンも現実の存在であることを覚えてください。というのも、私たち
に起こる幾つかの問題は、本当は霊の問題であるのです。にもかかわら ず、あ
たかもそれが霊の問題ではないようにサタンはすり替えてきます。そして、私た
ちをいつまでもその問題で縛り続けようとします。霊的な事柄に は霊的な対応
が必要です。正しい対応をすることによって解放が訪れます。
 問題にはそれなりの原因とみえるものがあるので、なかなか霊の問題とは考え
にくいものです。しかし、私たちが思う以上に霊に由来する問題は多い と思
います。聖書はそのことを語っています。イエス・キリストを信じ、私たちを
縛る、あらゆる問題からの解放を受けましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月18日号(第815号)より転載—

2015年1月10日土曜日

信仰義認
 もし皆さんが、世界中の人々をすべて救うというプロジェクトを任されたらど
うしますか。もし、救いの方法をお金の有無におくなら、お金の無い貧 しい者
は救われませんし、試験にするのなら、頭の良い人を救えても知恵の欠けた者を
取り残してしまいます。すべての人を等しく救うことは何と難し いことでしょう。
 ならば条件なくすべての人を救えば良い、と思うでしょうが、私たちは皆、神
さまの前では罪人です。そのため、私たちは罪の贖いが必要であり、救 われる
方法が問題なのです。
 このことをご存じの神さまは、「信仰」という方法を私たちに与えてください
ました。信じることによるなら、だれもが等しく救われるのです。
 そして、これが神の知恵だと神は言います。コリント人への手紙第一には、こ
のように書かれています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知 ること
がないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって宣教のこ
とばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」   宣教のこ
とばの愚かさとは何でしょう。それは福音を信じるということです。私たちの父
なる神さまは、私たちを愛し、ご自身のひとり子イエスさ まをくださいまし
た。御子イエスさまは罪なきお方ですが、私たちの罪を贖うために、罪人ととも
に十字架で死なれました。そして、3日目によみがえ りを果たされました。そ
のことは、みな私を罪から救うためであったと信じるなら「救われる」のです。
これを、信仰義認と言います。
 どのような宗教もこれに並ぶことはありません。どのような救いもこれ以外
にはありません。十字架の福音を信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月11日号(第814号)より転載—

2015年1月3日土曜日

天国は、ほんとうにある
 最近、身内の間にちょっとしたブームが起こっています。それは、「天国は、
ほんとうにある」という映画です。牧師の息子である4歳のコルトン少 年が、
虫垂切除の手術で生死をさまよっている間、天国へ行ったというお話です。
 私の父もまた同様に不思議な体験をしました。脾臓摘出と食道切除、胃を裏返
しにしてつなぐという大手術の最中、コルトン君と同じように、心臓は 動いて
いたので医学的には死んだといえないのですが、確かに手術中、体を離れてイエ
スさまの所に行きました。一度死んだのかもしれません。
 父は、気が付くと白い雲に乗って空中を漂っていました。正面には栄光で輝く
天国があり、そしてイエスさまとお会いしました。イエスさまは父に天 国を案
内してくれたそうです。特に、地上と天国との連絡回線についての説明が興味深
かったらしく、父はよく話してくれました。雲の間に金色に光る 回線がくまな
く走っていて、通常の祈りはこのラインを通って届き、緊急の時はこのラインで
す、と見せてくれ、世の通信システムにはないそれはそれ は見事な物だった、
と父は述懐しました。一通り見終わった後、イエスさまは、何か質問はあります
かと、父に優しく聞かれたそうです。
 無いです、と言いかけたところに、父を呼ぶ声がして、今度は自分を見下ろし
ていて、口から体に入り、気が付けば手術は終了していました。
 私には、9カ月でなくなった息子がいます。彼は、エリヤといいます。天国に
はエリヤという名前の子が集まる部屋がある、とある預言者が語ってく れまし
た。地上では生きられませんでしたが、天国で生きています。天国で会える、そ
れが今の私たちの希望です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年1月4日号(第813号)より転載—